魔女は邪推をする
椿
彼女も、そして当然のことながら彼も、お互いにもうすっかり慣れきってしまっている。
必要以上な言葉のやり取りを必要とせずに、無駄を排除した動作でメイはトゥーイの腕から脱出をはたしている。
事実的な時間としてはほんの些細な事だとしても、この身に感じ取れる時の流れは随分と長さがあるような、そんな気がしている。
数刻ぶりに触れる図書館の床は変わりなく、何か突然、部屋の中から外へと来た時に劇的な事でも起きていないか。
マグマのような熱で伸び晒した爪を燃やし尽くしてくれないか、この矮小なる体を異物として排除する浸出液でも発生してくれないか。
瞬間的に願望はチラチラと、しかし全ては意味を成すことなく脳の片隅へと流れ去っていく。
延々とどこか恐怖感を覚えるまでに続く左右対称、無尽蔵に伸びる六角形に縁どられた本棚には当然のことながら大量の書籍が収められている。
と、そこで気付くことが一つあった。
靴も何もない、裸の足の裏に不意にグニャリ、と粘性的な柔らかさを感じたのだ。
「んっ、つめたい……?」
気のせいだと、あるいはもしかしたら足の裏に自分でも自覚できていなかったダメージがあって、いまさらそれが体液を吹き出し始めたのかと。メイの脳裏に嫌な予感が駆け巡る。
だがそれにしては痛みが少ない、第一これが血液だと前提してしまえば、自分の体は氷水も震えるほどの冷血体質ということになってしまう。
いくらなんでもそれだけは信じたくない、だけどそうでなかったとしたら、いまのは一体なんだったのか。
「メイさん」
メイは足元を確認する、やはりそこには本と、本を含む棚の数々しか存在……。
「あれ、メイさん?」
いや、それだけに限定するのは視野が狭すぎる、なにか、他になにかあるはずだ。
「もしもーし」
そう言えば気になっていることが、この本棚にかぶさっている、外部から内部を守るために張られているこの透明な膜は。
……よく見たら所々揺らめきが、ちょうど自分が先ほどふんだところに一つ大きなものが。
「へい!」
「う、きゃああ?」
真相に近付きかけていたとは思う、そのぐらいは自分を信じていたい。
だががそんな自己肯定は無意味で、無駄な時間でしかなかった。
キンシに耳元で、そこそこな音量で名前を呼びかけられてしまった。
独りよがりな思考に身を浸していたがゆえ、突然の外部からの刺激にメイの体は必要以上の反応をビックリびくびくと。
「重ねて確認してもよろしいでしょうか?」
呆然としている、外見としてはそれにしか見えない彼女におどおどと心配そうな視線を向けている。
それでもキンシは事象に対する質問を継続していた。
「あ、ああ……。ええ、そうね、私は大人のおんなの人に邪魔をされたの」
「ふむふむ、そうですか……」
キンシは彼女に確認をとるや否や、ふごふごといきり立った猪のように鼻息を荒くし始める。
「なるほどですね、まさしく納得。メイさんのように可愛らしい女性をこんなにも、非人道的に痛めつけるとは。一方的な情報うんぬんに悩む必要もなく、その人はとんでもなく碌でもないことには変わりありません」
自分のことに関してこんなにも感情を動かされている、動かしていてくれている。果たしてこれは喜び感謝すべきことなのか、それとも同調すべき内容なのだろうか。
間違いなく自刃が中心に位置している事柄のはずなのに、メイはどうしようもなく他人行儀な心情を抱かずにはいられない。
「ろくでもない、ね」
メイは魔法使いが熱弁した言葉を口の中に、喉の奥で味わうかのように反芻してみた。
「なるほど、たしかにそんな感じだった、かもしれないわね」
彼女の呟きにキンシが、そしてメイから見て少し奥に立っているオーギはまでもが興味を示してくる。
「何か思うことがあるのですか?」
質問内容としては曖昧さが強い、それは一重にメイのこぼした感想が抽象具合が濃すぎることに関係しているのだが。
「あ、えっとね、別にハッキリとしたことでもないのだけれど……」
無意識の中で唐突に芽吹いて、ほおっておけばそのまま忘れ去ってしまいそうな。
と言うか、そもそもこれ以上あの二人組のことは思い出したくない等々。
「何でもいいんです、彼らの事柄について、貴女が思ったままのことを出来るだけ多く、言葉にしてみてください」
もちろんそんなのは甘えでしかないし、自分にそのような余暇が許されているはずもないと、今日何度目の自責念がメイの腹の内でどくろを巻いている。
「そういわれてもねえ、私はお兄さまから目を離さないのに必死だったし」
何の脚色も虚偽も含まれていない本音ではあるが、それでも他人に向けて情報を伝えるという行為の中で、彼女の記憶領域が通常以上の労働力を発揮しようとしている。
「ああ、でも、これはあくまでも私の主観でしかないのだけれど。大人の方は何というか、なれなれしい感じがしていたわ」
「ほう? といいますと」
腰をかがめて自分と目線を合わせようとしてくれている、キンシはまだ眼鏡をかけていて、だからこそ瞳孔の鋭さがそのままに皮膚の感覚を刺激してくる。
「うん……私の体を傷つけるのに抵抗がなかったというか。ほら、こういうのってもうすこし気持ち悪いだとか、そうでなくてもちゃんとスムーズな動作じゃないと、ここまでにはならないでしょう?」
いくらこの世界の刃物が優れているとしても、職人たちが趣向を凝らして鋭さを磨いたところで、しかし人間の皮膚を切り裂き、肉の繋がりを断絶する不気味さが軽減させられる訳でもない。
魔法も魔術も、奇跡すら必要としない、刃物さえ持てば誰だって人を殺すことが出来る。
だが同時に、刃物を持ったところで本人にその覚悟がなかったら、残るのは肉と血液の喪失以上に己の身を苛む痛みだけ。
つまりは、ほんの数時間前に自身の体を弄んだあの人間は、少なくとも刃物で人に害意を向けることに何の躊躇いを抱かない、そういう種類に属しているということ。
「刃物を使うのに、それを使って人を傷つけることに慣れていたわね」
メイの脳裏に故郷の家が、そこの地下に隠されていた祖父の研究所の光景がよみがえり、それは布に垂らした墨汁のように染みを広げていく。
祖父はその技術を尽くしてメイに色々な事を、もちろん内容は魔女関連が中心ではあったものの、しかし彼の意向としてそれ以外の知識も豊富に。
例えば家事全般、料理や掃除洗濯。社会的なマナー、机の上に並べられたフォークとナイフを使う順番だったり。
そして何より、戦闘行為に関する意識的傾向は一段と、丁寧さをもって教え込まれていた。
実際に戦ったことはほとんど、というか今日が生まれて初めてで、結果がこの体たらくだとすれば祖父の教育はあまり意味を成さなかったとも。
そうとも言い切れないのが、なんとも難しい所で。
「キンシちゃんの言うとおり、あの太刀筋は並大抵のものではない、って感じだったわ」
あの人間の体の動き、一切乱れる事の無かった呼吸や迷いのない筋肉の隆起。
それらを記憶することが出来たという点においては、祖父の教育も無駄ではなかったのだろう。
「今でもありありと思い出すことができる」
もしかしたら、とメイの脳裏で冷たい邪推が顔を覗かせる。
祖父はこのような状況を見越して、むしろ予知能力じみた不安の中で自分に、体に見合わない知識を植え付けようとしたのかもしれない。
「まさかね」
いくらなんでも考え過ぎだと、戒めの言葉は誰に向けられるでもなく図書館の本棚に吸い込まれて消えていった。
白色と赤色がある。




