魔女に答えは与えられない
とても空腹。
それにしても、とメイは疑問に思う。
この部屋の余りにも濃厚すぎる純白さゆえか、あるいは古書とインクと紙のの匂いに酩酊していたのか。
甘くトロリと一滴垂れる不和が、図らずして彼女の身に生ぬるい安定感をもたらしている。
かりそめの安息と充実感、それが現状に対する浅ましい現実逃避を基本としていることぐらい、彼女には十分が過ぎるほど自覚して、認めざるをえないでいた。
私はこんな状況において、いや、こうなってしまったからこそ、の方が近いかもしれない。
自分は甘えようとしている、少しでもあたたかく柔らかく、空虚な空間に逃避を行おうとしている。
その先には何もない、あるとすれば己の身をドロドロに、跡形もなく融解する毒液の海か。
つまりは少しでも甘えてはいけない、そんな状況であるはずなのに。
ヒリヒリと内壁を直接焼けつけるかのような焦燥感、メイは何とか納得を生み出そうとしながら、しかし足はとある方向へまっすぐ進もうとしている。
歩くと足元に広がるガラス板と、内部に含まれている資料を守るための障壁が自身の足の裏と密着しては離れる、静かな衝突の反復をメイは耳に受け止め。
鼓膜の奥にある思考では言い訳を、自身の行動に対するそれらしい言葉を生みだそうと躍起になっている。
どんな状況であれ、しかし協力者が明確に存在しているということ、それはとても恵まれていることであると。
誰に確認するでもなく、メイは自分自身にゆっくりと、あるはずのない視線で睨みつけるかのように確認をする。
残された可能性について少しでも多く情報を集めることは、おおよそにおいて間違いではないはずだ。
そういえば、とメイはゆっくりとした足取りを止めることなく、ふと軽く思い返していた。
オーギは、キンシとトゥーイにとって先輩にあたる魔法使いはあの後どこに。
彼もまた作業に移るとかなんとか、そのようなことを匂わせていたということは。
もしかしたらこのような空間が他にも存在して、それこそどこかしらの秘密組織お抱えの研究機関みたいに、それぞれに部屋が与えられていると。
つまりはそういうことなのだろうか、だとするとここは見た目以上に利便性が高い空間なのかもしれない。
そして同時に、その仮定が正しいとするとして、いよいよこの「自称」図書館の意味不明さが高まるばかり。
「……っと」
なんて、色々と考えている内に、あっという間にメイは魔法使いとの接近をサラリと成功させてしまっていた。
むしろこのまま思考に意識を沈めたままでいたとしたら、キンシのすわる椅子に追突事故を起こすところだった。
予定外以上に結果を出してしまった、メイは別に必要はないと分かっていながらも、不必要に息を殺して一歩二歩、後方へ後ずさりをする。
それこそ大して意味のない行動であったとしても、そうすることで気分的にも魔法使いの全体図を隈なく観察できるように、なるような。
とにかく、メイは静謐の継続線の上で呼吸を一つ、瞬きを数回。
そうしてもなおキンシは近くにいるはずの異物に気付く素振りもなく、机にかじりつく勢いでかたかた、かたかた、と。
パソコンを使っていると、いまさらながらメイはそのとき初めて、キンシが作業に使用している道具の正体を判別する。
「……」
いちおう酸素と二酸化炭素およびその他の循環機能は働いている、それぐらいのことは黙認できる。
言ってしまえばそれぐらいしか、それだけしか解らない。
記憶に間違いがないかどうか、そんな真偽をかける必要性もなくごくごく最近の出来事。
彼らは魔法を作るだとか、それは兄を救うために必要だとか、間違いなくそのようなことを申し立てていたはず。
魔女と自称してはいるものの、実際にそのような存在として生きていた経験は限りなくゼロに等しい。
だから魔法だとか魔術だとか、知識自体はそれなりに有してはいるものの、情報を自分のものとして自覚できない以上、自身の見解に過剰な自信を持つべきではないと。
そう思ってはいるものの、しかし、メイはまさしく目の前で繰り広げられている行動に疑問を抱かずにはいられない。
「……」
呼吸以外で外部から確認できる活動、せいぜい特筆に値すると言えばそれは腕のみに集中させることになってしまう。
腕の先、左右に五本ずつしっかりと設計されている指。
キーボードと呼称すべき、それ以外に言い様のない道具の上をせわしなく動き回る指の先。
まるで地を這うムカデの脚部のようで、およそ人体を形容するには失礼が過ぎると思いつつも、メイはそのイメージをどうにも拭えないでいる。
それは単に焦燥感も関係していたであろうと、戸惑いは大して時間もかからぬ内に嫌悪感の正体を突き止めてしまう。
私は少し苛ついている、この魔法使いは一体何をしているのか、それが全く分からないが故に。
考えるばかりでは仕方がない、そんなに気になるなら直接問いかければいいではないか。
メイはすぐにそう思う。
思ってはみたものの、だが行動に映せるかどうかは全くの別問題であると、彼女は静かに物事の心理を突き付けられていた。
見るからに集中しきっている相手に話しかけて、ぶしつけな横槍を入れるべきではない。
なんて、いかにも普通じみた一般常識がこんな所で自身の心情を縛り付けているなどと、そんな馬鹿げた事実を認めたくはないのだが。
分からないことが多すぎて、肉体的にも精神的にも摩耗が激しくなっていることは否めない。
疲れているのだ、忘れかけていた体の痛みも熱と共に再来を、口の内壁が生臭く腫れてきている気がする。
視界がチラチラと、隅から紫色の点描が侵食してくる。
貧血だ、メイは独り勝手に診断をする。そういえばあの時はだいぶ血を流してしまったし、あれからちゃんとした栄養を摂っていない。
空腹を感じている訳ではない、むしろ吐き気を覚えて、胃の内壁が滲出する液体によってズクズクと溶解されている感覚がある。
栄養不足がむしろ栄養を拒絶しようとしている、小さく繰り返される矛盾の中でメイは何故かトゥーイのことを思い出していた。
理由なく、なんて事もなしに、彼の作った料理のことが頭に思い浮かんだのだ。
脈絡なんて無い、せめて見出すとすれば食欲が生命の危機を感じて、走馬灯の如く昨晩の食事風景を再生したと、そういうことになるのだろうか。
いいえ、それだけじゃないわ。メイの頭の上、正体も実体もなく浮遊している無意識が一方的に意見を述べる。
私が彼を探そうとしている事、その行動には重大な意味がある。
自分はトゥーイに対して、彼の姿に救いを求めているのだ。
中身のない安心を、虚ろなる充実感を。
それは一重につい先ほどの、彼と二人きりになっていた時にされたカミングアウトが深く関連していることは否めない。
そうであれば、いま考えるべき事柄はそれではないと、メイは即座に判定を下す。
あれは、……あのことについて私は何も知らなさすぎる。
先ほどまでの堂々巡りを全て圧倒するほどに、与えられていた不可解が限定的に彼女の肉体から疲労感を払拭させる。
「はあ……」
過去にも今にも、そしておそらくは未来にわたり、追求しなくてはならない事象が多すぎる。
途方もなさにメイは嫌気を、だが立ち止まる訳にもいくまいと。あきらめに似た温度がフツフツと胸の内に灯る。
と同時に新たなる疑問が、もうこれ以上は必要もないというのに、飽きることなく芽生えてきた。
メイはその場でクルリと周囲を見渡してみる。
左から右へ、上には明かりがあって、下には本がたくさんある。
時間があとどれだけ残されているかはわからないが、しかし彼女は念入りに確認作業をする。
そうすることでようやく、少しだけ自信を以て答えを導き出すことが出来た。
でもあまり食べたいとは思わない。




