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ナイフを探せ

スプーンも忘れずに。

 少年は叫んでいた。


「メイッ………! ここから逃げるんだ!」


 彼女は彼の言うことが理解できない。きっと彼のほうも、自身の言っている言葉を理解しきれてはいないのだろう。


「お兄さまっ……?」


 呆然とした様子で椅子の上に縮こまっている。


 そんな彼女の様子をまともに見ることもせずに、少年は彼なりにいま出来得る分の俊敏さを搾り上げて、彼女の手を掴もうと。


「もうダメだ! ここはダメなんだ! こんな………、こんな場所に閉じこもっていちゃいけない!」


 必死に手を伸ばしている、まるで、なんて事もなく、これはまさにまさしく。


 まさしく、生命活動の危機に(ひん)している彼女に、少年は持てる力と感情の全てを込めて。


「メイ!」


 彼は彼女に手を伸ばしていた。


「あ……」


 瞬間に彼女の内層でいくつもの枝が生える。


 枝の先には葉っぱが、今現在の彼女に結びあげることが可能な未来が霞んで見える。


 葉は存在しない時間の中で呼吸を繰り返し、やがて時間の経過とともに枯れて朽ち果てた。


 もしもあの時、彼女はそんな事を考える。


 あの時、少年の手をすぐに取っていたら。そうなったら、そうしていたら、どうなったのだろう?


 少なくとも、今よりは良い結果になったに違いない。


「あが」


 錬金術師の、起き上がった錬金術師による攻撃。

 その後に追いかけてくる小さな、悲鳴とも呻きともつかない声。


 少年の体が左方向に吹き飛び、回転の中で背中が部屋の机に激突する。

 机の上に会った様々な道具、金属製のそれらが鋭利な音をたてて幾つも落下する。


 反撃、と言った方が事実に即しているのだろうか。


 いずれにせよ、大人の男の足蹴(あしげ)にされている。

 いとも簡単に体を蹴り飛ばされている、少年の姿を見ることなど、なかったように思われる。


「……………………」


 錬金術師は何も言おうとしなかった。


 言葉もない、もしかしたらその瞬間に限定されて、彼の体からは必要であるべき呼吸すらも失われていたのかもしれない。


「お兄さまっ!」


 彼女は悲鳴をあげた。


 今まさに振り落とされんとしている、愚かなる反逆者に向けて然るべき鉄槌を。

 然るべきと、そう信じてやまない。暴力を少年に蹴り落とそうとしている。


 足の裏、それが少年の体を圧迫しようとしている。


 その寸前に少年は身をひるがえし、二度目の攻撃を辛うじて避ける。


 判断の良さ、行動の素早さ。


 それはまるで事前に用意されていたかのよう。決まりきった演劇、アクションシーンを演じているかのような。


 少年の体の滑らかさ、その時の瞳にちらついた輝きに彼女はどこか、芝居じみた予定調和を感じずにはいられない。


 そう、感じただけ。後になってそれはただの思い込みでしかなかったと、彼女は他でもない自分自身に深く納得せざるを得なくなる。


「……………………………」


 錬金術師は相変わらず、何も言葉を使おうとしなかった。


 沈黙のまま、唇を開けないままに、彼は少年に追撃を。


 毎日毎日実験ばかりしていたのにもかかわらず、彼は驚くべき滑らかさで足を巧みに使い。


 床に転がった姿勢から立ち上がらんとしている少年、彼の体を容赦なく再び蹴り上げていた。


 少年もまた声を漏らす。正真正銘、何の迷いも濁りもなく、自身の腹部に狙いすまされた攻撃。


 彼の体に爆発的な衝撃が、直後に熱くドロリと零れ落ちるかの如き痛みが内部に広がる。


 茹で上がったエビのように体を屈折させている、少年はどうにかして、出来るだけ短時間で自らの痛みを消滅させようとしている。


 錬金術師が少年に攻撃するたびに、周囲に散らばっている金属の鋭さが振動と共にキラキラと輝いている。


 少年は耐えていた。

 そうすることで何か、何の意味があったというのだ。


 彼女は誰かに問い質したくなる。


 彼らが答えを得るよりも早く、錬金術師は一切の迷いもなく次の行動に移っていた。


「ぃぃ……ぃ」


 彼女はもうすでに悲鳴をあげられるほどの力も残されていない。


 それは肉体に注ぎ込まれた薬品も大いに関係している、のかもしれないが。

 しかし、それ以上に。


「…………」


 彼女は目の前におきている現実を受け入れることができなかった。


 どうして、どうして少年は殴られているのだろうか。


 錬金術師は何も言わない、黙ったまま、蹲っている少年の上に(またが)り。

 回数として、具体的な数字で測るとすれば、せいぜい十にも満たないほどだったのかもしれない。


 しかし、それらの回数の内に連続した拳は全て、少年から人間らしい感情を奪うのに十分すぎる力を有していた。


「………うう………」


 まさかそのまま無抵抗でいられるはずもなく、少年は精一杯の抵抗を。

 体を極限にまで硬直させて、絶対的強者からの暴力から耐え抜こうとしている。


 錬金術師が不意に、何の脈絡もなく腕の運動を停止する。


 動体によってもたらされる音が不意に止む。どこか奇妙な静寂(せいじゃく)が場面に落ちてくる。


「嗚呼………」


 ようやく錬金術師が口を開いた。


 視線の先、夕闇色の瞳には赤色が。


 少年の体、主に頭部の辺りのどこかしらから排出された、新鮮な体液に彼の拳が染められている。


「赤いな………、どうしてこうも赤いのか………」


 彼は何かに疑問を抱いているようだった。


 何に対して、少なくとも自らの体表に付着しているものの正体についてでは、決してないと。


 地面の上から男の顔を見上げていた、少年は確信に近しい予想をする。


 一体どこがどのように痛むのか、少年は正しい認識をすることができなくなっていた。


 体のなかのありとあらゆる欠陥が収縮してしまったかのように、全身に鈍い電流が走っている。


 呼吸をもう一度、そうすることによって少年の体のなかから熱が蘇る。


 さっき腹から零れたそれが、よもや今更になって再生を果たそうとしているのか。


 違う、少年は思う。


 感情に実体があるはずがない、だとしたらこの存在は。

 自らの内に新しく芽生えたもの。


 少年は自らに跨り、そして逆らいようのない力によって己を屈服させんとしている。


 自分はこの、この野郎に怒っている。


 この感情は今この瞬間の即席などではない、少年はその時になってやっと気づいた。


 少年はずっと、錬金術師のことを、彼女を好き勝手に弄ぶこの男のことを憎悪していたのだと。


「そうだ、それでいい」


 誰かが何かを言っていた。

 低くて掠れている、女の声ではない。


 自らの感情に名前を意味を見出した。

 だが少年の意識はそこでさらなる縮小を余儀なくされる。


 首を絞められている、現実を受け入れられるのに三秒ほど時間を要した。


 こんな時になってまで、きっと彼らはまだ。少し離れた所、場面を見ている誰かは考える。


 彼らはまだ、錬金術師のことを心の底から否定することが出来なかったのかもしれない。


 いずれにしても、彼らが信じようが信じまいが、錬金術師の行動が止まることはない。


「ピュキ」


 少年の喉からそんな音が鳴った。実際には鳴っていないかもしれないが、少なくとも彼の耳にはそんな感じの音が聞こえていた。


「………」


 錬金術師は再び黙っている。


 彼の年相応に節くれ立った指は一切の迷いもなく。

 少年の細く瑞々しい首を、その奥にある気管を圧迫している。


 圧迫、圧迫、圧迫。

 強く、強く、強く。


 彼らの周囲は一連の悶着の末に、小規模な崩壊を起こしている。 


 彼女は何もすることができなかった。


 この選択はあと後になるまで、果てしなく長い、永遠とも取れる時間によって彼女を支配することになる。


 だが彼女がどう思おうとも、彼の選択は変わらなかっただろう。


「………」


 もうほとんど消滅しかけている意識、黒に近い紫色の中にチラチラと粉雪のような光が舞っている。


 この輝きが完全に消えたとき、それが少年にとっての本当の終わり。


「………」


 だけど終わりは来なかった、この空間に少年の終わりは存在してなかった。


「………」


 煌めき、キラキラ、少年は無数の幻覚の中に一つ、一つだけ確かなものを掴む。


 それは机の上に会ったもの、いつもは錬金術師に、祖父に、保護者に危険だからさわってはいけないと。


 そう言い聞かされてきた、彼の使っていた道具の一つ。


「………」


 少年は道具を掴む。鋭くとがった、ナイフを指に、手の中に。


「………」


 錬金術師は少年のことをじっと見下ろしている。

 それも当然だろう。この男は、祖父はこれから殺そうとしている相手から目を離せられない。


 少年は確信していた。

 祖父の用心深さ、そして集中力の深さを信じていた。


「………」


 彼らの間に言葉は必要ない。

 男は子供の首を絞めて、少年はナイフを握る。


「あ」


 赤色が腕をつたい、重力に従って肩を濡らし、そのまま床に染み込んでいく。

 椅子から崩れ落ちる格好のまま、床にへたり込んで彼女はただ音を聞いていた。


 反応で指が首の皮膚から離れる音。すかさずもう一度ナイフの切っ先が、腹部の肉を裂く音。


 音は止まらない、ナイフは動き続けた。


「ああ……」


 彼女は目を閉じようとした、そうでもしないと本当に、自分の中で決定的何かが消滅してしまうような。


 そんな感覚に囚われている、感情の檻は彼女を永遠に離さない。


 錬金術師だった祖父の体が落ちる。


 床に転がったそれに彼が跨って、手の中のそれを握りしめたまま、力いっぱい振り落している。


 何度も、何度も、何度も。


 やがて祖父の体が動かなくなった、それからしばらくしても彼は動きを止めようとしなかった。


「お兄さま」


 ついに、彼女が彼の体を、体ごと包み込む格好で制止させる。


 その時まで、少年はナイフを離さなかった。


 気がつけば、少年の来ている服は祖父の体から零れた液体で汚れ、それらは空気と溶けて赤茶色に変色していた。

フォークは働いている。

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