カメリアちゃん大ピンチ
乾くとズクズクと痛む。
とりあえずのところ、一応キンシ的価値観によれば玄関先に当たる部分に、これといって特筆すべき異変は特に見出すことはできなかった。
「ちょっと待っててください、今鍵を開けますので……」
と、キンシがあれやこれやをしている隅で。
「お前ってさあ、どこで寝泊まりしてんの? 風呂は、トイレは?」
染みるような静けさに反抗せんと、オーギが何処となく場違いな質問を投げかけてきている。
「それはまあ、きちんと日の当たる部分を見つけて心地良くさせてもらっていますよ、ちゃんと」
それに対してキンシがそれとない返答を空間に投げつけている。
そうしている内に、彼らは大した障害に阻まれることもなく、また何か劇的な変化に見舞われることもなしに、無事に家の持ち主が形容するところの「日の当たる部分」に辿り着いていた。
横開きの小さな扉を開けて、照明が灯される。
そこに広がる光景を見て、開口一番。
「部屋、汚なっ!」
オーギはごく一般的と自覚できる感性のもとに、後輩の支配する領域に率直なる感想を口にこぼした。
「おいおい……、何なんだよこの本の山は……。全部文庫本か? まさか資料ってわけじゃ」
「いえいえ、いーえ、違いますよそれは断じて勘違いです」
先輩からの憂慮にキンシは素早く否定の意を示す。
「これらは全部、とまでは断言できませんが。それでも一応、ほとんどが僕の私物ですから」
明度ですら十分に足りていると言い難い部屋の中で、何故か自信ありげに胸を張る後輩にオーギは舌の奥で苦々しさを覚えずにはいられなかった。
「お前なあ、せっかくあがらせてもらってわざわざ文句を言うのもあれだが、それでもこの部屋は酷いぞ。あまりにも悲惨すぎる、もう少し何とか……」
「えーと! えっとですね、その少年さんは昨日この辺りで食事を摂ったはずでしてですね! ねっトゥーさん」
これ以上の追及をされてはたまらないと、キンシがトゥーイに向けて助け船を要求しようとした。
のだが、しかし。
「トゥーさん?」
話しかけられたはずの彼は差し向けられた言葉に答える素振りすら見せようとせずに。
「……………………」
片側しかないパープルな瞳はじっと、魔法使いたちが立っている場所とは大きくそれた方向へと固定されている。
「トゥーさん、どうしましたか。そっちに何か」
キンシが彼のもとに近付いて、その瞳に映そうとしているものの正体を探ろうとする。
と、ほぼ同時に。
どこか、それについて子細なことを供述できなくとも、確実にこの部屋以外の外部にて、何かが激しく落下したかのような音が鳴り響いた。
それはほんの些細な音でしかなかった。同じ部屋にいるオーギなどはそれを雨音の一部とした、あるいはせいぜいほんの些細な違和感としか認識することが出来ず。
だから、彼としては特に意識することも必要としない位に無意識の中へ流されるような事柄でしかない。
そのように些細な異変、だが青年にとっては雷撃に打たれるが如き激変だったらしく。
「うわっ、トゥーさん?」
爆発的に膨れ上がる青年の気配に、寄り添うような形で近くにいたキンシは思わず肌を粟立たせるほどに驚いて、びくりと体を震え上がらせた。
「何なんですか、一体、どうし───」
若き魔法使いが青年に対して心配を向けようと。
それを言い終わるよりも早く。
「あ、あれ? トゥーさん!」
青年は近くにいる人間たちの戸惑いなど一切構うことなく、とある方向目がけてまさしく一心不乱と言わんばかりに駆け出していた。
「え、あ? ま、待ってください!」
冷静に考えてみれば、なんてことをする余裕すらもなく。
行動に誘導されるがままに、キンシは走り抜ける青年の後を追いかけることしか出来なかった。
背中の向こうにてオーギも同じような疑問を投げかけてきているのを感じ取りながら、とにかくキンシは耳をそばだてて青年の後を、そして感じるままに違和感に向けてただひたすらに足を動かし続ける。
走って走り抜けて、辿り着いたのは。
「はぁ、はぁ……」
つい先程に立っていた、最早すっかり見慣れたと言っても過言ではない、玄関先に広がる崖の下。
「トゥーさん?」
トゥーイはそこに跪いていた。
成長を超えて小ささを失った背中を丸めて、何ものであっても拒絶するかのように無言で固まっている。
「トゥーさん」
名前を呼ぶ、それ以外の行動をとることも出来ず、一瞬でも他の事を考えれば己の首の肉に埋まる血管が引き裂かれるのではないか。
そんな強迫観念の中に、キンシはそっと、それでいて一時も休まることなく。
ただひたすらに足だけを動かして、肺胞に生物としての循環を繰り返す。
止まらない、止まることは許さない、そうしたら殺してやる。
キンシの脳内で内包される脅迫が外側に零れることなく、内部にてしくしくと降り積もる。
「あ」
キンシは最終的に帰結することもなく、いたって普通の必然性の上でそれを見ることになる。
トゥーイの、そう呼ばれている青年の腕の中にいるそれを見る。
「ああ、あああ」
見て、見たくないと思いそうになって、しかしそれをしない。
「あああああ、ああああ、ああああああああ、あ、あああ、あああ」
悲鳴を上げそうになる、それは誰に対してのものなのだろうか?
他人に対して、それにしては自分本位が過ぎる。
後悔だったのかもしれない、自責でも自虐でも自暴自棄でも。
何でもよかった、どうでもよかった。
ただ一つ確信が持てるのは、こんな所で、こんな状況で、自分なんかが悲鳴をあげた所で、一体何の意味があるというのだろう?
「おい!」
限りなく黒に近い紫が点描のように視界を染めかけている。
そのすぐ近く、隣の方だったかもしれない。
聞き覚えのある声が、先輩魔法使いのオーギがほとんど反射に近い叫び声をあげる。
「なっなんっ……! どうしたんだ、大丈夫か!!」
彼は棒立ちしているキンシをかまう暇もなく、青年の腕の中で目を閉じている幼女のもとに駆け寄る。
「おいおいおい……っ。マジかよ嘘だろ? コイツとんでもない怪我してんじゃねーか」
瞳に映る現実があまりにも自分の感覚と離れている。
非現実に身を竦ませることもせずに、オーギは急いで自分のやるべきことをしようと。
「あっと、えっと、治療、治す?」
したところで、すぐさま現実的な思考にその行動を邪魔される。
「いや、違うな……。救急車を、」
はたしてこんな場所に来てくれるのだろうか?
車は確実に来ることは出来ないとして、せめて搬入しやすいように患者の体を崖の上まで運ぶべきだろうか。
触れようとした所で、
「………………………………………」
彼女の体を支えている青年が、先輩魔法使いの行動をじっと見上げ。
「……っぐ」
今まさに懐から携帯電話を取り出して、然るべき機関へ然るべき通告をしようとしていた。
いたって常識的な指先を、尋常ならざる非常識の視線によって抑制しようとする。
それでもそんなサイコキネシスなやり取りなどに構っている場合ではなく、一瞬こそ怯んだものの再び携帯電話のボタンを圧迫しようと。
「大魔法使い」
する前に、トゥーイの首輪型発声装置から人の声が聞こえてくる。
「大魔法使いお待ちを頂けませんか」
視線だけはじっとオーギに定められていて、その濃い葡萄ジュースの様な色素からは何の感情も読み取れそうにない。
「大魔法使い時計の執事は可能ですアプリケーションよりもはるかに確実で今作においてはそれが何よりの好奇心となるでしょう」
相変わらずそれは何を言っているのだろうか、何のことやらオーギにはさっぱりわからなかった。
だが。
「オーギさん」
戸惑う彼を他所に、すっかり悲鳴を腹内に圧殺し尽くしていたキンシが、異常なまでに冷静な口ぶりで青年の意思を翻訳する。
「メイさんを、えっと……彼女を病院に送るのは、今は勘弁してください」
「どうして」
疑問を向けていながらも、ようやく言葉を理解できそうになってオーギの指は既に携帯から離れている。
「それは、彼女と……、多分彼女にとって何よりも大事な人が望まないから。だから彼女は望まないのです」
キンシはあくまでも独自の解釈にて、青年の腕の中で意識を揺蕩う彼女のもとにようやく跪く。
そしてそれ以上何を言うでもなく、大した意味もないと分かっていながら彼女の頬に。
すっかり雨に濡れて、綺麗に整えられているはずの衣服には大量の汚れが赤黒く。
あまりに殴打され過ぎて内部の皮膚が腫れあがっている。
その皮下に膨張する出血の熱がただ一つの生きている証として、キンシは血液にまみれ傷だらけになっている彼女の体にそっと触れた。
朝の虹は羊飼いの憂い、夕方の虹は羊飼いの喜び




