魔法使いと空と海の境界線
いやっふううーーっっっ!!
行方不明だったお気に入りのピアスが見つかりました、よかったね!!
それにしたって今日はどうしてこんなにも雨ばかり降るのだろうか。
確かに灰笛は鈍色の空と雨水と一括りにさせられるほどに、雨天と深々とした縁がある街ではあるものの。
そんなイメージが人間の間に植え付けられているにしても、何時もだったら夜が近付く頃合いには雨足は減速して、空にはぽっかりと白とも黄色ともつかない月が輝いて、町の光にいじらしく反抗する星々が暗黒の中に散りばめられる。
それがこの灰笛の何時もの風景である、そのはずなのだが。
「何つーか……今日はやたらと機嫌が悪いなあ」
オーギは見慣れているはずの空を、しかしどうしても違和感を抱かずにはいられず、眼球に液体が侵入するのをそれとなくやり過ごしつつ、足を動かしながら上層を少しだけ見つめてみる。
「そうですね」
必然的に先導する形となり、自分の後方を走行している先輩魔法使いにキンシは同意を差し向ける。
「いつもは夕暮れが始まると同時に、綺麗な赤色になるのが此処の通常ですけれど。今日はずっと雨でしたね、このまま明日までずっと降り続けるのでしょうか」
先輩から目を逸らし前を向く、はっきりとした目的地を目指しているにもかかわらず、何故かどうにもこうにも視線を定められないキンシ。
心の拠り所を失うほどではないにしても、それとない不安に包まれる予感がして、キンシは慌てて先輩にならって自分も上を見てみる。
後ろにいる彼が言ったとおり、もうすっかり空は夜に差し掛かっていた。
太陽のことなどすっかり忘れきったかのように、魔法使いたちの上空には黒々とした暗黒が我が物顔で空間を満たし、雨水ですらそれに染められかけているように見える。
「流石に二日連続で降り続けるってことは、あり得るはずが……ないと、思う……」
前方を行く後輩の不安に形だけの安心を与えようとして、しかしオーギの内部にも抗いがたい不安が芽生えかける。
こんな所で休憩をとれる選択ができるはずもなく、呼吸だけでも確保しようと言葉は尻切れトンボとなる。
ここまで大量の雨が降っていると、見慣れているはずの風景ですら異物として意識が拒絶したがる。
その狭間の中に、生皮を剥いた下にある赤々とした真皮を剥き出しにさせられるような不安が満たされそうになって。
「それにしても」
そんな面倒臭い状態に陥るのは御免だと、オーギは取り繕うように口を動かして言葉を強引に紡ぎだす。
「あー、えっと、相変わらず遠いな、お前んち」
いくら違和感を抱いているにしても、いつまでも長々と上ばかり見ていれば、その先に待っているのは下らぬ転倒しかない。
そういう訳でオーギは前方の後輩が足を止めるよりも早く、上空から目を逸らして周りの風景に視線の先を巡らせていた。
「いいかげん、こんな潮臭い所じゃなくてもっとマシな……、近場の手頃なアパートでも借りたらどうだ?不便だろ、正直よー」
上から目線で己の薄暗い心情を誤魔化す、彼の視界には一面の海面が広がっている。
日の光も月の光も、星の光すら存在していない海はまさしく黒色しか存在しておらず、昼間の日ではない位に空と水面の境目が曖昧でじっと見つめていると自分の居所さえあやふやになりそうだった。
「いやーその通りですけれどねーそうなんですかねー」
先輩魔法使いの存在意識と負けず劣らずの曖昧な返事をする、キンシはその話題について明らかに肯定的な意見を述べようともしない。
「そうしたいの山々ですが、色々と事情があり無きにしも非ず、って感じですので……」
不自然なまでに話題を逸らそうとしている、それでもこの時ばかりはオーギの方もそれ以上の苦言をすることもなく。
「まあ、何でもいいんだけれどよ。早くお前の家に案内しろよな、そこに例の少年とか言う野郎もいる、かもしれないんだろ」
せっかく相手が自分の望むままの方向に向いてくれたのにもかかわらず、それでもなおキンシの語気は濁りを晴らすことが出来ないでいた。
「うーん……確信は持てませんが。先にシグレさんのパン屋の方に問い合わせてみましょうか?」
後輩からの提案に二つ返事をしようとした、その所でオーギはふと考えを止める。
「あーっと、それは止めておいた方がいいと思うぜ。だって、こんな夜はアレだろ、あのパン屋のおっさんは一人で楽しみたいと思うし。邪魔するのも悪いだろ」
「へ?」
なんとも含みがありそうな言い回しに、キンシは最初の一瞬こそ首をかしげそうになった。
だがすぐに、
「あ、あー……そうですね、確かにシグレさんは今日は店にはいなさそうですね」
先輩からの追及にさらりと同意を示す。
「偶の楽しみ、お散歩を邪魔するのも悪いですし……。うん、まずは僕の家の方を確認しますか」
含みを込めすぎの余り、意味不明でしかなくなっている魔法使いたちのやり取り。
「………………………」
それを耳にしながら、トゥーイは視線の先に広がる海原をじっと、まるでその先に何か珍しいものでも飛び交っているのではないかと、期待でもしているかのように凝視していた。
さて、と。
これが何事もない、普通の帰宅であったならばそれがどんなに幸せな事であると、キンシは今なら自信を持って自分に確信を抱ける。
そんな気がしていた。
有る筈のない気分を胸の内に灯らせつつも、しかし現実はそのような甘さなど一切必要なしと言わんばかりに、魔法使いたちの体を冷たく打ち続けていた。
「さっきはなあなあで流してはみたものの……」
遥か遠くまで流れる潮とその中に含まれる生物の死骸やら排泄物、それらの匂いを大量に含んだしぶきを浴びつつ、確かな足取りで梯子を降りる。
オーギは今更と自覚していながらも、話題を蒸し返したくなる欲求に耐えられないでいた。
「やっぱり、どこかいい感じのアパートでも紹介してやろうか? ほら、あの辺の集合住宅とかどうよ。どこだったかな……雑な積み木みたいな見た目の。あそこ、最近空き部屋出来たみたいだぜ」
いかにも先輩らしく、という訳ではないにしてもせっかくの親切心を向けてくる先輩魔法使い。
「……」
いつもならば、今日という日に限定することも出来ず、この身に起きている事柄の全てが何の変哲もない、いつも通りの日常しか内包していなかったならば。
そうだったらここで何か、わざわざ家まできてくれた先輩に対して小気味よいとも言えない冗談をつらつらと、調子の良さを演出して並べ立てることが出来たはず。
なんて、そんな思い込みすらも出来ない程に、今のキンシは何も言葉を言うことが出来なくなっていた。
別に気分が悪かったとか機嫌がよろしくないだとか、そんな単純すぎる理由でもなく。むしろそのぐらいの下らなさだったらなばどれ程良かっただろうと、そのぐらいの鬱々とした感覚が若者の心理の表面に蔓延り、不可侵の内層にまで侵攻をしようと。
違和感自体なら、全知全能の神とは言わず最初から感じていたものの。
しかしこうして自分の家に帰ってくると、自分の意識が通っているはずの領域に帰結してみると、その感覚は何故かどうしようもないほどに己の内側に、有るはずのない実態を以て心筋を引っ掻き回してきている。
そんな錯覚に苛まれ、正体のない苛立ちを抱きそうになって。
何処に向かうでもなく、実際は自分の部屋へと向かっているはずなのに、キンシは自分が何処に立っているのかどうかもよく理解できなくなりかける。
理解を追いつかせる暇も、協会の境目について論を重ねる時間もなく。
「はたして、彼らは僕の家まで戻って来ているのでしょうか」
まるで家族の帰りを待つかのように、会ったばかりの他人の心配をする。
そうすることしか、キンシには出来なかった。
そうでもしないと、この正体のない不安に理性まで舐め回されそうだった。
梯子の一番下、排水管の壁に許されている足場に不確かな思考に濁る人間の足が触れた。
フッ素魚眼石
Fluorapophrlite
無色、白色、ピンク などの色。
柱状、板状の結晶。
熱を加えると葉っぱ状に割れる。




