昔々のロングアゴー
途中でぶつ切り。
キンシの左手の中で林檎はみしみしと音をたてていて、外部からの圧迫と内層の膨張力がギリギリの瀬戸際でせめぎ合っている。
「全ては人間の意識による産物でしかありません。「水」と呼ばれるエネルギー体から生み出されているという点においては、彼らもまた魔法の一部という事になるのでしょうか」
問いかけに似た形でキンシは勝手に喋り続けている。
本人にとっては重要な命題なのだろうが、しかしメイはそれよりも手の中の宝石が魔法使いの握力によって粉砕されやしないか、それとなく意味の無い不安に駆られて仕方がなかった。
「しかしそれだと、彼らは自発的に自らうまれたという事になる? はたしてそんなことがあり得るのでしょうか」
ところ変わりまして。
奇しくもこの灰笛と同じ場所において、若い男と若い女がこの世界について語らいを繰り広げている。
「ですからね殿下、あー……そう何度も何度もおなじことを言わせないでくださいよね」
くすんだ金色の毛先を馬の尾っぽのように震わせている少女に、大人の男の声がへらへらと被さってくる。
「ほらお嬢さん、王子様も初めてのことで色々とこんがらがっているのでしょうよ。もっと優しく! 母のように生娘のように!」
それははたして説明に対するアドバイスとして正解なのか、少年の疑問を置いてけぼりにして彼と彼女は話し続ける。
「殿下、あなたは人間が人間として生きていることに、根本的由来に近しい疑問を抱いたことはありませんか? あー……いいえ、こう思う事こそ「水」の思うままという事になるのかしらね」
「難しく考えなくていいんですよ、だって彼らはあんなにも思うままの姿で生きているんですから」
大人の男が耳を、大きくてとんがっていて、黒々と柔らかそうな毛に包まれている耳をぴこぴこと上下にはためかせている。
「人間と言う生き物はいつも、どこでも理屈ばっかり考えてしまうんですから。だから面倒臭いんですよ」
黒髪の男はまるでどこかの誰かに文句を言うかのように、一瞬だけ視線を遠くに向けて。
しかし意識はしっかりと、視線の下に縮こまっている少年の姿を視認し、攻撃意識の中に捕え続けている。
「生物はあらゆる存在が重なり合い、時には反発して、そうしてようやく個体としてこの世界に許されるというのに。まったく、いつの間にこんな偉そうになってしまったのでしょうか」
「人類の歴史については、また今度別のところ、私の聞こえない所で独りでやってちょうだい」
自己主張の激しい独白を無理やり中断させて、少女は構わず少年に笑いかけている。
「と、まあこんな感じに。世界の始まりと一緒に存在していた物質が、いつしか他の生物の存在が放つ影響力によって変化を余儀なくされるっているのは、もうすでにこの世界で何度も、何度も、何千何万何億をこえる回数として行われた」
少年は彼女の言葉を黙って聞いている。
一見して相手の話に集中しているように見えるが、その実は彼女の唇が物寂しげにうごめき、不規則なリズムで赤い舌がチロチロと唇の隙間から覗いていたりだとか。
その他、あまり人に説明したくない部分に集中力を割いているなどと、そんな事は誰にも言えやしないでいて。
「だけど一度生まれてしまった者は止まらずに、留まることを知らないままに増え続けている。体重は増え続けて、脂はたっぷりに、今の私たちはちょうど、野晒にされた畜類と同等で同様なのよね」
何度目かの舌なめずりの後で、金髪の少女は青い瞳をくるりと。
最終的には何かを諦めて、それ以上は何も言えないでいる。
「はあ、話していたらなんだかつかれてきた……。あー……殿下? お茶のおかわりはいりませんか?」
正直これ以上、この話は聞きたいとも思えなかった。
これ以上訳の分からない話ばかり聞いていたら、それこそ自分の体が別の何かに代わってしまいそうで、なんだか恐ろしく感じている。
「ですからね、メイさん」
彼女の恋い焦がれるかのような願望など露知らず、仮にもしも要求をクレームとして言葉にしてみたところでこの魔法使いが、キンシと言う名の魔法使いが止まるとも思えないでいる。
「人が脳を進化させて、道具と武器を開発して、文明と文化を形成し、数を爆発的に増やしていったなかで、彼らも名前を与えられるよりも以前に人と同じく、……いえ、時として人以上の速度で進化と変化を繰り返してきたんですよ」
歩みは決して緩慢という訳でもなく、そろそろ図書館の終わりへ、つまりは来た道の逆を進み続けていて。
そろそろ魔力鉱物の光も弱まり、外の潮騒がすぐそこにあるような、そんな気がしてきている。
「うん? うん……」
こんな状況でなかったら眠くなりそうで、そうでなかったとしたら玄関先で丁重なお断りを申し立てたくなりそうな。
そんな話題で、きっと魔女にとっては面白くてたまらない話題なのだろうけれども、しかしメイにとっては道端の雑草以上にどうでもいい話題でもある。
「そんな小難しく考える必要もないと思うけどなー」
一人で勝手に延々と独白を継続している後輩に、オーギがそろそろ嫌気が差したかのような声を発して。
そしてすぐに「あ! しまった!」と文字でそのまま書いたかのような、そんな表情をひらめかせる。
「そうであるならば」
ぐりん、と存在しないはずの音すらも響かせるような激しさで、キンシが先輩魔法使いの方に爛々と輝く瞳を向けている。
その手の中にはまだ林檎が握られていて、いまのところは辛うじて形を本来あるべきところに保っている。
「先輩の御意見を聞かせてもらいませんかっ」
適切な距離が保たれていなければ、きっとキンシは先輩に自らの口内に分泌される体液を飛沫させるところだった。
と、そのようなことは些細な事であり、オーギはここで無駄に躊躇ってしまえば逆に面倒臭いことになるだろうと、それとなく自身に納得をさせながら仕方なしに、相手の話題に付き合ってあげる寛大な心を見せる。
「うーん、んー? いきなり言われてもな、俺もそんな事を深く考えたことはあらへんし……」
どの道子の長い長い、むしろ無駄を感じさせるまでに長い移動時間を無言で過ごすのも。
過程を予想した所、予想を超えてなかなかにおぞましい予感にメイが苛まれているなかで、オーギがふと思い出を引きずり上げる。
「そうだなー……今までの、キンシが話したことのモデルとなっている童話なら聞いたことがあるけどなー」
「童話?」
またしても予想外のところから新たなる単語が登場してきた。
と言うよりも、それよりも、今までの決して軽々しく済ますこともできなさそうな話題と、子供のための創作物苦いとするジャンル名が、メイの中では対極の位置に存在しているもとにしか思えない。
「海物語、ってこういうとなんか俗っぽいな……。でもまあ、それ以外の名前も思いつかない位に、とにかく「海」についての昔話でな」
てっきりこのまま愛にかけ、抑制もなく欲望のままに鉄の弾を打ち鳴らす物語が始まりでもしたら。
メイは少しだけ期待したが、そんな事は起こりようもなく。
「たしか、うん……たしかな、こんな感じの話だった。よく父ちゃんが眠らぬガキだった俺をどうにかして寝かしつけるために、タイトル表紙から目次、後書きに出版社名にいたるまで。こと細かに音読してくれたもんだよ」
オーギがしばしの懐古に身を浸している。
ここに来てから割と厳しめの表情ばかりを浮かべていた男魔法使いの、それがメイにとって初めての柔和な雰囲気であり。
それと同時に、結局本の最後まで聞いていたという事は、彼の父親の目論みはことごとく失敗していたのだと。
彼女はここにはいない彼にほんのりと同情を送らずにはいられない。
弦楽器。




