魔女は判断をあやまった
君は動かなくなった。
まただ、とメイは疑問に思う。
ついさっきにもキンシの口から「彼女」という、だいたいにして人間の女性に使われる代名詞が登場していた。気がする。
数に数えてみればほんの些細な、ちょっとした言い回しでしかないと思えるが。
しかし、魔法使いの声音はどうにもそれをこえた、どこか深い意味が込められている。
そんな予感にメイが心をざわめかせて、ついには蠱惑的な好奇心に負けかけていた。
そのところで。
「先生は調査に緊急性を魂に呼びかけるべきなのです」
トゥーイがすたすたと近づいてきて、キンシに向けて何か内容を伝える。
「正かしか大人に対抗できる方法などそれしかないのです、そう思いませんか」
「わかってますよ、もう、今そんなことを言われたって、どうしようもないでしょうに」
不満げにしている魔法使いを他所に、トゥーイはサッと二人に近付き追いついて、何故かメイの方に話しかけようとしてきた。
「わざわざ表現のパースを選ぶことまで、差分は明晩明かされる引き継ぎ」
「んん……ん? えっと」
元気百倍百パーセント、今の自分が健康体そのものであったのならば、メイにもトゥーイの言葉を理解しようという心意気を抱けたのだが。
しかし、あいにく今は不健康を通り過ぎて、むしろ体中に不快感が染み渡っている。
「ええっと、あっと」
なんと答えたものか、予想外に与えられた危機的状況。
メイは迷いに迷って、時間にしてみればほんの三秒の後に。
「その、ここにはどれだけの本が、どのくらい収められている、の、かしら?」
なんとも面白みのない、また脈絡も何も感じられない話題を言うこと、それだけが彼女に選択できた方法でしかなかった。
「………………………」
幼女の質問を受け入れて、トゥーイは数回まばたきを。
暗がりにもツヤツヤと、色鮮やかな紫玉葱いろの瞳が丸々と微かに動く。
やがて彼の身に着けている首輪から、彼女による質問に対する回答がスムーズに発せられる。
「検索キーワードに則した結果の元、当図書館にはおよそ十万冊の資料が確認されます」
律儀に答えてもらったことについて感謝の念を伝えるよりも早く、いきなり登場した現実的のようで、それでいてどこか実感のわかない数字に、質問者であるメイは単純なる驚きを隠せないでいた。
「そう……、そんなにもたくさん……」
あまり詳しくないがゆえに驚愕をしている、幼女の隣で魔法使いが溜め息に似た音を吐いた。
「いえいえ、いえ、しかしながら、そんなに驚くようなことでもないのですよ」
考え事から脱した思考が、足を動かし続けたままの肉体で現実感のある事柄を思い出す。
「その程度の規模、蔵書量であるのならば、地上の図書館でもそこらじゅうに。鉄国はおろか、灰笛の中でもここ以上に沢山資料を保管している施設なら、探す必要もなく多数存在が確認できますし」
要するにここ以上の規模がある図書館ならば、地上の公共施設でも十分。それどころか機能面としてはそちらの方が優れていると、館長自ら申しているということ。
「図書館、その呼称を何となく使用してはいますけれど。しかし、どうにも、ですよね……」
書架に向けられていた視線は下に、しかしそこにも同様の物体だけが広がっている。
まるで誰か、ここにはいない人間に向けて文句を言いたげな、そんな空虚が瞳に宿っている。
それでも唇だけは妙に滑らかさを保ったまま、上方だけをすらすらと音声にしている。
「それでも図書館の名を関している以上は、それに準ずる業務を行わなくてはならない。僕は館長として、キンシとして、日々の日常を資料集めに費やしている」
一通り風景を、こなれた様子で眺めまわして、結局その瞳は逆再生よろしく元の位置に固定される。
「二人だけだとどうしても、上手い具合に行かないことはありますけれど。しかし、でも、ここの図書館をより完璧な形にする、それが先代の生涯をかけた願い、でしたから。僕は、僕はキンシとしてそれを果たすために生きている」
そう言いきるキンシは隣の、自身のことをじっと見つめている幼女に視線を。
片方だけの眼球と向かい合う、左右の紅緋色の瞳が生き物に反応して収縮する。
とっさにメイは視線を逸らしたくなり、自身の中に少し芽生えた魔法使いに対する違和感を、何故か今だけはどうしても知られたくなくて。
出来るだけ違和感の無いように、それ故にどうしても不自然に苛まれながら、ただひたすら足を動かすばかり。
前方には書籍の海、もしくは密林、樹海と言った方が一番近いのか。
そろそろ似たような風景に嫌気が差してきそうな、余計な嫌悪感まで呼びさまされようとしている。
「他に」
互いに手を取り合っているのにもかかわらず、内心はどうしようもなく中途半端な空間を漂っている。
あえてなのか、それとも無意識か。どちらにしても二人はちょうど、まさしく割って入る形に声を発する青年に一驚せずにはいられなかった。
「他に? 質問がございませんか」
見下ろしてくる視線はメイの方にこそ向けられているものの、だが彼は自分のことを見ている訳ではないと、彼女ははっきりと確認することが出来た。
「うーん、そうですね……」
答えられないでいるメイの代わりに、キンシが唇に指を添えて少し考える。
「まだ彼女の元へは少し時間がかかりますし、そうですね、せっかくならこの図書館。魔法図書館の資料収集傾向について、ひととおりご説明しますか」
歩みは止まらない、その中でキンシはなんて事もなさそうに。
いたって普通の、健康的な温度を保った様子で話し始めようと。
したところで、
「うーん、しかし……、いざこうして利用者の方に口でご説明するとなると、なかなかうまい例えが思い浮かびませんね。いやはや、日ごろの口下手がこんな所で、こんな形で弊害を生むとは」
別に必要ない、そこまでハッキリと言いきることもできずに、メイは魔法使いの口を観察している。
「先生、白血球の参考に提出を希望します」
トゥーイが何かを伝える、そのままにある物をキンシの方に差し出してきた。
「おお、これはこれは」
キンシが眼鏡の奥で大きく目を見開く、メイも気になって青年の指の中にあるそれを見てみる。
「なんとも、丁度の良い。オーギさんに貰ったんですか?」
右手に幼女の指を、左側の手でキンシは青年から小さな小瓶を受け取る。
「それはなあに?」
不思議がっているメイに、キンシは手の中の小瓶を彼女によく見えるようにする。
「ガラスの小瓶……、香水瓶のようにみえるわね……?」
それは手のひらにすっぽりと収まってしまう程度の、握りしめてしまえばたやすく粉々に砕けてしまいそうな。
しかしそうであるがゆえに、弱々しさの中で確かな美しさがある。
赤色と金色を基調とした配色が施されたガラス細工は、水面のように不確かな曲線を描いて、そのままの形質を世界に固定していた。
「なんだか」
トゥーイからキンシへ、メイは人の手の中にあるそれをそっと、自らの鋭い爪で傷つけないように受け取ろうとして。
寸前、寸でのところで思いとどまる
大丈夫なのだろうか?
それは薄く、頑丈さや堅牢さからとは遠く、彼方の地点まで離れている。
彼女は自分がそれに、小瓶に触れてはいけないのではないか、そんな強迫観念に一瞬だけ囚われかける。
こんなにも繊細そうな物が、はたして自分のようなけがらわしい生き物の手に触れるべきなのか。
思いとどまって、停滞して、最終的に諦めようとしていた。
「何しているんですか」
しかし魔女の判断を、魔法使いは許さなかった。
近所の焼き肉屋にピンク色の塩が置いてあって、それが結構美味しかったんです。




