魔法使い準備中
絶望を感じました。
その白色に対して何も感じなかった、などと余裕ぶったことが彼女に出来るはずもなく。
メイはただただ、目に見えない体の芯から内臓、神経、皮膚と毛穴まで立ち上ってくる好奇心という名の熱量に身を任せている。
もっと間近で、実際にはこれ以上接近しようもないくせに、それでは足りないとメイはもっと子細な情報を。
この不思議な魔法使いの図書館、それを構成している物体。
いや、いまさらこのような呼称を使うべきでもないかと、メイは独り勝手に考えを改めていた。
もうこの図書館に対して、物、などと他人行儀な呼称を使えるはずもない。
形こそこの世界にある生命体とはかけ離れていて……。
なんて、こんな考え自体が間違っている。メイはいまだ脱しきることのできない己の見解の狭苦しさに、あらためて憐憫に近しい呆れを抱かずにはいられない。
生き物であるとか、そうでないとか、それがなんだというのか。自分のような存在がそのような両県に囚われているだなんて、滑稽を通り越して恐怖すら感じさせる。
恐怖は差して時間を経ることもなく、過去の忌まわしき記憶を呼び覚まそうとしていて。
メイは少し体を屈めて、なんとか記憶の本流を血液の流れごと押し留めることを試みる。
そうすると唐突に口の中へ生臭い、それでいてどこか親近感のある塩味がよみがえってくる。
思い出しかけた過去の代わりにごく最近の出来事、怪物に襲われ、この身丸ごと捕食されかけたときの場景がまぶたの裏にチラチラと明滅した。
思えば異形の生き物に出会ったのは、なにもこの瞬間に限定されている訳でもない。
自分は既にこの驚きを経験していたのだ。
だけどどうにも、メイにはあの凶暴で見境が無く、それ故にどこかしら雄大な美しささえ感じさせるあの黒いヌメヌメの皮膚と。
この瞬間に触れている、白くて硬い肌が同じ存在だとは、どうにも思えなくて。
だけど所詮、そのような印象の差異すらも単なる思い込みの産物でしかないのかと。
「うーん……?」
考えようとして、まとめようとする。してみようと、してはみたものの。
「ダメだわ……全然わからない、まったくもって意味不明でしかない」
まだ成長しきっていない、柔らかい頭蓋骨の下に内蔵されている脳細胞が持ち主の指示に従って、一生懸命に働こうとしている。
その健気さも虚しく、幼き魔女は一向にもっともらしい答えを得られないまま、中途半端なはてなマークの吹き溜まりにズブズブと埋没をするばかり。
「おじい様も、こういう時になにか役に立つ知識を、私に組み込んでくださればよかったのに……」
あまりにも堂々巡りを繰り返し過ぎる思考、あるいは完全に自身の挙動が他の誰にも見られていないという安心感、それに基づく生温かな油断。
「しかし知識は自分で獲得しなくては、与えられるばかりでは不十分だと、僕は思いますね」
だからこそ、背後からいきなり他人に話しかけられたことは、彼女には最大級の驚愕に値し。
「ひあああっ?」
それまでに一定の平均差をもって保たれていたはずの静寂、そんなものは下らぬと言わんばかりに。
白い部屋の中に幼女の悲鳴が、切り倒される巨木の如く空気を振動させていた。
「わわ、わわわ、わ、っと……」
メイの過剰なる反応にキンシは目を大きく見開いて、何とか彼女の心を平静にしようとする。
「大丈夫ですよメイさん、何もしません、ぜひとも餅ついてください」
だがそれは瞬間的に上手くいかず、形としては失敗に終わった。
「えっと……?」
最初に原因を生み出したが故に、若干の気まずさの中でメイは若い魔法使いに取り繕うような微笑みを向ける。
「落ち着いて、と、言うことかしら」
魔法使いは瞬きを一回する。
「えっと、まあ、そんな感じです……はい」
「ごめんなさいキンシちゃん、いきなり大声を出して。お行儀が悪かったわよね」
メイの恥じらいにキンシが慌ただしく否定をしようとしている。
それよりも先んじて、彼女は相手の装いの変化に気付かされていた。
「ずいぶんと軽くなったわね」
何も今更魔法使いに対する軽薄さだとか、軽率具合を指摘するなどと、そんな気概を彼女が有しているはずもなく。
「え? ああ、はい、集中していたら暑くなってきたので、さっぱりきっぱり脱いじゃいました」
それにしてはスッキリしすぎている、これはもう下着としか言い様がないのではないか。
ぴったりと肌に密着している、縫い目の見えない黒色の布に、あれではポンポンがペインせしめないかと。
メイは少しだけの不安を。
しかしすぐに、また自分の見解のみで物事を語ろうとしていることを恥じる。
あれだ、もしかしたらいまどきの巷を行き交う若者の間でウワサの、機能性素材で作られているかもしれないし。
大体、そもそも、魔法使いがどのような恰好をしているだとか、そんな事は毛ほどにどうでもよくて。
「えっと、それで、何でしたっけ?」
スッキリスマート形態になっているキンシが、自身の行動に対して忘却をあてがいかけていたところで。
「あ、えっと、うん、そうでしたそうでした、ここの資料をとりたいと」
しかし今は忘却に浸っている場合ではないと、瞬間的に記憶力をフルに活用して、キンシは自身の所有物から資料を探そうとする。
見ればその腕には既にいくつかの、よく見ればメイの座席として使用していたはずのものも含めて、魔法使い的見解に目ぼしいとされる基準によって集合させられている。
「あれ、あれ……?」
先ほどの道すがらですでにかなり多くの資料を持ち寄ったはずなのに、キンシはなおも別の本を探そうとしている。
「おかしいな、ここにあった香水についてのムックがない……?」
色々と頭を働かせた、その疲労感ゆえに緩んでいる口元から囁くような独り言が。
「これかしら?」
それを聞きのがなさなかったメイは、そう言えば自身によって位置を勝手に変更させてしまっていた一冊の在りかをキンシに伝える。
「おお、それですそれです、ありがとうございます」
そのついでに彼女がサッと手渡しをする、受け取ったキンシは簡素に礼を伝えた後に、もう何も思い残すことはないと言った感じに、さっさと自身のするべき作業に戻って行ってしまう。
その後ろ姿、頭髪と衣服の色合い的にほとんど影にしか見えない。
ゴム長の靴底、踵にくっ付けられた突起が床と触れあってこつんこつん、と。
メイの視線に構う様子もなく、キンシはそれまで続けていた作業を再び再開し、継続を行うために。
部屋の中心にこうこうと輝く明かりから少し離れた所、どかんと重たそうに設置されている作業台へと戻っていく。
距離はそんなに離れている訳でもない。
そもそもこの白い部屋自体がそこまで広くもない、とはいえ狭いとも言い切れなさそうな。
住居と車と道路と、それらを清潔に管理するための公共施設以外の何も無い、そんな町の公共施設にある多目的ホール。
そのぐらいの範囲しかない空間、だからこそ果ては簡単に見渡せて、幼女と魔法使いとの間もそんなに離れている訳ではない。
「よっこいしょっと」
明らかに体の大きさと見合っていないサイズの机、あからさまに伸長に則していない高さの椅子によじ登る。
キンシの掛け声がうら寂しく聞こえてくる。
安上がりで細々としている座椅子に腰を下ろす、もはやこちらの様子などどうでも良いと。
もしもこのままあそこまで直進して、あの小さな背中に凶刃を向けた所で、そんな事はささいな出来事でしかない。
そう誇示しているかのように、キンシは背中を丸くして作業に集中し始めている。
その姿はまるで冬の梢にひと時体を休める野鳥を思わせて、メイは胸の中に張りつめるような冷たさを感じていた。
だからなんだというのです。




