林檎のために世界は割れる
アップル切断。
「人間といっしょだとして、でもそれはそれで生き物としてだいぶおかしなことになりそう、だと思うのだけれど……」
メイは頭を働かせていた、新しい事実は存在しない、しかし現実以上にはっきりとした冷たさをもって細胞の隙間、水分へひしひしと染み込んでいる。
「うん、うん? うん、まあ、そうなんですけど」
それと相反するかのように、なぜか情報を提供した方のキンシは眼鏡の奥の視線をふらりふらりと漂わせていて、どうにも落ち着きが足りていないように見える。
「ん、どうしたの? そんなに頭をフラフラとさせて」
水飲み鳥かメトロノームか、とにかく落ち着きの無い行為にメイは進みかけていた思考の森への道を一時停止する。
「いえ、いえいえ、まさかそんな、この事についてこんなにもすんなりと受け入れるとは、僕も思っておりませんで……」
自分で言ったはずなのに、むしろ若干テンションあがり気味で唇に気持ち悪いにやにや笑みさえ浮かべているくらいだったのに。
「とりあえずお前の期待が外れて、俺は嬉しい限りだよ」
一体何を期待していたのだろうか、いまいち理解できないメイの前にオーギの体がのっそりと映り込む。
「今話した内容は、まあ……あんまり人には言わないでおいてくれよな。いくらすでに死んだ奴だと言っても、やっぱり、なんだ……気持ちの良いもんじゃないしな」
気持ち、気分、心の問題。
心? ここに来てそんな、いかにも人間らしい。
「相手は私たちを殺しに来ているのでしょう?」
うだつの上がらぬ態度を作っている男を見ると、どうしようもなく心の中に沸き立ってくるこの感情は一体何なのか。
嫌悪感でもなく、ましてや苛立ちでもない。
「そうでなくても、私たちにとって命よりも大事な物を奪おうと、いまもこうして舌なめずりをしているんだもの」
少なくとも自分にとっては、内層の限られた秘密の中においては肯定的に思える、どころか甘く蠱惑的な魅力さえ感じさせる。
そんな感じの言葉がスラスラと、自分の唇から発せられていることがメイにはどうにも違和感のあることであり。しかし同時に間違いなく他人の物でもないことはたしかだった。
「だったら殺さないと、殺し、殺され、殺しつくして、そうして世界が回るなら、それはそれで」
最後まで言いかけた所で、しかし他の誰かがそれを許さなかった。
「突然のラブアタック」
「ひいい?」
首筋、左側の羽毛があまり濃くない部分へピンポイントに冷たさが襲い、メイは周りにはばからぬほどの悲鳴をあげざるをえなかった。
「ななな、なにを……!」
メイが慌てて振り向けば、そのまま動きに連動してキンシの左腕が引率されられる。
彼女の動揺を一身に受け取りながら、キンシはあまり正体の見えなさそうな曖昧な笑みを口元に湛えている。
「いえ? ちょっと面白い感じになっていたので、邪魔したくなってきてしまいまして」
気恥ずかしそうに頬に赤色をさしている、魔女の避難もさらりと受け流すかのようにキンシはさっと左手を収める。
「今のってあれですよね、魔女の誘惑ってやつですよねっ。さあさあ、さあ! もっとやってみせてくださいよ。あ、でももうちょっと待ってください、動画撮影の準備をするんで」
さも当たり前化のように、ただひたすら自己の好奇心を埋め尽くさんと。
全てをかなぐり捨てても構わず、三つの外にある欲求に正直さを発揮しまくっている。
「アホ」
さあ、まさしくスマホを、あまり最新型とは言えず所々擦り傷やらが目立つ、板チョコ状の機材を懐から捻り出そうとする。
そんな愚かなる後輩魔法使いを、先輩魔法使いはこなれた様子で抑制する。
「痛い?」
キンシの頭は若い男の手の平によってもたらされる震動に震える、だけど痛みはすぐに日常の感覚に溶けて消えていく。
「やめんか、行儀の悪い」
それはひとりの相手にしか向けられていない言葉のはずで、だから自分が身を竦ませる必要性はないと。
そう思っていいのかメイが迷っているなかで、オーギは水分を大量に含んだ溜め息を大きく吐き出していた。
「はあ……こんな眉唾モンでこんなマジに悩んどる場合やないやろ。まったく……」
「え、マユツバ?」
しれっと流されそうになった単語の一つが、失敗に終わった魔術の上にズドンと存在感を放つ。
「え、え? 今のってぜんぶウソだったの? 魔法使いジョークだったの?」
食いつかんばかりに身を乗り出そうとしているメイを横目に、オーギは溜め息の延長戦を慎重に言葉にする。
「学説だよ学説、単純なことをいちいち小難しく言い換えるんだから、俺はどうにも好きになれん」
「それに、この一説はオーギさんの一番ヘイトな一品ですしね」
まだまだ動揺が抜けきっていないのか、キンシは言葉に若干のぎこちなさをふらふらと漂わせている。
「いえ、ね? ボクのこの説はあまり好ましく思いませんでして。だって、あの美しく懸命に、一切の油断もせずに生きている。彼らはあれでとても幸せそうなのに、僕らのような生き物の不完全で不揃いな思惑に付き合わされているのは、とても心苦しい……」
またしても自分の世界に侵入しかけている。
「はいはい、そういうのはあとでいいから」
後輩に先輩がもう一度のチョップで脅しつけている間に、メイの心もだいぶ平常心を取り戻すことに成功していた。
「リンゴが宝石だとして、それがあの化け物といっしょの仲間ということは、まあまあ理解できたけれど、でも……」
正直言ってすべてに対して認知を果たしたとは言えないが、しかしこれ以上この事に考えている暇は無いと、彼女の中の冷静さがもっともらしい判断を下そうとして。
「そんな大きな宝石、いったいどこからとってきたのかしら?」
せめて最後の選別と言わんばかりに彼女の思考は方向転換をして、起きた事実を記憶として再上映し、そこから情報を集めようとする。
「ここにはあの化け物もいないし、もしかしてここの、この地下のどこかに石を採掘できる場所か、それっぽい所があるのかしら」
これに限っては質問でも何でもなく、単なる創造の一端を声に出してみただけにすぎなかったのだが。
「うん? それはあっているようで、半分ぐらいは間違いですね」
形としてはほとんど×(ばつ)に等しい言い回しをされて、キンシはすぐに自身の言葉の欠落具合に後悔をきたす。
「えっと、えっとですね、こういうのってどう言えばいいのか、どうすれば上手くいくのか」
この魔法使いが会話を、他人に言葉を与える行為を得意としていないことぐらいは、もうすでにこの場にいる全員が理解している。
それぐらいの救いだけが、たったそれだけでもキンシにとってはありがたいことであり。
「これは僕の持論なんですが、あまり深く考えるべきではないというのが、いまできる最大の答えだと思うんですよね」
「ええ……」
そんな程度で済ませられるものではない、結構に結構な内容だったことは自分の思い過ごしなんかではないと。
そのぐらいは自分を信じてあげたいと、メイの懇願を他所にキンシは滑らかに口を動かし続けている。
こうして自分の思いを話すときはあんなにも楽しそうにしているのに、それが他人を意識し出した途端にまごつき、濁りが増え始める。
彼らはいつの間にか移動を再開していて、いまのところの集中線はキンシの体を一点に。
林檎に似た石の、鉱物に似た赤い塊を左手に携えている魔法使い一人に寄り集まっている。
「人が人たらしめるのは、他の存在を意識した瞬間にようやく始まるんですよ」
魔法使いは手の中の林檎を、林檎のように見えて林檎ではない、この世あらざる物質を握りしめた。
林檎カット。




