恐怖を覚えないまぬけ
キャンデーキャンデー
魔法使いの体がぐったりと弛緩する、それまでの真面目くさった緊張感が音をたてそうなほどの勢いで抜けていく。
その様子をオーギは呆れ半分で眺めていた。
キンシは体を油断させた次の瞬間、その唇を苦々しく苦悶に歪める。
「何も! 何も思い浮かばない! 素敵にこの問題を解決できる妙案をココ一番に思いつこうと思いましたが、何一つとして考えることが、思考を巡らせることが、思惟に溺れることすらできない。薄っぺらく底の浅い、頭に浮かんでくるのは莫迦莫迦しい戯言ばかり」
最初の方こそ御ふざけじみた余裕を見せていたものの、しかし段々と言葉の雰囲気に嫌な緊張感が走り始めている。
「こんな事なら、こんな事しか出来ないのなら、一体僕になんの価値があるというのでしょう! 考えることのできない魔法使いなんて、只の平和主義なごく潰しにすら劣る。劣って然るべきなのです、この世の何よりも」
今しがた唇に伸ばされていたはずの指先は、それを含んだ手の平はもう一度そこに向かおうとはせずに。
その代わりにさらに上へ、自らの黒々とした毛髪へと沈み込む。
「それでは駄目じゃないですか、考えなくては。でも考えることが出来ない! 僕はそれでは意味がない」
わしゃわしゃと、洗髪剤を一滴垂らしたらいい感じに滑らかな泡が作れそうな、それほどの勢いでキンシは自らの頭部を強く刺激する。
「僕には!」
そろそろ、それ以上やったらまた薬箱の出番が訪れてしまう。
オーギが手首に力を籠めようと、それよりも目の前で猛る後輩に忠告をするべきだろうか。
彼が迷っている間、それよりも早く、キンシは頭部に伸ばしていた手の動きを不意に止めて、と思ったら次は体を全方向に曲げはじめる。
前屈をするかのような姿勢で、そのままロックライブの観客よろしくヘッドバンキングでもするのだろうか、だとしたらいよいよ手が付けられない。
オーギが微かに不安に思う、しかし今回は程よくその予想は外れ、しかしやはりキンシの慟哭はいまだ継続を制止しようとしていない。
「そもそもどうして、どうしてこうなった!」
地に指の腹がつくほど、そこから一気に体を九十度の角度にまで戻す。
これで髪が長かったらホラー映画の演出にも引けを取らない。
それぐらいの激しさをいまだに、キンシは屈折した腹部から絞り出すように、怒りなのか憤りなのか判別のつけ辛い叫びを吐き出す。
「どうしてメイさんが! あのような状態に? 彼は一体、何故何ゆえ、何をやってんだあの糞野郎」
「落ち着けよ」
もうそろそろ後輩魔法使いの体力と精神状態を危惧して、それ以上に目の前の挙動不審に耐えきれなくなってきた。
オーギはそろりとした動作を気取られぬよう、努めて気丈な口ぶりでキンシに再三の忠告を試みる。
「色々と文句を叫びたい気持ちは、まあ、何だ……分からなくもないが。知らないことをこんな所でうだうだと考えていたって、どうしようもないだろ」
全くの真実でもない事柄を、それでも全くの虚偽でもないが故にオーギの口は無意識の内に淀みを帯びてしまう。
そうなのだ、言葉の後ろから彼の意識に向かって、誰に向けられるでもなく自分自身に限定された言い訳が追いかけてくる。
何てったって、どうしたって、今回の事について自分たちは抗いようもなく後手に回されてしまっている。
知らない所で知らない人が、知らない内にトラブルに巻き込まれて実害を負った。
そしてさらに、きっと、おそらく、ほぼ確実に。
そのトラブルは現在進行形でこの世界のどこかで起こり、もはや人間の意思とは遠くかけ離れたスピードにて進軍を続けている。
そんなものを、そんな厄介そうな事柄を、一体これ以上どうするべきなのか。
何が出来るというのだろう、こんな町の隅っこの海沿いの崖の下、若干を通り過ぎて十分が過ぎるほどに浮浪者じみた生活を送っている。
そんな魔法使い一人に、これ以上一体誰が何を望むというのか。
諦めてもいいのではないか、このまま目を逸らして無視を決め込んで、自分だけ安全な高さのある所へ、日常へ避難して。
そのまま高みの見物を決め込んで、下方に渦巻く黒々とした異常な非日常が流れ去っていくのを待つ。
別にそうしたっていいのではないか、このまま何の展開もなしに物語を終えて、別の話を始めたって。
それはまあ、仕方のない事だろう。
オーギは納得をしようとして、諦めようと。
それを言葉にしようと決意をきめ、
ようとしたが、しかし。
キンシの感情が生まれかかった言葉を現実よりも早く抹殺した。
「そうなんですよ、違うんですよそれは。大体、大体ですよ? 彼はどうしたのです、一体全体何処に行ってしまったのです」
何のことやら、先輩魔法使いがきょとんとしているのを視認する余暇もなく、キンシの唇から前歯が露わになる。
「あの糞野郎が、馬鹿みたいな仮面を偉そうにくっ付けて、そうしておきながら何と言う体たらく。メイさんをあの様に、妹さんが何よりも彼方さんに食べられることよりも大事だったのではなかったんですか。それを、それを、」
いつしか屈折は伸ばされて、キンシの体は元の形の直立不動に戻ろうと、だが拳は腹の前で宙を掻き、内部の骨が浮き出るほどに、ぎりりぎりりと強く握りしめられている。
「ああこんちくしょう、一体全体何処に行き腐りやがったあの糞無能仮面野郎」
「ああもう、お前が怒り狂ったところでどうしようもねーったら。いいからとりあえず、何よりもまず優先して落ち着けって」
そろそろこちら側もこれ以上付き合い切れそうにないと、感情が崩壊する予感を見込んでオーギも言葉に怒気を含ませる。
「その馬鹿なのかアホなのかよく分からん、あー仮面をつけてんのか? 野郎ってのがその、日中に出会った自警団の魔術師共が言っていた容疑者少年A、ってことなんだよな? それは間違いねーんだよな」
じっと睨みつけるかのように、早急な答えを求める先輩魔法使いからの視線に、キンシはようやく独白を止め、沈黙の中で首だけを上下に同意だけを相手に伝え。
「確定できる事項には欠けていますが、しかし僕はそう思っています」
いかにも事務的な、その雰囲気を装った前提を残して後は項垂れるばかり。
「だとすれば、アイツは……」
オーギは首だけを後方に回して、関節からの抗議もそこそこに排水管の内部に眠っている彼女に思いを馳せようと。
……したところで、今は止めておいた。
何もすべてあの魔術師共が言っていたことが真実とは限らないのだから、現時点では自分の肉眼によって得た情報を信じるとして。
だがそうするとなると、否応なく目に入らされた映像がフラッシュバック的に蘇ってくる。
今までの情報が全て正しいと、一切の虚偽も含まれず過去回想的正確さを誇れるとすれば。
嗚呼、なんてお粗末な。
安っぽい、動画サイトで一挙放送されることもなく忘れ去られそうなスリルサスペンスドラマのように。そんな、まさしくアホの極みとしか言いようのない状況が自分の身近で起ころうとは。
一体どこのどいつが予想できたと。
「あーアホらしい」
「ええ、愚かの極みです」
しかし、とオーギはどこか冷めきった感覚の中で後輩魔法使いを見ている自分に気付く。
言葉にしてみればいかにも馬鹿げていようとも、しかし現実はそんな軽々しく済まされるものではなくて。
怒り狂うよりもまず最初に、それよりもまず抱くべき感情があるのではないかと。
「ああ、全く、どうしてこうも物事というものは予想を遥かに超えた地点にて事象が運ばれていくのでしょう。まいって眩暈を起こしそうですよ」
先輩の疑問点を他所に、キンシは己を取り巻く世界に無意味で寂しげな苛立ちばかりを尖らせていた。
鞄の中に潜ませる。




