俺の言うことを信じるな
その言葉は大体嘘ばかり。
直立不動、動かざるごと山の如し、まるで生命を感じさせない、打ち捨てられた石造のように。
息を潜めて、息を殺して、キンシは海を正面に、己の自宅がある方を背景に二本の足で佇んでいる。
その場所はちょうど幼女が、メイという名前らしき彼女が読んで字の如く息も絶え絶えに這いずり、最後の力を振り絞って梯子を下りて、結局は力尽きて重力に負けた。
あくまでも憶測として、おおよそそれ以外に考えられない過去の挙動。
その痕跡、幼い体が血にまみれ落下してきた。
もうすでに雨水によって血痕は殆ど跡形もなく流されて消失している。
キンシはその近くに、ほとんど真上に近い場所で両足をそろえている。
他人が倒れた場所に立ち、そこを見るわけでもなく顔の向きはあらぬ方向に。
何をしているのだろうか、オーギは何気なく後輩魔法使いの近くに少しだけ寄って。
そしてすぐに、動き出した自分の肉体に対して後悔を抱き始めていた。
そう大した距離など無い、住み家の玄関から崖の下の空間、幼女が倒れていた現場までは秒を跨いで数歩程度しかない。
だからこそオーギはすぐに後輩に近付いて、手を伸ばせば触れられるほどに距離を詰めることが出来て、それ故に後輩が、キンシから放たれる感情の激しさを察せられてしまう。
相変わらず沈黙は継続されている、また何か思考の海に脳細胞を沈めているのか、キンシは背後にいる先輩魔法使いに気付く様子が無い。
気付けるはずもなさそうだった、キンシから放たれている、というよりは漏れ出ている感情は他人からの追及を一切受け付けようとしない、しようという素振りすら見せない、絶対的な異常性に満ち満ちている。
「……」
近付けば近付くほど、オーギは今すぐ相手から逃れたくなる欲求に叩きのめされそうになる。
キンシは、若い、まだ子供の域すら脱していない程に、余りにも頼りないほど若々しい魔法使いは静かに、静かすぎるほどに怒り、猛り狂っていた。
空からは水蒸気が集約されたことによって生み出され、町の空気を吸い込んだ雨水が降り続いている。
冷たいとは言い切れず、とはいえ決して温かくもない、いまいち判別の付きづらい温度の水にその身を染めている。
キンシはそれらの水分を全て飲み込み己の内側に取り込まんと、荒れ狂う海原のような激情を内層にて渦巻かせ、行方を定めることも出来ずに腹の中でぐるぐると滞らせている。
炎ほどの我儘さもなく、稲妻のように決定的でもない、中途半端にただただドロドロとしているだけの。
もしかしたらこのまま触れればその体は、今日倒したばかりの怪物の体みたいにゲルとなり、ズブズブと指から腕ごと飲み込んで、そのまま死ぬまで永遠に離さないのではないか。
そんな強迫観念じみた思い込みと妄想に駆られつつも、しかし青年に約束した手前、こんな所で回れ右をするわけにもいかず。
「おい」
勇気を振り絞って、そもそもそのような感情を呼び起こす必要もないと自分に言い聞かせて、言い訳をしながらオーギは後ろからキンシの肩に手を置く。
「キンシ」
別に意識したつもりはない、のかもしれないのか、自分でも思っている以上に快活そうな声音を使ってしまったことに、オーギは耳の奥で少しばかり羞恥心と、それ以上の恐怖心を覚えそうになる。
だが一度でも現実に向けて発せられたものは、取り消しようもなく否応なく人間に影響を与える。
「……」
音もなく、あるのは濡れそぼった上着の湿った布の摩擦音だけ。
瞬間、魔法使いと魔法使いの視線が混ざり、互いの間に無意識の緊張感が走る。
「そんなとこで棒立ちして、何してんだよ」
沈黙に耐える義理もなく、深淵の見えない潮騒に飲み込まれないよう、オーギは出来るだけ延長戦を途切れさせないよう自然と意識しながら、相手に向かって会話を持ちかける。
「悪いが風邪薬は持ち合わせがないからな、雨に打たれ過ぎて風邪をひいてもしらねーぞ」
最初の軽口に付き合ってくれるような、よもや目の前の後輩魔法使いがそのように軽快なやり取りをでき得るようなバイタリティを持ちあわせているだとか。
そんな期待をしていたわけではないが。
ないにしても、無言を貫かれるとどうにもこちら側の心情まで深みに引き摺り込まれそうで。
どうしても息が詰まるのを堪えながらも、オーギはとりあえずすでに起きた事実を後輩に向けて報告する。
「あーっと、メイ、だったか? 彼女の容体はとりあえず安定したから、このまま大人しくしていれば、多分、おそらくは何も、命にかかわるようなことは起きねーと思う」
キンシはゴーグルをつけたままの表情で、先輩から告げられる事柄を脳内で受け止め。
「そうですか、オーギさん、ありがとうございます」
飲み込みきれるよりも前に、そのカラスの濡羽のようになっている頭を深々と下げていた。
ようやく相手が人間らしい反応を示したことに別段安心しただとか、そこまで単純にもなりきれず。
それでもオーギは少しだけ安心感を得て、そのままの軽口で思っていた事をそろりそろりと並べ立ててみる。
「いやさ、マジで参るよ。突然正体不明で謎しかない重体人の世話をしてくれって。ホント、訳わかんねーよ、まったく」
ちょっとだけ本音を明かして、少しでもこの場を和ませようと。
そこまで気を遣おうとしていたわけでもない。
それにしても、緩んだ感情からは次々と内に留めていた本音が零れ落ちてくる。
「いくら俺が周囲に内緒で医療魔法について、個人的に調べているとはいえ……。所詮は素人でしかねーんだし、あんまり信用してもらっても困るんだよ」
「すみません、でも、ありがとうございます」
キンシは顔を、元々そのサイズの合っていないゴーグルゆえに殆ど見えることのできない、その下の表情筋を崩さないままでいる。
オーギはそんな無表情をしっかりと確認しつつも、このまま内部に潜めていた疑問点をこの場において一番情報を有しているであろう相手に投げつけてみる。
「それで、やることはやってあげたんだ。それなりの説明を求めても、いいんだよな?」
数秒、沈黙。
「……」
どちら側の物とも取れぬ沈黙が空間に流れる。
逃げる様子はない、互いが互いを逃さないよう様子を窺い続ける。
やがて根負けしたのは片方の魔法使い。
「……───」
キンシは閉じていた唇を開く、口内が唾液の音を引いて、内壁に空気が注ぎ込まれる音がなる。
「残念ながら」
その視線はじっと、先輩魔法使いに向けられている。
「残念ながら、ただ今起きている事象、この現実について僕から掲示できる有益な情報は持ち合わせていないのです」
内容こそまるで実態が伴っていない、取るに足らぬ戯言じみてはいるものの。
そのあまりにも滑らかで迷いのない言葉の速度に、オーギはとりあえず成長することを選択してみる。
キンシの供述は続く。
「僕一人の所持している限定の記憶では、内部に、彼らはどこか遠くから此処へ観光に来たと。それは普通の事だったと思います、兄妹は、そのはずだったのでした」
「あーつまり、その少年とあの妹とやらは、只の普通の観光客と自己紹介した、って訳で?」
「はい、そうですその通りです」
こくりとうなずくキンシに、オーギは盛大なる溜め息と共に片手で頭を抱える素振りを作る。
「おいおいおい……、まさかとは思うが。それともマジなのか? マジにその兄妹とやらが発言していた事柄を全部、真実として信じ込んでいたと。まさか、そんな訳はないよな?」
「それは」
彼としては冗談のつもりだった、しかし問いかけられた本人は依然として真面目くさった態度を崩そうとしない。
「それは、」




