あどなーじどぅい
ロシア語である日。
隠して少年と少女はついに扉を開き。
して、そうなった所で彼らの生活に何か、何かしらの劇的かつ激烈で激甚であったりだとか。
そのような変化が訪れたわけでもなく、あくまでも彼らの生活はその後もずっと同様に。
彼女は完璧な魔女になるための実験を、少年はいかにも少年らしく。
ただ少し、幾ばかりか交友関係に閉塞感はあれども。
彼らはいつも通りの日常を送っていた。
ただ、あからさまに分かりやすい変化を一つ。なんとか、ごまかし程度にあげるとすれば。
「お兄さま、今日はどこにつれて行ってくださるの?」
「今日? 今日はなあ、近所の川にでっかいか目を見つけたからな。そこに行こうや」
彼女が彼を呼ぶ方法が、彼が彼女にどう呼ばれているか。
そこに少しばかり、砂糖一つまみ程度の変更がなされていた。
「なあ、お前らどうしてそんな風にしとるん?」
いつの日か、とりあえず変更後のとある日。彼らの保護者である男が眉間に微かなしわを寄せつつ、彼らのどちらともつかずに質問を投げかけていた。
「どうしてって」
実験の後の痺れる痛み、昔はあまり感じるはずの無かった、脳味噌が直接硬めの寒天にくるまれているような。
そんな不快感、ゆえに彼女が彼の質問に答えあぐねている。
「だって、俺の方が体おおきいんだもん」
沈黙を受け入れざると言った感じに、男の質問に答えたのは少年の方だった。
「外歩いてるとさ、みんな俺らのこと兄妹なの? って聞いてくるんだもん。聞かれるってことは、みんな俺らのことをそう見ている、ってことでええんやろ?」
彼は床に寝そべっていて、何かに熱中している。
痛みから復活して、体の感覚を取り戻しつつある彼女は彼の、その手元に広がる色彩に目を向ける。
「きれいな絵ね」
少年は絵を描いていた。
指は水彩絵の具を掴んでいる、それは近所で不要になったもの、誰も使わなくなって、捨てられそうになったものを譲ってもらった。
「これなあ、今日見た夕焼けと飛んどったコウモリ描いたんよ」
少年が何のためらいもなしに、それよりは自身の作成した作品をとにもかくにも、他の誰かに見させたいという欲求のままに。
寝っころがっていた姿勢から素早く体を起こして、男と彼女がいる方へと近寄ろうとする。
「来るな」
しかし男はそれを許さなかった。
じっと、暗い青色の瞳で少年を見下ろしている。
少女の視界に怯える彼の姿が見えた。
「爺ちゃん………?」
今まさに見せようとしていた作品を、寂しげに胸の前におさめる。
描かれているのは先ほど彼自身が説明した通り。
暮れつつある夏の夕暮れ、今まさに太陽は沈みかけて、天空からは夜の気配が近付きつつある。
一日のうちのほんの一時、瞬間の光景。それを水彩画特有のパステルな色彩によって、子供ながらにも見事なタッチで表現している。
「実験はまだ途中で、終わっとらへんから。………だから、もう少し大人しくできるか?」
だが男は彼の作品にまるで目もくれず、じっとその色の薄い瞳の中を見つめて、その奥にある何かに触れようと。
そんな、静かに強力な視線を向けている。
「それはいけないことだな」
男が、錬金術師として生きている。男が少年に話しかけている。
どこから? それは確かに目の前から聞こえているはずなのに、なぜか視界は音を上手く掴むことができないでいる。
「これはどうでもいいことだ」
はたしてこの声は、錬金術師のものなのだろうか。
分からない。何にしても、この声は自分のことを否定していると、少年は言葉の中で判断する。
「どうでもいい、全部無意味だ。塵だ、滓だ」
否定されいた、誰にも受け入れられていない。
思えばそうだった、少年は改めて思い返す。
どんなに頑張っても。美しさを求めた絵を描いて、美味しい料理を作ろうと工夫したり、勉強も………はっきり言って優秀とは言えなかったが。
少年はいつだって錬金術師の、自身の保護者である彼に認められたくて努力していた。
だけど、いつでもどんな時でも、彼が彼を認めようとはしなかった。
大きな声で罵倒されたりだとか、あるいは生き物として生きていくための、必要な行為を放棄されただとか。
そんな事では、決してない。
彼は保護者としては非常に優れていた。
だけど、それだけだった。
彼は決して、少年を一人の人間として見ようとしていなかった。
確信が少年にあった訳ではない、実際に言葉で問い質したことも一度もない。
それでも少年は静かに、枯れた大地に水が染み込むかのように、日々の中でゆっくりと確実に事実を、自身のものとして確立していった。
錬金術師は少年の存在をみとめていないのだ。
今はこうして、自分の孫として世話をしている。
だがいつか、いつの日か。少年は毎日怯えていた。
それでも期待が無かったわけではない。
胸の内には希望がきちんと、泥の中に眠る蓮の種のように存在していた。
少年は絶望などしていなかった、彼には信じるものがあったのだ。
だが、だけど、しかし。
ああ。
「嗚呼………」
ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、
ある日、ワンデイ、あるいはアドナージドゥイ。
「無意味だった、全ては無意味だった」
少年はだいぶ成長して、そろそろ完全に無垢なる幼さから脱し、そろそろ大人への前段階を不満としている。
そして彼女の方はと言うと、相変わらず体の成長はおよそ人間らしさの欠片もないほどに、ゆったりと静止を保っている。
変わらない日々、日常の中に暮らす時の連続性。
今日もその一部にすぎない、少なくとも朝起きて、朝食を摂り、夕刻家の玄関をくぐった時。
その時までは何も変わらない、通常と普通の一部でしかなかった。
そのはずなのに。
「失敗だ」
いつだってどんなときだって、決定的な出来事が起こるのは突然のことと思えてしまう。
これは一体どういうことなのか。
時刻は夜を塔の昔に迎え、さらに深い闇、深夜へと差し掛からんとしていた。
「悲しい、俺は悲しいよ」
少年はもうとっくに眠ってしまっただろうか。
今日も一日独りぼっちで、自分に許される範囲に見えるすべての美しいものを求め、それを紙の上に描き続ける。
生きるための一般的知識は、錬金術による宿題課題等々より学び。
生真面目な彼のことだろう、今日も夕飯時以前には必要最低限の勉学をし終えて。
そして、そのまま、いつも通りに通常が続くであろうと。
そう信じて、彼はすでに睡眠に身を沈めているに違いない。
「君は失敗作だ、だから………廃棄する」
だから助けを求めることは出来ない、そう彼女は即座に判断していた。
「君の魂は一定のレベルにまで結合を果たすことに成功した」
錬金術師は彼女を見下ろしている。
部屋の中はいつもよりも少し暗い。天井の蛍光灯がひとつ切れかけていて、弱々しい光は時々不規則に点滅をしてしまっている。
そう言えば、近いうちにホームセンターで新しいのを買っておかないといけなかった。
そのはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。
「だがそれ以上は無理だった、どうしようもなかった。俺達はラインを、線を、境界を超えることは出来なかったんだ」
魚の呼吸のような明かりの下、錬金術師は滑らかな口ぶりで彼女に説明をしている。
その顔は影になっていて、いつも通り椅子に座っている彼女からは、そこに浮かんでいる表情を窺い知ることは出来ない。
「そうですか」
陰影の影響で、錬金術師の短く切り込まれた毛髪はいよいよ黒に近く、夜空そのもののような色合いになっている。
ように見える。
「わかりました」
そんなことを、どうでもいい事を考えて、彼女は彼の言葉に納得をしていた。
スプーンはまだ生まれないそうです。




