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ここはどこ、俺は誰

体調不良。

 口の中に味が残っていたような気がする。


 それは何味なのか、口内にて沈む舌が味蕾(みらい)の突起一粒一粒をかけて思い出そうと、無味無臭なる懸命さを発揮しようとしていた。


 だがやはり無意味でしかなかった。ぼんやりポッカリ開かれ、若干カサカサと乾燥気味になっている内壁には唾液以外の味は存在していない。


 の、なのだろうか? 


 彼は疑問に思う、そう断定づけるにはあまりにも確信が足りない、そして疑いが過剰なまでに多くありすぎている。


 唾液の中? それか歯と歯茎の間。

 あるいは干からびかけている舌の表面。


 何処なのか、間違いなく自身の肉体であるはずなのに、彼はどうしてもその味が何処から由来しているものなのか、なかなか理解できないでいた。


 しょっぱくて甘くて、少なくとも苦味は無い、と思う。


 味は空っぽの、朝食から今に至る記憶している範囲内の一日に置いて一回、たったの一回しか食事行為をしていない。


 仮にも育ち盛りの類に属するこの身としては、それだけでもう拷問に近い苦しみがもたらされているであろう。


 鈍くどんよりとした存在感がある、その筋の物が獲物に対して放つ視線のような主張を胃袋に感じ、甘んじて受け入れ、他所事らしく受け流すこと以外に何もできない。


 錆びついているのではないか、その方が良かったのかもしれない。


 彼はそう願ったが、しかしそんな事が人間である筈の、それ以外の何ものにもなれないこの身におきる筈もなく。


 ああそうだ、これは血の味だ、確信が一つ。

 

 体重のおおよそにおいて、約八%を占める主要な体液、酸素と二酸化炭素の媒介、赤色、やがてはネトネトと粘着質に。

 

 最終的には赤色を失って、後に残るのは茶色く死んだカサカサでパラパラの赤血球。


 しかしそれは外部の話でしかなく、今は内部の事を話しているのだ。


 乾くはずのないその体液は艶々と口の中に残滓を漂わせている、これは誰の血だ、自分以外の誰がいるというのか、他人の血液なんて口にするような、そんな変り種でない事は彼自身が誰よりも知っている。


 長々と長ったらしい前置きはどうでもいい。


 甘く糸を引く脳内独白から乖離して、ひんやりと冷たく肌を刺す現実に意識を向ける。


(………ここは、…………?)


 まず最初に、さしたる段階を経ることもなくルーフは自身の名称を思い出して、鼓膜の内側にてその音をシミュレーションしてみる。


 一回、二回、三回。


 繰り返してみても違和感はいつまでも訪れようとしない、必要最低限の記憶は失われていない、その幸福を噛みしめると共にルーフの感覚神経は一気に覚醒へと上昇しようとする。


 甘さがあった、温かさもあったかもしれない。


 離れてみて初めて理解できる無意識の心地よさ。

 

 そこから若干の名残惜しさを感じつつも、皮一枚の向こう側からやってくる強烈な匂いが、彼の意識を否応なく嫌らしく無遠慮に、針で刺し回すかの如く刺激してくる。


 これは、なんだか生臭い匂いがする。


 それが自分の身から排出される体液に由来しているものなのか、それとも別の何かに由縁があるのか。


 詳しく判断をつけるよりも早く、ルーフは今まで自分が何をしていたのだろうか、そのことについて急速かつ迅速なる、現在の自分について情報整理をしようとする。


 俺は何をしていた? 眠っていたのか。


 早急なる、彼の陳腐な想像力ではそれ以外の何も思いつきそうにない。


 問題なのは結果ではなく、そこに至る原因となった過程である。


 どうして自分は眠っていたのだろう?


 血液の味を思い出した時と同じようなスムーズさによって、彼は一生懸命記憶を探り当てようと試みた。


 だがそれは出来なかった、したくなかった、といった方が近いのかもしれない。


 寝起きでぼんやりと熱を帯びている頭、しかしその熱が失われ、いよいよ本当に近い意味において自分が過去の事を思い出せばきっと。


 とても許容し難い予感の中に、ルーフはせめてもの反抗として視界を得ることによって気を紛らわせようと。


 こんな状態でもまだ現実逃避を図ろうとする、そんな自分の卑小な根性に呆れを、それとは別に関係ないだろう。


 いずれにしてもルーフは自らの望んだ行動をとることが出来なかった。

 目が開かないのである。


 皮肉にもここ数日の内で此処まで完璧に熟睡を、意識を遮断したことは無かった。


 だからなのだろうか、肉体がこれ以上の覚醒を望んでいないのだろうか。

 このまま永遠に眠り続けていればいい、本人の意思とは無関係に体がそう宣告を。


 そんな訳がない、そうなってたまるか。

 己自身であるはず、そのはずである肉の塊に反旗を起こしてルーフは顔面に力を込める。


「ひぐっ………!」


 そうすると、必然的になりを潜めていた痛覚が待ってました! と言わんばかりに表舞台へと壇上してくる。


 全身を、はたしてどの部位がどのように痛むのかすらよく分からないほどに駆け巡る痛覚。


「ああ………、あああ………」


 通り抜ける激震の後に残される倦怠感。


 自分の下方で何かが滴り落ちる音がしている。


 何が落ちたのか、毛穴から溢れ表面張力の限界を迎えた脂汗、それとも叫びによって開かれた唇から漏出した唾液。


 何でもよかった、どうでもよかった。


 そんな事よりも、嗚呼痛みが記憶を、せっかく引出しの奥に丸めて放置して、そのまま終業式まで忘却の彼方に捨て置こうとしていた現実が。


 思い出せた、思い出してしまった。嫌だったのに、だがそれが許されるはずもない!


 鈍い痛みが、どちらかといえば掻き崩した後の肌が外気に触れた時のような、ピリピリとした感覚。


 痺れは都会の夜の輝きと同じくらいの刺激的に、ルーフの記憶をフィルムの連続映像として再上映を猛烈なスピードで再上映を繰り返し始める。


 見たくないそんな、俺をそんな目で見ないでくれ。


 しかし記憶は、まだまだ新鮮さを失おうとしない思い出はその裾を体液の上でピラピラとひるがえしている。


 そうだった、自分は捕まったのだ。


 謎の二人組、片方は女でもう片方も多分女、そうとしか見えない。


 俺は捕まったのだ、なんたる体たらく、なんとも筆舌に尽くし難いマヌケ。


 妹はずっと自分から目を逸らさなかった、だけどルーフの視界は何者かの手によって、とても人間には発揮することのできない力によって、まるで怪物じみた力にて羽交い絞めにしてきた。


「………ああああ、ああああ………」


 ルーフは悲鳴をあげたかった、妹は悲鳴をあげていたのだろうか、きっとそうに違いない。


 怒っているだろう、こんな情けない自分の事を彼女はもういい加減に呆れかえって。


 諦めてくれればいいのに、こんな形になってしまって、身を切られ首を絞め捩じ切られるより辛いが。

 

 それでも彼女がこれ以上自分に関わってくれなければ、少なくとも彼女にとっての苦しみは軽減される。

 きっと。


 でも妹は自分を助けようとしてくれた。彼女はその小さく細い肩に在るべき以上の重荷を背負おうとして、内臓を握りつぶそうとする現実に立ち向かおうとしていた。


 それは勇気だったのか、それは確実だろう。


 だけどもしかしたら、彼女自身も自分と同じく何かから逃げたくて、その逃避行為のままに腕を伸ばしていただけなのかも。


 いずれにしても駄目だった、彼女はその強さの遥か情報に存在するものによって、あちらこちらから血が噴出することも厭わず叩き潰されて。


 何もできなかった、彼女の願いも、そして当然の事として自分の願いも。


 全部は無意味だった、遠い所に行って、そこで誰かに合えばもしかしたら幸せになれるんじゃないか。


 期待していたことに今更ながら気付く。

 ルーフは自分に自分で唾を吐きかけたくなった。 

しかし都合は待ってくれない。

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