一人称はいつ変えましたか?
成長過程に必要なこと。
自分に分かることは幾つかあった。
逆を言えば片方の指で数えられる位の、その程度のことしか。
まず、この部屋。男の実験室であるこの白い部屋、彼女はそこに閉じ込められている。
生活感などチリ一つとして存在していない、ただの作業場のうちの一つ。
彼女は自分が知っている範囲の限り、ずっとその白い実験室の中に居て、居続けていた。
本と資料と、紙に殴り書きされたおびただしい量の数式。
そして一脚の椅子、彼女はいつもそこに座っていて。
彼女の周りにはまるで獲物を捕らえた蜘蛛の巣のように、薬液をみっちりと詰め込んだゴム製の、柔らかい管が取り巻いている。
自分が記憶している範囲の中において、彼女はずっとその椅子に座り続けている。
体にくっ付いている管は、男による実験内容によって増えたり減ったり。
日によっては何十本もの管が彼女の肉を刺していた。その様子はまるで、腹を空かせたタコに捕食される哀れなアワビのようだった。
自分はそんな事を考えていた。
はて? 考えるとは。自分はその時タコのことやアワビが一体何なのか、知る由もなかったはず。
そのはずだった。
しかしその辺についてはさして問題ではない、それよりも自分の頭のなかは彼女のことでいっぱいで、一杯一杯で仕方がなかったのだ。
ああああ。自分は彼女の名前を呼ぼうとしていた、だが呼ぶことができなかった。
言葉を発することができなかったのだ。声が出ないだとか、そういう訳ではない。
そもそもとして、基本の発音すらその時の自分には不可能なのであった。
出来ないこと、それは自分に余りにも沢山ありすぎている。
しかしながら、その点において自分と彼女は一つの共通点があった。
「ねえおじい様」
それは何度目かの自分の訪問。
男がいつも通り、もはや日常の一環として実験を行おうとしていた。
その際。
「私の体は、一体いつになったらおおきくなれるのですか?」
彼女が何の前触れも脈絡もなく、男に向かって質問を投げかけていたのだ。
「それは………」
彼女の質問に対して男が考える。
これは自分だけが気付いていることなのだが。
男はどうやら何か考える時、そしてそれを言葉にする時に、少し間延びとも思えるほどの沈黙を口の中に含む。
本人も気付いているのかいないのか、取るに足らない些細なクセがある。
と、そのようなことはどうでもよくて。
彼は? 彼はその時なんと言ったのだろうか。
自分は思い出そうとしていた。だけど思い出せなかった、あるはずの記憶に濃くて暗い隅が塗りたくられたかのように。
ちょうどその辺りの情報が何か、別の凡庸とした事柄によって上書きされてしまっている。
ただ一つ確かなこと、確認の作業を必要とせずに理解できたことは、彼女の体は全く成長していなかった。
その部屋には時計が置いていなかった、置いてあったとしても自分や、ましてや彼女に見える位置に男はその道具を置いていなかった。
なのでその部屋にいる間に、自分と彼女に時間の経過を図る手段は与えられていなかった。
だからはっきりとした、確実な数字による記録は残されてはいない。
だが、そうであったとしても。
自分の記憶においてほぼ間違いなく、彼女の体はある一定のサイズより増幅をすることはなかった。
「きょうもあしたも、あさっても。私の体はずっと土曜日のまま」
いつだったか彼女がそんなことを言っていた気がする。
彼女は良く何かを話していた。
いつからだっただろうか、それがただの独り言などではなく、彼女が自分に語りかけている言葉であったことを。
自分がそれに気づいたのはいつだったか、自分自身はそのことを記憶していない。
ゆっくりと過ぎていく、体の成長の目まぐるしさゆえに意識が置いてけぼりになっている。
「日曜日もこないし、月曜日なんて夢のまた夢ね」
彼女の体は確かに成長しなかった。その代わりと言うべきなのか、そもそも生き物として当然の事なのだろうか。
彼女の意識はいつでも、どんな時だって大人然としていた。
だからこそ、体と舌の未熟さと脳細胞の主観の違いに彼女は常に苦悩していた。
そんな気がする、と自分は思っていた。
いた、と言うより思えるようになっていた。
「ゆめはいつか叶えないといけないじゃん」
自分もまた時間の経過にともない、全ての生物と共通して、着実に肉体を成長させていた。
「なんだかたいへんそう、ずっと休みでいいのに」
自分がそう言った、その言葉には何の意味もなく、大した思考を込めていたわけではない。
「おお、王子よ。そんなことを言っちゃあいけないよ」
だが男はそんな自分の、彼のいった言葉に対してそれはもう生真面目そうに。
それでいて大人の余裕を務めて失わぬように、気軽そうな声で反論の意を伝えようとしていた。
「人は成長しなくてはならない。王子はやがては王の跡目を継ぎ、未来に約束された王にならなくてはならないのだから………」
「ふうん?」
小さな、男の膝の下よりも小さな体の自分が、彼の言う供述について解ったのか解らなかったのか。
とにかく納得のいかないように首をかしげている。
「大きくなったわね、王子様」
彼女が、その通りに大きくなった自分に、もうすでに少年の域に達しつつある彼に対して笑いかけている。
「そうかな?」
彼女に話しかけられて、それが彼女にとっての最大限の賞賛であることも気付かないままに、少年は椅子の前で自身の体をグルリと見渡す。
「あ、でも確かに………、そろそろお前の背を追い越すかもしれないな」
何の嫌味もなく、あるはずもなく、少年は彼女に屈託なく笑いかけている。
はたして外ではどれだけの時間が経過したのだろう?
長い針と短い針の周回移動と相談するまでもなく、少年の姿そのものが彼女にとっての時の経過であった。
「なんと言ってもぼく………、じゃなくて。えっと………、俺、はもう八歳だかんな。よちよち赤ちゃんとは違うんやって」
得意げに胸を張る少年。
「そうね、俺ちゃんはなんでもできるものね」
彼女はそんな彼の、つい先金発見したささいな変化を少し茶化して。
「……あら?」
白い蛍光灯の下で彼の膝小僧は暗い影を落として、そこに一つの怪我があることに彼女は気付く。
「あらあら、お膝にケガがあるじゃない」
「ああ………、これ?」
少年は何かまずいものでも見つかったしまったかのように、眉間に少ししわを寄せて膝の幹部を隠そうとする。
「今日外で遊んでたら、ちょっと転んですりむいただけだよ」
こうして自分に都合の悪いことを隠蔽しようとする。
いかにも子供らしくない方法を身に着けている。彼女は少年が男からもたらされている影響に、なんとも言えぬ温度のある溜め息を一つ。
「なあ………」
そうして、いつものとおり椅子に身を沈めようとしている彼女。
少年は彼女に対して何か、おずおずとしながらも真っ直ぐな瞳で一つの提案をしようと。
そう決意をきめていた。
「ずっとそこに居て、つまんなくないか?」
少年は全身に力を込めている。
その言葉を発するのにどれだけの時間を要したのか、それは彼にしか分からぬ重要性をはらんでいる。
「え?」
彼女は最初、彼のいっていることが理解できないままに、まばたきを数回ほど。
「いいえ? なにもつまらないことはありませんわ」
考えるまでもなく、彼女は思うままのことを答えとして、少年に伝える。
「ここにいれば魔女としての知識だけではなく、その他の。人間として、女性として生きていくための大事なことを、おじい様にたくさんおしえてもらえますからね」
嘘も偽りも、何も無い。紛れもない、彼女にとって真実の言葉。
教育プログラムをどれだけ効率的に、この検体に組みこませるか。
少年と彼女の保護者、つまりは錬金術師にとってそれは黙過考慮すべき事柄。
それと同時に、彼女にとって何よりも実行すべき、大事な事であった。
「………、外で遊ぼう」
だがそれは、少年には共通しなかった。
「え?」
もう一度なにか、子供らしい質問でもされたものかと。
彼女がそう思い込んでいる。その隙に少年は躊躇いなく、よく日に焼けた腕を彼女に伸ばしていた。
「一緒に遊ぼうぜ。こんな狭い場所に閉じこもってないで、もっと楽しい所に行こうよ」
「あ……」
ちょうどタイミングが良かったのかもしれない。
その時は錬金術師の実験が一区切りついていて、彼女の体をその場に縛り付けるものは錆びついた椅子しかなかった。
つまりは、八歳の少年にも簡単に溶けてしまう拘束であり。
「行こう、ねえ………扉の外に行こうよ」
少年は精一杯、彼女を導くために賢明な大人らしさを求めている。
求めていながら、それでも瞳の奥には子供らしい溌剌とした、夏の木々のような瑞々しさを隠し切れないでいる。
彼女は迷った。ちゃんと迷ったと、彼女はそう思いたかった。
何故ならあまりにも、少年の要求に対して自身が何のためらいもなしに、すんなりと許諾できてしまうことに。
彼女は困惑や恐れを抱く、それと同時に、それ以上にどこか胸のすくような爽快感を覚えている。
それもまた確かな、決定的な事であって。
「ええ、わかったわ」
要するに何も考えることもない。
彼女にとって少年からの願いは、何よりも叶えるべきこと、自身の生命以上に尊ばれるべきことであるのだ。
「みらいの王様のいうことは絶対、だものね」
彼女は少年の手を取り、少し息を吸って、椅子から立ち上がる。
「なあ、その王様ってのもやめてくれへんか?」
自分の要求に、彼女が予想以上に快諾してくれたこと。
そのことに喜びを表現したくてたまらない、だけどあんまり正直に喜ぶのも恥ずかしい。
「なんか恥ずかしいわ」
いつの間にか、いったいどこで身に着けていたのか。少年は彼が暮らしている土地独特のイントネーションで、頬をほんのりと赤くしている。
「それじゃあ、なんてお呼びしましょうか」
あれだけ自分の一部として認識していた、器具はあまりにもたやすく自身の体と乖離している。
そのことについて考えている彼女。
その白い手を引いて、少年は誰にも、この世界の誰にも見つからないように。
だが悠然とした足取りで、静かに扉の外へと彼女を誘う。
しかしさして重要性は無いように思われます。




