彼と彼女の変わらない世界
おめでとうございます。
ルーフは運ばれていた。
どんぶらこ、どんぶらこと、椅子に縛り付けられたままの恰好で、なんということだろう、彼は地面から浮いて移動をしていたのだ。
していた、では行動の対象が異なる。させられていた、の方が近いかもしれない。
「るったるった、るーんるーん」
ハリが歌いながら指先をくるくると回し、宙を撫でている。
「………」
まるで荷物のように運ばれている、ルーフの足元にはどろどろとした液体が波打っている。
それは何かしらの、文学じみた抽象的表現でも何でもなく。
本当に液体、水そのものとしか呼びようのない物体が彼の足元に。
正確には彼が座り、縛り付けられている椅子、四本の脚部の下を取り込むかのように、黒々とした墨色の水がゲル状となって椅子ごと彼の体を運んでいた。
水はとある、なんて遠回しな言い方をする必要もなしに、間違いなくハリの肉体から発せられ、彼の指示によって活動をしていることは明確であった。
くるくると夏の芋虫のように動く指先、そこには椅子の下のそれと同じような色の水が、黒い水滴がふわふわと溶けては消えてをくり化している。
黒真珠のようにも見えるそれらが、やはり魔法によるものであることは動けない彼にも、彼であろうともなんとなく理解できる。
「なあ、一つ、一つだけに限定して。聞いてみてもいいか」
意識することなく吐いて出た命令文に、ハリはいち早く反応を示してくる。
「おやおや、何でしょうか王子。一つだなんて遠慮なさらずに、いつでもどこでも、ぜひとも百まで質問を受け付けますよ」
調子の良さそうな、外見上はそういった感情を装っているつもりの。
そんな男の口ぶりを真に受けられるほど、既にルーフの心からそんな純粋さは完全に消滅をしている。
「この黒色の、ブヨブヨした………趣味の悪い、気持ち悪いのは一体なんなんだ?」
彼としては何の、一切の嘘偽りも悪意すらもない、純粋な疑問でしかなかったのだが。
「ふひっ……」
しかし相手の反応は、それは主にハリの隣にいる少女に顕著なのだが、彼女がいかにも愉快たまらないと言った感じで吹き出している。
「………?」
予想外の反応に対して少年が疑問に思っている、それを他所にハリは彼のほうをじっと見つめている。
「やれやれ、ですね。ボクの魔法もついに酷評を受けるようになってしまいましたか。いえ、元より肯定的な意見を頂いた経験自体が、ぺらんぺらんに希薄なものですけれども」
どうやら恥ずかしがっているらしい、黒髪の男は左手で首元をさすっている。
なんというか目の間の他人たち、二人の男女の間だけで質問文が完結しかけている。
「ああ、あー……ほら、ハリ、ちゃんと殿下の質問にお答えしなくては……っ」
彼の不機嫌を察知したモアが進みかけた話題の本来の目的を、笑いを若干引きずったままの声音で男に催促する。
「そうですねモアお嬢様、王子様はどうやら、この世界のことをあまりご存じでないとみられる」
そしてもう一度クスクスと。
「………」
こんな事で、こんな相手にいちいち感情を動かしても、今の自分にとって有益なことは何一つとして存在しない。
それぐらいのことなら彼にもわかる、わかっているからこそ、ルーフは奥歯の間でギリギリと響く摩擦音に、軋む顎の痛さを懸命に噛み殺す。
それだけしか出来ないでいた。
それだけが彼に許されている。
「要するにあれなんですよ、マジックポイント回復薬飲み放題が出来る。それはもうがぶ飲みに、お腹が破裂してしまえるほどに。それがこの灰笛で、灰笛の空にさんさんと輝く傷、女王陛下モアの特性なんです」
「女王、モア?」
また新たなる概念なのか、しかし最後に登場してきたのはどうにも、ただの人の名前のようにしか聞こえない。
「そう呼んでいるだけですよ、通称みたいな。自然現象とか車の機種に名前を付けるのと、似たようなものです」
少し気まずそうに禁止は自分の手を、左手をキーボードから離し。
そこに刻みつけられている模様をどこか、見たことも聞いたこともない異物として扱うかのように、じっと観察の目を向けている。
「さっきから水だ傷だ何だと呼んでいますが、この形式もあくまで一つの例え話でしかないんです」
「どういうこと?」
「あれですよ、他人によって認識が異なるって、どこにでもありそうな勘違いですよ」
魔女の視線が向けられていた方向、キンシは指の先を部屋の天井へ、そこに輝く揺らめきに真っ直ぐのばしてみる。
「あの天井の色ですら、貴女が見ている色と僕が見ているそれとは、大きく異なっているでしょう」
伸ばされた腕はそのまま下に戻り、元の位置へ。キーボードには触れず、近くの何も無い所にそっと置かれる。
「ある人には薄く幕を張ったベールのように、またある人には小さな虫の集合体に見えたり。後は単純にぼんやりとした光に見えたり。見えなかったり。現在確認できるだけでも数多くの、症例……とでも言いましょうか。とにかくたくさん確認されています」
もう一度入力が再開される、先ほどよりは心なしか速度があがっているような気がする。
硬質な音の連続の中で、その視線は画面の向こうの、ここではないどこかに向けられている。
「魔法自体は昔から、どこにでもあった。意識するかしないかの差は階段一段の差でしかなく。ただ……、この町が他と異なるとすれば、やはり結局あの空にある大きな傷跡に執着してしまうのでしょう」
男と女は語り続ける。
「いきなり見ず知らずの都会について、あれやこれや教えられるのもあれだとボクはこれこれ思うわけですけれども」
ハリがルーフに説明を、押しつけがましく、ましてや相手に思いやりなど一欠けらも与えない程に。
「王子様、あなたはここ灰笛でかつて起きた大災害について、ご存知でしょうか?」
男の隣でモアが、自らをそう自称する少女が青色の瞳をじっと、感情をのせることもせずに少年の方を見つめ続けている。
「大災害って……波声大震災のことか」
ハリが嬉しそうに、ぱっと明るい声を発する。
「そうです王子様、その通り、イグザクトリーです」
ほぼ限りなくゼロに等しい、ほぼ存在しない尊敬の中でハリは勝手に語り始める。
「いにしえの時代より、ここ波声地方は自然災害に多く見舞われていた土地でした。
ある時は地震に獰猛され、ある時は台風に無情、ある時は津波が悪辣に、干ばつは見境なく大雨は無慈悲。
だけどこの世界には許しは与えられない、天を憎み、運命に抗う術を与えらえてしまったから」
モアがそこでやっと表情を、多分それは笑顔に見える。
「まことに残念ながら、この世界には魔法が存在しているから。だから、人間はそれら全てに抗えたのではないか、そんな可能性を架せられてしまった。なんとも皮肉で、邪悪だわ」
歩きながら少女は上を見る。
青色が向けられる先には天井しかない。
そういえばここはどこなのだろう、倉庫らしき場所から動かされて、今はどこかの建物の中。
それだけはルーフにもわかるとして、それはそれとしてここから、この先はどうするべきか。
「そうした自然現象の積み重ねで、あのように空には魔力鉱物の鉱脈が開いたまま閉じなくなりまして。それでモアお嬢様は代々それを鎮めるかなめの……」
だから、男が何か自分に教えようとしている声も、彼の裸の耳には何一つとして聞こえていない。
建物のそと、彼と彼女のいる外には雨が降り続けている、きっと傷口も濡れている。
男はそこから漏れる水に、水によく似た物体を指で弄びながら、じっと黙りこむ少年の赤毛を見下ろしていた。
ありがとうございました。




