風はどこから吹いている?
気圧の変化。
時間にしてみればそう大して経過を含んでいたわけではない。
ここにもしも時間を計測するための道具が、それは高性能のデジタルストップウォッチでも、アナログを極めた砂時計でも、とにかく何でもいい。
何でもいいから、メイは自身の体を通り抜けていった時を、事実的な記録が欲しくて、渇望していたと言っても過言ではない。
のだが、しかしそんなのは紙の上の御馳走を乞うのと等しく、無意味な願いでしかなかったし。
「あ、あああ! ああ、あ、ああ、あ」
そんな欲望に身を費やす暇もなく、それよりも隣の魔法使いから発せられる異常性の方に、彼女の思考はほとんど惹きつけられてしまっていた。
「ど、どうしたの? キンシちゃん」
びくびくと、今まさに猛禽類に捕食されんとしている蛇の胴体のように、震動するキンシの腕に釣られて自身も体を揺らす。
メイは出来るだけ相手の動きにつられないよう踏ん張っている、震動自体は通り雨的にすぐさま収まったものの、しかしキンシの動揺自体はおさまりをいまだに見せていないように見える。
「何ということでしょう、これは驚きです」
「だから、どうしたの?」
よっぽど目の前の現実が信じられないのか、キンシは幼女の問いかけに答えることもできずに、そろりそろりと、ただでさえゆっくり君だった歩みをいよいよ忍び足に達するまで緩めている。
「キンシ……」
疑問は尽きずそのまま突き抜けようとしている、メイはもう一度同様の問いかけをしようとしたが、しかし魔法使いのただならぬ様子に反射的な沈黙をせずにはいられなかった。
「しいい……、お静かに……。急に大きな声を出すと、驚いて逃げちゃいますから」
実際にキンシはメイに沈黙を要求している、その視線はじっととある場所に向けられ、強固に固定されている。
大人しく唇を閉じて、メイは視線だけをそっと追いかける。
人間たちの視線が集まるところ、そこには。
「あ、また扉」
それはまさしく扉で、扉以外の何ものでもない。
ただ、あえてそこに異常性を見つけるとするならば、なぜ図書館のただなかにあんな扉が、あからさまに周囲の景観とそくしていない。そんなデザインの扉が、書棚と書棚の合間にうずもれるかのように設置されているのだろうか。
そして何より、この奇怪なる図書館の主たるキンシの、まるで何か希少な動植物でも見つけてしまったかのごとき反応は、一体。
「そうっと……そうっと……」
キンシは全身に集中力をみなぎらせて、しかし右手には幼女を引き連れたままの恰好で、左手にはいつの間にか鍵が握られている。
鍵の矛先は真っ直ぐ、緊迫による震えの中で扉の方へ、まるで何者かの手によって御あつらえられたみたいに開けられている。
人間の頭蓋骨に似た形状の鍵穴へ、伸ばした切っ先を深々と挿入する。
コト、コクン……。
おうとつが組み合わされる微かな音。
結合が果たされ、言葉も必要とせずに扉へ指示が言い渡される。
その瞬間、メイは一瞬扉が爆発四散したのではないかと、そう思い込んで小さく悲鳴をあげかけたが。
しかし実際には扉その実態を少しだけ膨張させただけで、後にはいつも通りの姿を取り戻していた。
「あれ?」
メイが呆けたようにして、すぐに起きた事象について思考を巡らせようとする。
だが彼女に考える暇すらも与えずに、キンシはその手を扉の方向、その奥にあるとされる空間へ向けて引率しようとする。
「さあ、予想以上に早く事が進みましたが。しかし早いことは基本的に良い事、そういう事として」
当然のようにためらいを匂わせる彼女に構うことなく、キンシはずんずんと本の隙間の扉に進もうと。
ついに爪先がそこと接触しようとしている。
メイはそのゴム製の爪先と扉が触れ合う、それに準ずる衝突音を予測して、もしかしたら期待していたのかもしれないが。
しかし、いくら待てども望んでいた音色は聞こえず、あるのは限りない無音だけ。
メイは恐る恐る視線を下の方へ、魔法使いの足が、扉と呼ぶべき物体があるはずのそこへと向けてみる。
やはりそこには扉があって、視覚はそうであると間違いなく、紛うことなく認識をおこない続けている。
だが同時にその存在は不確かで、そのあいまいさはむしろ悲劇的にさえ思う。
魔法使いの無遠慮な爪先を、本来あるべき形として拒絶することもせずに、まるで水槽の水に触れるかのような柔らかさでやすやすと受け入れている。
その光景にはやはり魔法的不思議さもあり、同時に何かもの悲しさを、なぜかメイは抱いていた。
「さあ、彼女の気が変わらないうちに、早く」
言葉こそ丁寧に雄大さを演出しようとしてはいるものの、その瞳には焦燥感とこれからの作業に対する疲労の予感がもうもうと立ち込めている。
何が起きているのか、全く理解が追い付かない。
しかしこんな所でなにを恐れようというのか、もうすでに最悪の事態は起きてしまっているのに。
メイは自身でも不思議に思うほど自虐的な気分におちいりかけて、その感情の言動りょが何から影響されているものなのか。
納得を置いてけぼりにして、メイは扉の奥へと、図書館の最深部へと足を踏み入れた。
さて、というわけで、彼らはついにキンシの作りだした不思議で摩訶不思議な、奇怪奇々怪々にて奇妙奇天烈なる図書館の最深部へと足を踏み入れたのだが。
しかし、それにしても……。
「なんなの……ここは?」
もう飽き飽きと、何度同じことを繰り返すのだと、メイは自身に対して呆れを覚えそうになる。
飽きて、呆れ果てて、だからもうそれは必要のないはずなのに。
そのはずなのに、それでも感情は彼女の身体を深く支配して、それはつまりまぎれもなく彼女自身の意識によるものであると、嫌でも自覚せずにはいられない。
彼女は驚いていた、灰笛という場所でこの肉体に驚愕を貫かせたのは、これで何度目だろうか。もはや数える気にもなれない。
たどり着いた部屋、そう区分されるべき空間の中。視線を巡らせる必要性も無く、彼女の視界にて魔法使いたちは自由に、勝手気ままに作業へと没頭している。
部屋に侵入を果たした瞬間、自身にとりあえずの休息場所を設定した後に、彼は一目散に作業へと進んで行ってしまって。
とにかく早く事を進めたいと、それは一重に自分の兄を救いたい一心であると、メイは少しでも楽観的な思考に身を浸したくなる。
だが思考に暖かさを、余裕を取り戻すと途端に忘れかけていた痛覚がしつこく蘇ってきて、つい身をよじらせようとする。
そうすると座席が、座席とは名ばかりの書籍やら資料を乱雑なる適当さによって積み上げただけの塔が、メイがたったいま文字通り腰を落ち着かせている急ごしらえの座席が不安定に揺れて、彼女は不必要な冷や汗をかきそうになる。
「しまった、椅子がありませんね。ちょっと待っていてください、あの辺に転がっているのをこうして……こうやって集めて重ねて……。はい! かさねがさねお手数おかけしますが、しばらくここで待機をお願いします」
確かそんな事を、大体にして言っていたような気がする。
数分前の出来事でもすでに忘却のそこへと追いやられかけているのは、たんにメイの思考が疲労の限界値まで近づいていることに限定されているだけではないと、他の誰よりも彼女自身が理解していた。
しているつもりだが、そうであったとしても。
グルグルと袋小路にはまりかけていた意識を留めないよう、メイは数回ほど深呼吸を繰り返してみる。
扉は閉じられているはず、そのはずなのにどこからか冷たい風が侵入をしてきて、彼女の汚れた衣服の裾をヒラヒラとはためかせている。
娯楽作品は最高だな。




