ミスター.ワンダーランドの魔法陣
二百三十六階建て
あとの雑事、飲食店がその店としての機能を果たすために用意された、それは例えば椅子や机などの備品の数々。
客が使うものであって、決してそれらは頑健なる重さを有している訳でもなく、それはあくまでも家財としての存在感しかない。
「はあ、疲れましたねセンパイ」
しかしエリーゼが思わず不満を口にする程度に、数々の家具は人間たちの作業を元々の意図から反した方向性によって、ずっしりガタガタと阻害をしてきていた。
「まあでも、これ位のスペースがあれば充分だろ」
後輩魔術師の疲労具合は別に関係なしに、エミルは協力のもとに獲得することのできたスペースをじっくりと見下ろしている。
「……」
最後の椅子を机の上に、危ういバランスのもとで塔のように組み立てている。
「どうしたキンシ、お前にしてはずいぶんと静かだな」
魔術師たちが作業を行っている隅で、魔法使いたちは備品をどうやってひとまとめにするか、その辺について腕を動かしていた。
オーギからの追及に対してキンシは少し笑いつつも、しかし瞳の奥には虚脱的な暗さを隠し切れないでいる。
「いえいえ、僕は何時だってしとやかに静かで紳士的ですから。なにも変なことはありませんでして」
センパイからの追及を逃れるために軽口をはたいているものの、声音にはどうしようもないほどに鬱々とした雰囲気が立ち込めている。
「でもなんていうか……元気がないわよ? まるで冷蔵庫にほうちした玉ねぎみたい。キンシちゃん、あなたまで暗い顔しないで」
半分くらいは本音、自分本位の要求を口にしようとして、だが途中で恥ずかしくなり。
メイはよく分からない形容詞の中で、せめてこの若い魔法使いの気分を向上させようとする。
「ええ、わかってますとも。僕なんかが鬱々とした気分になった所で、何の意味もないのですよ」
机上で逆さまになった椅子、キンシは深い茶色の流線形を描く艶めきに指を這わせいる。
「キンシちゃん」
やはり暗がりが晴れることもない、メイは魔法使いの顔を見て。
そこでふと気付くことがひとつ、言うべきかそうでないか考えるまでもなく自然と唇が言葉を発する。
「そういえば、あなたのをまだ見ていなかったわね」
キンシがそこでようやく暗さをしばし忘却し、問われたことについての意味を考えようとする。
「僕の、とは?」
出来るだけスペースを広げるために机をずらしていたオーギが、片方の手で自身の顔面部分を指さす。
「これだよ、これ」
「ああ、なるほど。仮装ですね」
何かもっと重大な要求をされるものかと、てっきりそう構えていたキンシは若干の肩透かしを食らったかのように。
「ええ着けます、着けますとも。なんてったって僕はキンシ、魔法使いですから」
そう言いながら上着のポケットから灰色の布を、薄い布にキラキラときらめく金属が固定されているそれを取り出して、何事もなさそうに顔面に装着する。
「これが僕、キンシの仮装です。どうでしょうか?」
やはり魔法、それをつけた瞬間にキンシの雰囲気ががらりと変化。
なんて事はない、それはいつも通りの魔法使い。
「はじめて会ったときと、おんなじ格好ね」
見慣れたはずの様な気もするし、あるいはなんだかずいぶんと久しぶりに見たような気もする。
どちらにしてもいつの間にか記憶にそれなりの意味を持たせていたらしい、メイはそんな魔法使いの姿を見て、なぜか意味もなく笑いたくなってきていた。
「ねえ、まだ魔方陣を描かないの?」
魔法使いたちが微妙な、ほぼ水に近しいぬるさのあるやり取りをぼんやりと行っている。
その他所でヒエオラがいつまでたっても始まらない事象に、観客じみた急かしを呈していた。
「まだまだ、ちゃんと計算をして、そのうえで一文字も間違えないよう気をつけないといけないからね。なかなか大変なのよコレ」
カウンター沿いにもともと入口があった近くの辺り、レジが設計されている辺りの壁に寄りかかり、エリーゼはノートパソコン片手に軽口をはたいている。
「あ、センパイ、そこちょっと曲がっていますので訂正してください。ええ、そんな感じに……」
後輩魔術師である彼女がパソコンをカチカチとやっている間、エミルは地面にまさしくぜん虫のように這いつくばっている。
「あー……っと? ここがこうだとして、……うん、此処はこうしておくとするか……」
ある程度の余裕を持たせて設計されているスーツは埃にまみれ、白く骨ばった指の先には肌の色と負けない位に白いチョークが握られている。
コツコツと、生き物の骨のように白い粉の塊は魔術師の指に握られて、飲食店「綿々」の床に細やかな文字を描き続けている。
それは傍か見ればいい歳を召した大人が真剣かつ神妙な面持ちで、公共の場に意味の無い落書きをしているかのような、そんな奇怪さが満ち溢れている。
「ここはこのまま、この式を当てはめるべきじゃありませんか?」
依然としてパソコンでの作業を続行したまま、エリーゼが床の上の先輩魔術師にアドバイスをする。
「そうか? オレはそうは思わない」
だがエミルは後輩魔術師のアドバイスなどまるで受け入れる様子もなく、自身の思うままに追及を、白いチョークは数と記号を刻み続けている。
数分後、さして時間もかからぬうちに「綿々」の床には魔法陣が完成していた。
「これくらい書いておけば、うん、まあ……おそらく大丈夫だろうな」
スーツについた埃を適当に払いつつ、それよりもエミルは全身の肉の凝りに渋面を作っている。
「おお……これはまた、なんとも……」
作業の終了を見計らって、キンシは作成した魔術を阻害しない程度に接近し、ほぼ完成されたそれをゴーグル越しの目で観察する。
メイの手前、出来るだけ己の感情を表に出さないように。
「美しい」
そう決めていたはずなのに、腹の内に押しこめておいたはずの欲望は卑しくも炎を研ぎらせることもなく、抑えきれない感情は言葉に変化を余儀なくされる。
「おやまあ、褒められちゃいましたよセンパイ」
何の捻りもない、一切の脚色も施されていない賞賛の言葉に、なぜかエリーゼが浮き足たった様子で先輩魔術師を茶化そうとしている。
「確かに、これはなかなか……」
後輩が直球の意見を口にした影響という訳でもなしに、オーギもまた単純な心持で目の前の魔術に目を離せないでいる。
「なんだか、まるで文字のしゅうごうたいみたいね」
もうすぐおこなわれている行為に対する不安がそうさせるのか、あるいは魔女としての知識が強く惹きつけられている、といった方が真実に近しいかもしれない。
「ええ、魔法陣は専門外でして、だからあまり下手なことを言うつもりもなかったんですけれども。だけれども、それでもわかります。これは美しい」
興奮のあまりにまたしても文法が怪しくなっているキンシ。
その視線の先に魔方陣が。
円形を基本としたおびただしい数の文字列の連なり、それらは模様として円形の内部にて渦を巻いている。
模様を構成している文字はどこの国の言語なのか、いや、言葉というよりは数字や記号の方が形容として正しいのだろう。
数字と記号の数々、一定の法則に則って均等に並べられた数々は文字というよりも、むしろなにか幾何学的なデザインの一部に見えてくる。
「なんとも、センパイらしくないデザインをしましたねえ」
実際に、エリーゼがそう言うとおりに、その魔方陣はとあるルールにのっとったデザイン、つまりは設計であり。
そこには何一つとして無駄がなく、文字と記号の全てが整合性が取れていて、間違いは一つとして存在していない。
「美しい」
キンシは同じ言葉を繰り返している、それ以外に何も思いつくことが無かったのだ。
「こんなときでなければ、きっとあの図書館も喜んだでしょう」
目の前の素晴らしい作品に、まるで日に吸い寄せられる羽虫のようにその指がふらふらと伸ばされる。
だがそれ以上先には行けない。
行かなかったということもあるが、それよりも右手をじっと握りしめているメイの重みが、魔法使いをそれ以上前に進ませようとしなかったのだった。
ねじを回します。




