彼は見た、彼は感じた、あとはどうしよう
どうもこうもしない。
彼が言うにはこういうことらしい。
「王………、とは言うものの、今は見てのとおりただの赤ん坊でしかない。なにも出来ない、他人からの施しが必要となる弱い、綿よりも弱々しい存在でしかない」
その言葉に対して、彼女はこう言った。
「あら、おじい様。綿素材はそのみために反して、とてもやさしく頑丈なのですよ?」
そういう話ではないと彼は思ったに違いない。
それは魔法使いも同様のことではあるが、しかし彼女の心境がそれだけの言葉に収まりきらないものであることも、魔法使いにはじゅうぶん理解できていた。
「強くて、ああ……なんてかわいいんでしょう」
彼女はまさしくその赤ん坊に、王ということは男の子なのだろうか、彼に心の底の底まで魅了されているようだった。
体に管を繋ぎ直して、しかしそれで流れた血が戻る訳でもなく。
彼女は乾いて茶色く変色し始めている体液にまみれた腕をが伸ばす。
「ぅ………」
その指に反応したのか、それともただの生理的な、原始の生物的な反応のうちの一つにすぎなかったのか。
彼女の赤い瞳と、赤ん坊の赤みの強い眼球が視線を交わらせる。
「………」
先ほどまでくずれかけのわらび餅のようにぐずっていた赤ん坊は、彼女の顔を確認した途端にコロリとその表情を変化させている。
山あいにひと時生じた水溜まりのように静かな瞳。
先ほど錬金術師が説明したとおりに、まだ生まれてわずかの時間しか経っていないのだろう。
視力すらも獲得しきれていない、未熟な眼球は生き物、とりわけ人間としての雑念から遠く離れている雰囲気がある。
「きれいな目……、キラキラひかる宝石みたい」
ルビーのような瞳を輝かせて、彼女はついにその指を赤ん坊に触れさせようとする。
「来たる時が来るまで、それまでに君には色々と学ぶべきことがある」
しかし、彼女の鋭い爪が生えた指先は赤ん坊の肌にかすりもせずに、錬金術師はおくるみごと彼を彼女から離してしまう。
「あ……」
彼女は寂しげに息を吐く。
伸ばした指はその鋭利さを虚空に漂わせている。
彼女は桃色の柔らかい唇を少し開いて、その隙間から言葉を発そうとする。
だが言葉は実体を得るまでもなく、彼女の喉元で存在しないままに小さく圧殺される。
「……」
彼女が椅子の上で体を小さくしている、両の指は必要最低限の肉だけを内包している腹の前でカチカチと爪を噛みあわせている。
彼女は何を言おうとしていたのだろうか。
本人が沈黙を決めてしまった以上、それを知る術は誰にも与えられないし、ましてや単なる傍観者の魔法使いにその資格が存在しているはずもない。
だが、そうであったとしても。……いや、彼らの感情を肌で感じることのない、ただの赤の他人であるからこそ。
彼女の赤い瞳に宿る、もしも記憶が確かならば、彼女にとってそれが生まれて初めてのことである。
彼女にとっての、肉体的にも精神的にも絶対な支配者であるはずの、錬金術師に対して向けられた反抗期の傾向であった。
「大丈夫、またいずれ………定期的に面会の機会をもうけよう」
彼女の視線に気づいているのか、いないのか。
どちらにせよ今の錬金術師の主たる集中力は自らの腕のなか、いつの間にか気丈にも睡眠行為に移行している赤ん坊。それ一つに集まっていて、それ以外には何も見えていないようである。
彼もまた、それまでの彼女の人生において、まるで不動の大地のような存在感を常に放っていた彼ですら。
腕の中に眠る一つの生命の前に、ただただ戸惑いを隠しきれていない、どこにでもいる一人の男性にしか見えない。
「くう、くう」
彼と彼女がそれぞれに、自身にとって生まれて初めての事象、感情に戸惑っている。
困惑の本流がそれぞれの方向に流れている、そのさなかで赤ん坊はまさしく我関せずと、穏やかそうに寝息をたてている。
白い、錬金術師の研究室の光の下。
赤ん坊のくるくるとした赤みの強い巻き毛が、細くのびやかな毛先を空気の中に。
あまりにも無力にサラサラと揺れている。
記憶がいつから始まったのか、それを覚えている人間がどれだけいるのだろう?
覚えていたとして、はたしてそれが一体どんな意味を、人生と言う行為において何の理由を見出せるというのか。
少なくとも自分にとっては。
どこかの誰か、夢のように曖昧な意識が考える。
自分にとっては記憶など大した意味は無い、輝ける理由も感じられない。
記憶は、つまりは思い出ということになるのだろうか。
そんなものは所詮脳の、神経と水分の他に何の魅力もない器官の、内部に蓄積される電気信号の一つ。
ただそれだけのこと。
自分はそう思っていた。
思っているはずなのに。自分は考えている、どうして今になって、こんな時にこうも記憶が鮮明に思い出されているのだろうか。
原因は明確に、なにか答えらしき物体が身近にあった様な気がする。
だが自分はそれを思い出すことができない。
何故なら自分の意識は他の思い出、かつての記憶に基づいた映像作品にすっかり集中力を奪われていて。
他の事を考えられそうにない。考えている場合ではないと、体の奥底にある欲求らしきものがずっと訴えかけている。
自分が色々と考えている間にも、目の前の光景は時間の流れと等しい平等性を発揮して。
ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、ああああ、
自分は言葉を発していたような気がする。
だがそれは正体を得ない、およそ人間らしくない、獣の唸り声に等しい音でしかない。
はたして自分はその部屋の中にいたのだろうか?
あの広くない、かと言って狭苦しいとも言い切れないほどの。中途半端なスペースしかない、あの白い実験室。
はたして自分はそこにいるのだろうか。不意に誰かに確認したくなって、自分は誰かに話しかけようと。
した瞬間に、ああ、あああ、ああああ。誰かの悲鳴が聞こえてきた。
女の悲鳴、それは間違いない。
自分はそう考えている、何故そう思ったか?
自分はその声の正体を知っていたからだ。
自分が瞬きをしている、はたしてその主観が自身によるものなのか。
あるいは他の誰か、誰とはつまり誰なのかもわからない、自分とは関係の無い存在の視点なのか。
自分にはわからなかった。
仮に分かったとしても、その時の自分にとってそれは大した意味を持たない。
目を開いている、おぼろげな視界。
そこでは実験が繰り広げられていた。
大人がひとり、背中の大きさや髪の短さで自分はそれを男であると判断する。
「回路が上手く繋がない、………次のパターンを試してみよう」
大人の男は悩んでいた。
どこか苛ついているように、自身の目の前におきている事象に対して忌々しさを。
男は濃い青味がかかった毛髪をガリガリと掻きむしりながら、手に持っているノートに鉛筆で何かを書き込んでいる。
それはきっと彼の、彼が制作しようとしている作品について関係しているもの、自分はそれを知っている。
一体何をしているのか、何をもって作品を制作しているのだとか。
それを知りたい、知りたくてたまらない。
さあ見るんだ、見やがれ。
…………………………。
はて? 自分はそのような事を考えただろうか。
いや、考えてなどいない。これは気のせい、ちょっとした、すぐに忘れ去る違和感。
そんな事はさておき、と自分はもう一度目を開けて。
そして世界を見る。
その時の自分に出来た精一杯の行動で、目の前に繰り広げられている光景を目で見ている。
そこにはもう一人の、男以外に女が一人いる。
「ああ、ああ……」
女は苦しんでいた。
その小さな、白くてフワフワの体はいくつものチューブに痛々しいほどに貫かれていて。
彼女は汚く、所々に赤い錆のこびり付いた椅子の上に座っていた。
まるで生まれた瞬間からその椅子と、何本もの細い管と共にいたかのように。
自分の居場所はそれ以外に存在していないと、そう信じきっているかのように。
彼女は自分の見ている世界の、ずっと、永遠に変わらないかと思われる場所に居た。
夢と狂気の庭。




