素敵な世界を作りましょう
壊れたねじを回します。
魔術師によってカクテルされた赤色の液体は魔法陣の上に、液体をふりかけられた魔法陣はさも当たり前かのようにそれを速やかに吸い込んでいく。
乾いた大地の上にジョウロで水を振りまいたときのように、飲食店の硬い床の上に在るはずの魔法陣が、いかにも魔力的な液体をグビグビと飲み干していっている。
「アルコールの匂いがする」
子供の、いかにも子供らしい高い声がぽつりと独り言。
それはキンシの声で、未だに左手でメイの指を掴んでいる魔法使いは、唐突に出現した薫香に対して思うがままの感想を一つ。
「そう? 私はお紅茶のにおいににていると思ったけれど……」
魔法使いに体を少し預ける格好で、メイはその言葉に少しだけの反論をする。
「酒でもティーでもなく、これはただの、魔術に必要な材料でしかない」
彼女たちの形容を受け入れるまでもなく、エミルはたったいま傷つけたばかりの幹部にクルクルと指を這わせ。
そうすることで赤い傷口があった所は、その体液とは別の種類の赤い布によって外部の刺激から密封されていた。
「さて、これで下準備は一通り終わりましたねえ」
エリーゼは先輩魔法使いからノートパソコンを受け取りつつ、出来上がった術式をにこやかに一瞥する。
「準備といいますか、下ごしらえというべきか。うーん、どっちでしょうねえセンパイ?」
「んなもん、どっちでもええわ」
見知った間柄ゆえにエミルは少し油断した口調に、しかしすぐに元の緊張感を取り戻し、次はメイの方にそっと視線を向けてくる。
「さて、この後にどうするべきか。あー……、それは君にならもうすでに知っていること、だよな?」
直接的な表現を言うことに抵抗があるのか、そうだとしてもこの瞬間に相応しい形容詞を思いつけるはずもなく。
捉えどころもなく、クルリと彷徨っているエミルの視線を視界に確認しつつ、メイには既に次にするべき行動が見えていた。
「ええ、わかっているわ。私自身のからだにある情報を、この魔法陣のうえに組みこませる。のよね?」
情報。
幼女の唇から言葉が発せられる音は空気を振動させて、風に舞い上げられる砂塵のように周囲へ影響をもたらす。
「メイさんの情報を、ここに」
何の迷いも躊躇いもなく、彼女の指が自分の左手から離れていく。
今まさに行われている、そしてこれからさらに展開をきたそうとしている魔術。
それにはメイの情報が必要になる。ここにおける情報とはいわゆる文字と単語、そこから連なる文章の集合体とは異なる。
「つまりは体のいちぶ、肉体の一かけらね」
「まあ、あー……そう言うことになるんだろうな」
メイの、これからの当事者ゆえの無遠慮な表現に対し、エミルが幾ばかりか嫌悪の臭いを表情に浮かべている。
キンシはそのやり取りを少し離れた所で見守りつつ、彼と彼女の言う所の情報について少し考える。
情報、記憶操作に必要なそれはつまり肉体の記憶。生き物としてこの世界を生きていくためにあらかじめ設計された、全身に張り巡らされている感覚器官。
内臓が知らず知らずの内に、意識の外で蓄積し続ける記録というべきか。
何というべきか、もっと別の言い方があるかもしれない。
キンシがその答えを得る余裕もなく、メイは速やかに己のするべき行動に移ろうとしていた。
「えっと? 私も血液をよういすれば良いのかしら?」
「いやいや、何もそこまでしなくてもな……」
方法こそ知識として有しているものの、しかし実際に行動を起こしたことはない。
この小さくて、あまりにも弱々しい体には実戦の経験があまりにも少なすぎる。
だからこそ、メイとしては自分に出来得る限りの事を行いたかったのだが、しかしエミルとしては相手はただの幼女でしかなく、結局はお互いがお互いに居心地の悪いけん制をし合うことになっている。
「ここはやはり、髪の毛が対等なる対価に相応しいのではないでしょうか」
ここでキンシが何も言わなかったとしても、いずれ彼らはそれなりに納得のいく方法を思いついたであろう。
それでもキンシは意見を言わずにはいられなかった。
興味を抱いていた、行為そのもののおぞましさには関係なしに、この魔法使いはこれから実行されんとしている行為に対して、下劣な好奇心を隠そうともしていない。
「ああ、いや……えっと、髪の毛の数本くらいならですよ、わざわざ血液を用意しなくても、条件に一致するのではないかと、あのそのえっと」
キンシにとっては、この魔法使いにとってはただの思い付きにすぎなかったのだろう。
何の責任もない、本人にとってはトイレの落書きよりも価値の無い戯れ言。
「なるほど、ね」
だがメイにとってはそうではなかった。
根拠はない、どこにもみじんとして存在していない。もしかしたら間違いかもしれないが、しかしこの時この瞬間の彼女には、これ以上の妙案は無いように思われた。
ほぼ確信に近い、どこかインチキ臭い霊的直感が働いたとでも言うべきか。
まあ、その辺についてはどうでもいい。
なんでもいい、とメイは一切の迷いもなしに自らの爪を、その鋭さに何度も心を曇らせた先端に集中し、そしてそのまま切っ先を自らの頭部へ。
頭部から二本、死んだ動物の四肢のようにブラブラと伸びている。
白色の毛髪を一まとめに、作られた束の片方に爪をあてがい、支点と力点の作用をそれとなく工夫しつつ、一気に指を握りしめる要領で横に動かした。
「あ」
キンシが驚いた声をあげる。あるいは? エリーゼの声にも聞こえたような気がする。
少なくともヒエオラやオーギ、ましてやトゥーイから発せられたものではないとメイはひとり勝手に確信している。
そうしている間にも耳元、人間にとっての聴覚器官が生えているべき側頭部。
赤色の花びらが色付いている、そんな耳元でブチブチ! ブチンッと組織が痛覚を伴わないうちに切断される音が鳴り響いている。
ひらめきがもたらす勢いのままに、衝動的な行動をとってしまったものの、やはり爪だけで毛髪をバッサリ切り落とすのは難しいことであって。
納得のいく量まで髪を切り落とすのに成功した頃合いには、周囲の人間もそれなりの冷静さを取り戻すことができてしまっていた。
「う、わー?」
とりあえず一番わかりやすく単純な驚愕を声に、キンシが慌ててメイのもとに駆け寄った。
「ちょいちょいちょい、何をなさっているんですか貴女は?」
詰問をしようとして、その体に触れかけた寸前のところで思いとどまる。
「いいのよ」
メイの鮮やかな瞳がじっと、静かに魔法使いを見上げている。
「血液とか皮膚よりもせっとくりょくには欠けるけれど、髪の毛でもこれだけあればちゃんとした記録をひきだせると思うわ。なにより……」
さっきまで紛れもなく自分の一部で、そうであるならばこれは肉体の一かけらでもあるはず。
だけどこうして手の中に握りしめていると、どうにもそれが自信と同様の素材で作られていると思えなくなってくる。
「この髪の毛はずっと、私が私として生まれたときからずっと一緒だった。魔女の髪の毛よ、魔力としてはじゅうぶんだと思わない?」
キンシが不安げな視線を送ってきている、そこから目を逸らすかのようにメイは髪の毛を、魔術の材料をエミルの方へ。
「どうかしら? やっぱり足りないかしらね」
「いや……、あー……その辺はだいじょうぶだと思うけどな」
魔女の提案にエミルは戸惑いつつも、流石にすぐに冷静さのある分析を行う。
「ただやはり、どうしても君にとって不必要だと思われる映像の乱れが幾つか可能性として残されるが、それでも構わないか?」
最終確認のつもりなのだろうか。
だがその問いかけはメイにとって無意味だった。己の体が兄の行方を探る手助けとなるのだ、何のためらいがあろう?
「ええ、大丈夫よ。お兄さまが私を思ってくれている、その証拠をみなさんにお見せできるのが楽しみだわ」
魔女の言葉を聞いて、魔術師は笑う。
その笑顔は心の底から楽しんでいる、あまり品のよくない笑みであった。
カリカリメレンゲ。




