さようなら赤いリボン
答えずに虫をしよう。
いついかなるときであっても、思い込みというのは人間という生き物にある種のトランス状態をもたらすらしい。
まるで自分の声が聞こえていなさそうだと、そう思わざるほどに一心不乱な妹に少年は何とか喉の辺りだけでも力を振り絞って、彼女に対する疑問文を叫び続ける。
「……っ……っ!」
しかしメイは兄が戸惑いの色を濃く見せつけているのにもかかわらず、今この瞬間においてのみ相手の感情に構っていられるような場合ではなかった。
思えば最初から自分はこうしたかったのかもしれない、メイはどこか天高くにふわふわと他人行儀で浮遊している意識の中で、ぽつりと自身の本心に気付く。
そうだったのだ、こうすれば。こうしてなりふり構わず大事な兄の手を、愛する男性の体を自分の思うままの方向へと引っ張っていけば、自分が手を引いていけば彼は苦しむ必要など。
「メイ!」
しかし当の少年は彼女の内側にて花開く決意とは裏腹に、ただただひたすらに状況の展開についていくことが出来ずに、その声に若干の苛立ちを募らせ始めていた。
「どうして、どうするんだ?」
もうすでに逃げるという意思のみだけは何とか理解できた。
それだけの彼はこの後に続くべき行動について、肉体を稼働させながら意識だけが力なく妹に依存していた。
「逃げるんです」
片手が不自由故に体のバランスがうまく取れず、しかしその原因を話すことなど選択できるはずもなく。
よろよろとした足取りの中でメイは首だけを後ろへと、絶え絶えと喘ぐ呼吸音の中で兄の声がする方へ、自分と他人の皮膚が密着し合っている方向を振り返り。
「逃げなくては、そうしないと貴方は……!」
すると。
そうすると目が合った。
兄の目ではない、それ以外の他人。
彼の腕の中でさも当たり前のように大人しくしている、灰色の瞳はじっと彼女を見つめていて。
「………………… ( 〇 )」
まるでこの町の空のような、そんな色彩の中に秘められている感情を、彼女は読み取ろうとしてみて。
しかしそうすることは永遠に出来なかった。
何故なら、なぜなら。
「えごっ」
メイの体は、少年にとって妹に当たる幼女の体は、他者からの攻撃によって高く高く、高々と。
まるで使い古されたゴムボールのように、惨めなまでの軽々しさによって吹っ飛ばされていたのだった。
「……?」
メイは最初こそ何が起きたのか、自分の身が一体どういった状況に晒されているのか、全く理解することが出来ず、骨に焼け付く衝撃だけを肉に震動させて。
さして時間も必要とせずに、体が重力に従って地面と再会を果たすよりも早く、彼女の右脇腹を中心とした肉全体に、炎で焼かれるが如き痛覚が脳神経を貫いた。
「あが」
衝撃のあまりに一瞬、空気中の塵が空気の流れるままに動く、ほんの一時の間。
雷撃の如き痛覚によって、彼女の意識は原始的な生物本能のみを残して根こそぎ奪われる。
人間にとっては限りなく意識することのできない、だが与えられた時間は彼と彼女にとってぞんぶんが過ぎるほどに決定的なものであった。
「が、あ、ああ」
およそ人道的とは思い難い圧迫力によって押し出される体内の空気。
ぽっかりと開けられた唇の間から吐き出される空気。
それに乗じて喘ぎでもなければ呻き声にすらなっていない声が漏れる。
何の感情も思惑も込められていない、混入させることすらも出来なかった肉声だけを残して、彼女の瞳孔は与えられる視界に反応して収縮を行う。
あんなにも固く、互いに結ばれていたはずの手は見開かれた目に映る世界の中であっけなく、人間の指によって花弁が柱から毟り取られるように。
あまりにも、彼女の石などまるで関係がないと宣言するが如く、あっけなく乖離させられた。
熱が失われる。確かに存在していて、自分の肉体と意識によって自覚していたはずの熱は雨水を大量に含んだ空気に溶けて、存在感のない冷たさだけを残す。
硬い爪が鋭い指先と、丸く平たい爪しか生えていない指先の感染から滲み出る体液が名残惜しく、往生際が悪い程に後を引いて。
その喪失を味わうことも出来ず、男と女は起きて起き続ける現実の非現実さに打ちひしがれている。
少年の赤色が生える眼球が、じっと自分の事を見つめている。
メイは自らの眼球を、零れ落ちんばかりに見開かせながら男と視線を交わらせる。
ああ、恥ずかしいわね、こんなみっともない姿をあの人に見られるなんて。
どう考えてみたところで、明らかに場違いなことを考えてしまう。
そんな自分に呆れかえりながらも、メイは体が地に激突する暇を与えず、刻一刻ですら惜しいと。
乾き始めた眼球の内部に、懐かしい感情を一気に猛らせ始める。
全身の、己の幼さを誇示するために生えていると言っても過言ではない、柔らかく白く何の飾り気もない体毛が、たった一つの攻撃的意識によって一気に膨れ上がる。
自分の体がポップコーンのようになっている、彼女の視線は兄から離れ、兄の腕にいる幼児からも剥離され。
定められるのはただ一人、何の予告もなしに獣よろしく自らに害意を向けた……。
……、あれは、やっぱりあれはメイド服なのだろうか。黒髪に血色の悪い肌が、嫌らしいほどにデザインによく似合っている。
「……」
黒く長い布に身を包む大人は、自分の体をないがしろにした大人は、自分の腹にその黒々と艶めくヒールの爪先を食いこませた時と同様に。
いくら子供の体力とはいえ、己がいる地点から遥か先で走行していた二人組に軽々と追いつき。
自分はともかく後ろにいた兄ですら気づかない程の滑らかな速度によって、自分に攻撃を与えてきやがった。
大人は、黒い髪の毛に黒々とした変なゴーグルで目元を覆っている。
どう肯定的に価値観を見繕って誤魔化したところで、メイにとってはどうしようもなく奇妙な人物ではないその大人は。
「えへへ」
人の体の中で何よりも硬い、死んでその後何千年と時を経ても世界に残り続ける。
とがり気味の捕食器官を白く輝かせて、それはそれは楽しそうに笑っていた。
何で笑っているのだろうか、人の体を軽々と蹴飛ばしておいて、笑えるなんて。
それとも自分のことなどどうでもよくて。
ああ、そうだそうかもしれない。あの大人はきっとすでに判断をして、目星をつけていたのだ。
私に攻撃さえすれば、己が今後の世界において望む展開が得られることに。
「ルーフ!」
痛む腹を労うこともせず、浮き上がった体を急速に広げた羽によって安定させる。
雨に濡れる体が地面の受け取り、震動が骨を揺らすほどに彼女の体からは嘘をつくことすらままならぬほどに窮鼠していた。
「ルーフ! 逃げて!」
羽が開かれる、真珠の輝きは夜の始まりに反射して雨粒を滑らせている。
彼女の攻撃意識を、少年の瞳は一時も見逃そうとせずに。
灰色の方ははたして、どうなっていたのだろうか? それは誰にもわからない。
「うぐ?」
何故なら、そうでなくとも誰一人として灰色の瞳が向かう先のことなど考えてなど。
いなかったとしても、いずれにせよ、少年には見ること以外の行動をすることは出来なくなった。
「あが………」
いつの間に後ろに回り込んでいたのだろうか、音も匂いもしなかった。
いくら自分の感覚が混乱していたとはいえ、体を拘束されるほどに近付かれて気付かないなんて。
そんな事があり得るのだろうか、意味が解らない、意味不明な事ばかりだ。
「いやはや、相手を貶めるには混乱させるのが一番手っ取り早い。というのは変更され難い事柄だけど」
少年の視界の隅で赤色が映える。
これはリボンだろうか? リボンで攻撃だなんて、日曜日の朝じゃあるまいし。
「すみませんね、攻撃の意思がある場合には、早急に対応するのが彼の契約なので」
少年の耳元で少女の声がして、それはすぐに自虐的な色合いを帯びる。
「あー……。ワタシが何を言ったところで、何の意味もなさそうだけれども」
何を偉そうに、訳知り顔で上から目線に。
何も知らないくせに。
ルーフと呼ばれる少年は、何でもいいから他の誰かに文句を叫んで八つ当たりをしたかった。
のだが、しかし、そうすることは出来ず、彼の乾燥気味な唇は魔法の糸によって拘束され、その腕の中にはもはや誰も抱けなくなった。
〈緊急用小型プロペラ式魔力鉱物搭載船〉
魔力鉱物を動力に、プロペラで飛行する機械。
ランドセルのように装着したり、一人掛け椅子のように搭乗したり、メーカーによってさまざまなデザインがある。




