刃はいつか肉を裂いてくる
あの海と一つになりますか。
こういうのは普通、三回まで待つものではないのか、それが世に広く伝搬するパターンのはずでは。
キンシはそう疑問に抱き、主張したくなったが。
「いいい? 痛い!」
しかしそんな猫のひたい程に狭苦しく、アイスの横にあるウエハースよりも軽々しい価値観など、脳をほぼ直接振動させる痛覚の前には無に等しかった。
「何を、何を……! しやがるんですかこの先輩さん様はっ」
今日一日どころか、ここ最近の中でも最大級に値するレベルの強さ。
それによって頭部を振動させる先輩魔法使いの手の平を、キンシは暴れ狂わん勢いで振り払う。
「前々から今更に言うことではないにしても、いい加減それを止めてもらえませんかね。いくら僕が毎日愛飲するレベルの牛乳愛好者であっても、一日に何度も叩かれたらそろそろ受けてはいけない所にダメージが及んでしまいますよ。それはとっても悲劇的ですよ」
「悲劇的になりたいのは俺の方だわ、このクソッタレが」
必死に主張をとばしてくる後輩に、その言葉に全くなびく様子すら見せることなくオーギはしんねりと目の前の子供を見下ろしている。
「まさかとは、前々から薄っすらと予感はしていた事だったが。それにしても、まさかここまでだったと誰が思えるんだってんだ」
キンシの主張を若干、あえて引用しつつオーギはなおもおのが欲望に逆らえないでいる指先へ向けて、キッときつめの制止を視線のみに限定して差し向ける。
「いいから、文句なら後々で幾らでも聴いてやるから。とりあえずそれをそのままで、それ以上素手で触るんじゃねえ」
「ええ……?」
この人はいきなり何を、素っ頓狂な事を命令してくるのだろうか。
キンシの意味不明はさらに深みを増すばかりで。
ああ、もう駄目だ。と事情を知っている分幾らか状況を冷静に解析できる分があるオーギは、一つ二つと深呼吸、空気を血液に満たし。
とりあえずまずはもう一度、今一度と己が確認してしまった現実による情報を肉眼によって再確認しようとする。
そんな先輩の事を、いつにない程らしくなく興奮気味に鼻息を荒くしている彼に、キンシは怪訝さ極まれんといった視線を向け続けている。
若者の冷ややかな視線など構うこともなく、オーギは自らの視覚と脳細胞に蓄積されている情報との整合性に、ジグソーパズルのピースが人の指によって導かれるかのような爽快感に、外気とは異なる内側からの寒気に肌を粟立たせた。
「ああ、チクショウ……嘘だろ? だけど、どう見ても本物だ。これが偽物には見えっこない……」
やがて彼は頭を抱えるように、あるいは怖いものから全身を持って逃避反応を行う、力無き幼子に似たポーズを作り。
「先輩?」
そろそろ怪訝さを通り抜けて、心臓の底に不安を抱き始めていたキンシ。
そんな後輩からのばされる裸の手を受け取ることもせず、オーギは勝手に聴覚器官から手を離し、次の瞬間には自分の近くに立っている幼女に。
青年に支えられながら、彼の厚手の上着に殆ど体を沈める形の上でやっと世界に足をつけて立っている。
そんな世界中のある程度の弱々しさを掃き集めたような、彼女に向けて感情のない顔面をじっと向けた。
いつの間にかこの場にいる誰よりも姿勢を低くして、ちょうどメイとほぼ同じ、それよりは少し上にある視線になっている。
メイはオーギと言う名前の魔法使いの、どこにでもありそうで、しかしここ以外の何処にも同じものなど存在していない、唯一無二の眼球を力なく、しかしハッキリとした意識のもとに見つめる。
膝が汚れることも厭わずに、オーギは目の前にいる彼女に向けて少しずつ、禁断の箱を取り扱うかのごとき要領にて自分の唇をゆっくりと開いて、隙間から言葉を空気へ滑らせていく。
「あんたは、いや、貴女は一体、何者なんだ? どうしてこんな物を持ち歩いている。それ以前に、これは本当に貴女の所有物で間違いないのか?」
彼はじっと彼女の方を見続けているため、外側にて棒立ち状態になっているキンシからは、先輩がその質問の最中にどの様な表情を浮かべていたのか、確認することは出来なかった。
見えたのは相も変わらず無表情の、そういえば、いつの間にかお気に入りの、バトスクイッドとか言う名称だったか、そんな感じのブランドで買ったマスクを着けていない。
そこにあるのは白い、メイの羽毛と負けないくらいに色素が不足している生の肌と、辛うじて内部の体液の存在を確信させる唇。
そしてその右側にずたずたと、線路のように走る紅色の傷跡。
それ以外に内部を守るものもない、それだけで何故かどこかしら頼りなさげに見える青年。
そして、そんな体を殆どすべてを預ける形で支えられている。
幼女は、彼女は。
「………」
なんとも意味深で意味ありげな沈黙を桃色の唇に浮かべている。
何故だろう? 不意な流れの上でぽつんとキンシの脳裏に疑問が浮上してくる。
どうして彼女はあんな表情を浮かべているのだろうか。
体は痛く、そして目の前には怪しい魔法使いが尋問の体勢を作っている。
お世辞など不必要な領域、身体に不調をきたすレベルで、と言うか実際に彼女の体は現在進行形で絶賛不調の極みである。
「………」
そのはずなのに、どうして彼女はあの様に安らかな、どこか見知らぬ国の偶像のように穏やかな輝きを瞳に灯しているのだろう。
疑問が次々と怪異の如き不可解さを呼び覚ます。
これ以上は耐えられないと、キンシの好奇心が粘つく涎をぼたぼたと垂らし始める。
「ねえ先輩、チョップもお説教でも何なりと、幾らでも甘んじて受け入れますので。ですから、いい加減教えてくださいよ。それは、その小さい金色は一体どういった物体なのですか?」
ほぼ懇願に近い質問文を宙に放出する、オーギは愚かなる後輩のいる方向を見ることもせずに、仕方なしと口だけを懸命に動かす。
「科学が未発達で、スマホやらインターネットやら、それこそ電気や水道も存在していなかった時代。俺たち魔法使いと呼ばれる、それの前身となる奴らは一体どうやって、日々の糧を得ていたか。その辺について知っているか?」
「は、へ?」
いきなり何を言いだす、と疑問に思うよりも早く、キンシの脳内にて先輩からの問いかけに対する一応の回答を、ささっと手早く導き出していた。
「えっと、現代の資本主義も確立されていなかったとして、社会機構のできていない世界……。魔法使いは、魔法に類する力を使える人間はそれ以外の人とは異なる生物として扱われていて。……だから、」
「その力を行使する際の報酬は、時として食料やら地位を遥かに超えた領域にまで達していた。らしい、だった、かつての伝説」
やはり姿勢を変えようともせずに、歌うような口ぶりで補足をいれてくる先輩魔法使い。
彼の台詞に乗っかる勢いに身を任せて、キンシは自身の知っている事柄を次々と調子よく言葉にしてみる。
「それで僕らの御先祖様は、そのトンチキに不思議な力を使って色々と、それはもう楽しげなことをやりまくった」
「それは? 具体的に何を?」
「え? えーと」
そんな、図書館の民俗学コーナーの書籍に記されていそうな、あるいは子供向け児童文学の題材にされそうな、とにかく古く広く伝搬されている昔話を、改めて説明することになり。
相も変わらずの意味不明の中でも、キンシはとつとつと先輩の要求に答えてみる。
「現代的に俗っぽい言い方をすれば、詐欺行為が有名ですね。たしか、有名な話だととある偉大な錬金術師から、大事な大事なお宝を大量に奪取しただとか」
灰笛及び、鉄国全体におおよそ伝えられている、発祥不明作者不明の伝説。
その物語の中では魔法使いはこの世在らざる異物、怪異じみた扱いの元、世界の断りを乱す悪役として登場して。
そして善良なる存在を、魔法が使えない人間から大事な宝を騙し取ってしまう。
子供的には人を騙してはいけないことだと、情操教育的に意識に刷り込む。
そして少しだけ大人になって、穿った見方をすれば、過去のこの世界における魔法使いの地位の低さ、そして錬金術師と言う科学との対比。
だとか、そうだとか。
単純さゆえに幾らでも好き勝手に出来る解釈の数々。
だが、それが一体。
「それが一体、何だと言うんですか。ただのおとぎ話、フィクションですよ」
その次に何が、はたしてそれが一体何の意味があるというのか。
好奇心は柔軟さの中で矛先に期待を滲ませる。
それに答えるつもりなど、別にある訳でもないのだが。
しかし間違いは正すべきだろう。
「そうだな、お前の主張は大体正解なんだろうな」
無知は、「知らない」はそれだけで幾らでも、水底も天井すらも越えて尽きることなく、無尽蔵に刃を作れてしまうのだ。
「知らないことは仕方ねーよな、知らなかったんだから」
そこでようやくオーギは地面から膝を離し、幾らか楽な姿勢を作って後輩のいる方を見やる。
「でもお前の主張は少しだけ、ほんの少しだけ、間違っている。今しがた話したおとぎ話は、全部が全部フィクションとは限らねーんだよ」
iy:yからn94dyになるまでの順番(個人差あり)
頭痛 → 腹部の異常 → 呼吸困難 → 精神状態の異常 → ?




