陥落する価値観
ずぶずぶと沈む。
言っている意味が解らない、なんて当たり前の疑問を抱くことすら必要もない程にこの状況は異常ではあるものの。
「それは、どういうことだ」
しかしルーフは形式ばった質問をしない訳にもいかず、空振りした歯茎が虚しく空気に撫でられているのをヒリヒリと感じている。
「それはどう言うことかって? それはですね、ナナセはボクと、ボクの愛すべき妹とで兼用している、つまりのところ通称名、職業名みたいなものでしてですね」
特に大した用事など最初からなかったと、そのような挙動にてハリは腰をゆっくりとあげて、少年も少女もいないものとして扱うかのように、演劇じみた所作をくるりくるりと作り上げる。
「ナナセと言うのは、わざわざ確認をするまでもなくあなたならお分かりになっていると思いますが、数字の七をモチーフにした名称でして。ああ、ほら、あなたが携帯していた生物兵器、あれにも似たような名前があったでしょう、ねえ?」
完璧に綺麗ともいえない、かといって劇的に汚濁している訳でもない歯茎をあらわにして、ハリはルーフに答えを特に必要としていない質問文を振り落してくる。
「あの春日と木々子の遺伝子を組み合わせて制作された魔女型の兵器は、多分ボクらにとってはいっこ下の後輩にあたるのでしょうか?」
ハリが、ナナセという名称を与えられている男性が、後ろの上司に向けて軽い確認をとろうとしている。
「その辺の判断については、はっきりとした資料が無いので、なんとも言えないけどね」
モアは装飾過多な裾をヒラリヒラリと軽くひらめかせながら、すこし考えた後に短く答えた。
「性能の上ではナナセ、貴方の方が優れていると実践において証明されたけれど」
その後に「ただし、状況の不具合等々も……」とモアが一人思考に浸り始める。
それを他所にナナセ、もといハリはまるで子供のように瞳を輝かせ始める。
「やったー、お嬢様に褒められてしまいましたよ。これはアリと一緒にお祝いしなくては」
和やかに会話劇を繰り広げているつもりなのだろうか、こいつらは。
それにしたって質が、クオリティーが酷すぎる。なんて事はどうでも……。
「どうでも……」
「ん? またなんか小声で言おうとしてますよ、この王子様は」
どうでもいいんだよ!
ルーフとしてはそう叫びたかったのだが、しかし感情を体で受け止めることが出来ず。
「があああ、あああ! ああ!」
ただただ無意味な攻撃意識を牙に向きだすことだけ。
「ふざけんなよテメエらっ、ぶっ殺し──」
現時点で最大限引き出せる罵倒を吐こうとして、しかしそうしようとした途端に彼の顔面は横方向による強烈で激烈な衝撃に吹っ飛ばされていた。
「あ」
モアが驚きの声を、実のところはそんなに驚いてはいなさそうな声を発していたのが、聴覚器官を介して衝撃に呆ける脳味噌に届けられる。
他人の声だけが後を引いて、瞬きをもう一度繰り返す頃には倉庫内に耳を聾する崩壊音が鳴り響いた。
ドンガラガッシャン! 昔懐かしい漫画作品だったらそんなオノマトペの後に、グルグルと頭上にひよこを回転させるところ。
しかしながら現実はそんなに平和的に美しく済むはずもなく。
大の大人に蹴り飛ばされて惨めに転がり鉄箱の山に激突したルーフの頭上にて、崩壊の結果が新たなる要因を引き起こさんと、彼に向かって真っ直ぐ落下しようとしてくる。
「危ない」
はたしてこれが自分の声だったのか、それとも少女の物だったのだろうか、判断をつける暇もなくルーフが衝撃に備えて虚しく身を固くした。
「………っ、………?」
しかし待てども待てども、いつまで待っても彼が期待に近い形で予想していた痛みは訪れることをせず。
だが自分の周りではとても無傷では済まなさそうな衝突音がガランゴロンと連続しているため、目を開けたくても恐れがなかなかそれを許そうとしない。
数秒ほど経って、崩壊と落下が一しきり終了した頃合いに。
「あー、びっくりした。どきがムネムネしましたよ」
もう辛抱たまらんと、ルーフの眼球は現実を受け止めるための動作をする。
降り注いできた声に誘われる形で彼は恐る恐る上を見る、今のところ痛みは最初の一撃、ハリに蹴り飛ばされたときのそれ以外に確認できない。
「あ、間違えた。胸がどきどきしました」
とてもじゃないがそんな間違いを犯すとも思えない、それ置いたって真面目くさった顔つきでやっている男。
ハリはルーフに覆い被さる形で頭上天高く、太陽の代わりに電灯に手をかざす格好を作っている。
「いやはや、ついつい興奮してしまいました。すみませんでした、大丈夫ですか?」
不恰好なまでに丁寧な謝罪文を上から言ってくる、ハリは手をかざしていて。
「な、あ……?」
その先には黒々とした壁が、とても柔らかそうで限りなく液体に近い。
いや、あれは液体そのものといった方がいいだろう。
墨塗り色の液体が彼らの上、ハリの腕を中心とした円を描いている。
「いやはや、自らが招いた失態とはいえ、こんなお粗末な魔法を使ってしまい、ボクはお恥ずかしい限りですよ」
なんてこった、あれも魔法なのか。
ハリの作成した魔法の黒い壁は使用した目的に従って、本来ルーフに向けて落下するはずだった鉄の箱からの衝撃を見事なまでに反らしている。
魔法の壁、というよりむしろ傘に近い。その場しのぎの蝙蝠傘はすぐに空気中に融解して、ほろほろと跡形もなく消滅する。
残されたのは虚しく軌道を変えられた鉄箱の海と、その中心に台風の目の如く転がっている少年と男。
「駄目ですよ、王子様」
ハリは腕を、左側にあるそれをあげたままの姿勢で、再三顔面をルーフのもとに接近させる。
口内の組織から発せられる臭気を感じさせる、ギリギリの距離にて彼らは視線を交わす。
「あなたともあろう御方が、そんな糞よりも汚らしく活用性の見出せない言葉遣いをするなんて。ただでさえ低い存在価値を、モホロビチッチ不連続断面まで食い込ませようと、そういった根端ならば今すぐにお止めなる事を推奨しますよ」
生臭い、それは決して臭気がキツく嗅覚神経に耐えきれるものではないだとか、そんな単純明快な嫌悪感ではなく。
何と言うべきなのか、自分以外の人間の匂いを感じることに理性が拒否反応を示してるかのような。
「君にはそれは似合わない」
しかしながら確実に、他の生き物の排泄物を感じ取ってしまったかのような。
限りなくそれに近い嫌悪感だけは存在している、限定された感情が彼らとの間にごく短い間隔で取り交わされている。
「たった一人、それだけの経験人数ごときで威張っているなら、そんなのはその辺の小悪党にすら劣りますよ。やるなら百人ぐらいやっとかないと」
「なんのこと、を……?」
困惑しているルーフを他所に、未だに左手を元の位置に戻そうとしない男は、これ以上たのしいことなどこの世界に存在していないかと。
そう宣言するかのように口元を上に上げている。
間違いなくその顔には笑顔が浮かんでいる、そのはずなのに。
広く一般的に平和の象徴とされるその肉の動きに、ルーフは皮下組織にまだ達する確信を得ていた。
「そうすれば英雄ですよ、王子さまから王様に格上げでしょうね。知らんけど」
そろそろ筋が痛んできたのか、ハリは接近させていた顔面を話して爽やかな溜め息を一つ吐き出す。
「ああ、嗚呼、もうへんてこりんな言い回しをするのも飽きてきましたね。この際だからはっきり決めておきましょう」
和式便器を使う時の姿勢に似た格好でハリは、気軽な口調でルーフに質問をする。
「貴方は人を殺したことがありますね? それでその罪から逃れるためにここへ、えっと? 被害者に関係する人物を探しにここへ、灰笛まで訪れたと」
変な体勢で奇妙な言い回しをした、軽い疲労感にナナセとも呼ばれる男性は気持ち良さそうに背伸びをする。
「遠路はるばる、逃亡旅行お疲れ様でした。しかし、もうそれもお終いですよ、安心してください王子様」
モホロビチッチ不連続面
地殻とマントルとの境界面のこと。略してモホ面




