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いつのことだろう思い出してごらん

あんな事もこんな事も。

 ルーフは怯えていた。この時ばかりは真っ直ぐに、何の捻りも工夫もなしに素直な恐怖を抱かざるをえなかった。


 笑っている、彼が笑っている。笑顔は弾けんばかりに、感情は音を伴って彼の周囲に真夏の花火のような激しさを振りまいている。


 笑って、笑って。

 笑って、笑って、笑っていた。


 笑い続けて、もしかしたらこのまま彼の喉は、健康的な血液の気配が香り立つ呼吸器官が破裂してしまうのではないか。


 ルーフはそんな恐怖に駆られて、思わず大人からサッと目を逸らしてしまう。


 だけどルーフはそれを見続けるべきだったのだ、彼自身がそのことを深く、痛みによってその身に正しさを刻みつけられる。


「………………」


 いつの間にか沈黙は何事もなかったかのように、素知らぬ顔で飄々と空間に戻って来ていた。


 呼吸音がひとつ聞こえたような気がしたが、それはただの風の音だったかもしれない。


「言葉は無意味だ、全ては昨日に吸い込まれて跡形もなくなる」


 先ほどの感情の爆発がまるで嘘のように。

 ………いや? そもそもあの声はただの幻聴ではなかったのか。


 ルーフは本来あるべき確信ですらあやふやに、ひんやりと温度を失った粘液のような不快感がふくらはぎから太腿にかけて這い登るのを錯覚していた。


「言葉はしょせん虚構にすぎない。………人間の創作物は全てが嘘であり、そこに実存する意味などないのだから」


 白色と基調として全体的に柔らかな色彩にデザインされている部屋。


 四方のどこにも外界と繋がる窓などは存在しておらず、その上ルーフから見える視界においては廊下への扉すらも確認することができない。


 つまりは、ルーフの見ている世界にとっては完全なる密閉空間として認識することが可能になる。


「だとしたら我々は何を信頼するべきか、君にはそれが何かわかるかな」


 豆腐か、それとも白い角砂糖を内側から浸食すればこんな空間が出来上がるのではないか。


「嗚呼………、聞くまでもない。その答えは君自身が誰よりも、この世界の何よりも知っているのだから」


 下らない空想に浸っている、ここへ来て自身の有るべき子供性が発揮されているというのか。

 ルーフの中の冷静さがもはや打つ手なしと、存在しないカミサマに願いを乞うている。


 自身の中の幼さに嘆いている、少年の向かい側で大人は腕を動かし。


 迷いなく進む指先は自らの着用している上着の間に滑り込み、その内側からなにか、一つの大きな煌めきが。


「ナイフだ」


 ルーフは見たまんまの意見を、それは、その武器は自分にとってとても見覚えのある一品であったのだ。


「ああそうだ、君のナイフだよ」


 ルーフは少年に向けて決定的な一言を、彼が反応を示すよりも早く、ルーフはその鈍く灰色に輝く刃を手の中でひらめかせ。


 そして自らの手首に、陰影の影響なのか微かに色素が茶色く沈殿しているかのように見える。


 その一部に、自らの体を何の躊躇もなく刃を撫で付けた。


 ぐしゅり。百円均一のハサミで頑丈な画用紙を切り裂いたかのような、そんな感じの音が鳴った気がする。


「うわあ」


 ルーフは驚いた。

 

 ここまで来ると人間の感情というものはどうやら、人間と言う生き物である以上コップの水のようにいつかは尽きるものだとか、そんな単純なものではないと思い始めていた。


 切り刻まれた肉の間からは当然の事のように、いたって当たり前の事象として赤色の、ヘモグロビンが大量に含まれた血液がポタポタと。


 大人のルーフの体液はあるべき場所を失って、その血の気の少ない肌のどこにそこまでの量が内包されていたというのか、思わず訝しみたくなるほどの激しさで数秒ほど滴り落ち。


 やがては身体の必然的な気候の働きによって、落下の勢いはさして時間もかからぬうちにポタ……ポタ……、と緩慢に変化していった。


 自分の体をあんなに深く切りつけて、はたして彼は痛みを覚えたりしないのだろうか?

 少なく外見上は、表情を見た所によればそんな、いかにも人間らしい表情を匂わせているようには見えない。


「記憶において意識によって紡ぎだされる情報は、おおよそにおいて信用に足らぬアバウトさを帯びてしまうものだ」


 傷つけたばかりのそこに何かリアクションをするまでもなく、大人のルーフは刃物を使う前とほとんど変わらぬ挙動で少年に語り続けている。


「そうなれば後に残されるべき我々の信ずるべきことろは、結局は肉の記憶の言うことになるのかな。これは意見の分かれるところだが………。いや、脳味噌も人の肉の一部と言う考えによれば、記憶もまた真実に近しいという意見もあってだな」


 これもまた彼にとっては作業の一部でしかないのか、少なくとも故郷にいたときの祖父はこんな事を一度も………。


 ………。


 一度も?


 それまで見ようとしていなかった、実際にはきちんと視界に確認できてはいたが、あえて意識の内に入れようとはしていなかった。


 そんな記憶が、肉に刻まれた情報が少年の頭の中でひらめいた。


「思い出してもらおう、君が君出会った最後の瞬間まで。我らが望むのは新しい世界、明けることのない夜、晴れることのない灰色の空だ」




 


 あはは、あはは、と。

 笑って受け入れられたら、そうすればいいのだと思っていた。


 だがそれは嘘だった、誰に向けたものでもない、自分自身に言い聞かせるための言い訳。


「あ、あ」


 女性の声、あるいは子供の声にも聞こえなくもない。


 高く細い音が悲鳴をあげようとしていて、それを必死に堪えるために、呼吸さえもままならないほどになっている。


 どこかで声がした。


「おい、……おい! これはどういうことなんだ?」


 男性の声、声変りをとっくに通り過ぎた気配の、それは悲鳴をあげようとしている本人にとっては聞き覚えの無いものだった。


「おかしい……何かがおかしい、どうして対象者以外にも影響が?」


 男性の声はひどく狼狽していて、それは一重に自らの起こした行動が、己の予想を超えた地点にまで進もうとしている。


 彼は魔術の広がり具合に、いかにも専門家らしく知識に沿った驚愕に晒されているのだ。


「落ち着いてくださいセンパイ」


 男性の声に反応する形で別の声が、これは女性ものだろう。


「あなたが慌てた所で、この状況が変化するわけでもありませんしい」


 間延びした声、だが穏やかさは微塵も感じられず、むしろ伸ばされた語尾には道に対する恐れによる震えが残響を及ぼしている。


「おいおいおい、冗談じゃねえぞ」


 別の男性の声が、これは最初のそれよりは聞き覚えのある、耳に馴染んだリズムがある。


「ええ加減にせえよ、こっちはあんたらを信頼したってのに。このままとろくさいことやっとたら……」


「まあまあ───君、落ちついて」


 もう一人男性の声が、これは怒っている声よりも幾らか落ち着いていて、雰囲気的にも大人の感じがしている。


「君が怒ったってしょうがないでしょう? ほら、彼女たち顔色は……結構ヤバいことになっているし。ああでも、とりあえず倒れている感じじゃないから」


 どうやら彼らは一触即発に、このままだと一つの投石で大乱闘が引き起こされんと。

 そのぐらいの緊張感が場を支配している。


 そしてその原因は自分にあると、二人の人影はおのずと自覚せざるをえなかった。


 このままでは、こんな事をしている場合ではないと焦る気持ちが。


「落ち着いてください」


 その心に共鳴した、なんて都合のいいことが起きたわけではない。


「落ち着いてください」


 それもまた男性の声で、しかし人間の声にしてはどうにも違和感のある。


「きらめきは血飛沫ともに彼女はいずれ答えを得るのでしょう沈黙は重々しく目を覚ましひらめいて攪拌される」


 まるで壊れたマイクででたらめに離しているかのような声は、じっと人々に沈黙を乞い続けていた。


 彼の声を聞く、すると自然と口の端が上に向かうのを自覚した。


 理由は特にない、あったとしても意味などない。


 あるとすればそれは、思い出だけに残されている。

絵が上手かったら、ピアノが弾けたら。

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