男と女の解釈違い
異なる視点は厄介だ。
信じられない言葉だった。信じ難い言葉だった。
よもやこんな所でそんな単語を聞くとは、後に続く台詞の意味をルーフは最初こそ判別すら出来ないでいた。
だが、それでも彼の中の人間的直感が、とてもじゃないが自分自身にとって有益な事柄を言っている訳がないと、本人の意識が届く遥か先の領域内にて早々と判断をつけていた。
「……あら、黙りこくっちゃった」
「もう一回同様の内容を伝えたらどうですか? ご主人様」
すぐ隣、若干前方の位置にいる黒髪の大人は、頭部に装着しているヒラヒラの三角巾の裾をヒラヒラと揺らしながら、大して内容も伴っていなさそうなアドバイスをする。
そんな事をしたって意味は無い、ルーフたちの側からそう伝える余裕が存在しているはずもなく、金髪の少女は他にすることもなさそうだと、大人の言うことにとりあえず素直に従う。
「えーっと、もう一回言い直すわね。お爺さまは───」
今しがた、つい先ほど、同様の台詞を音とリズムに若干の変化を加えつつも、それでもどうしようもなく同様でしかない台詞をいかにも機械的に吐き出す少女。
ワンモアチャンスと、言われた言葉の意味をロクに考えることもせずに、ルーフは何故かどこか遠く離れた思考の中で少女の口元ばかりを見ていた。
といっても幾ら視線を刺殺できるほどに尖らせたところで、少年の目は少女の唇を確認することは叶わず、瞳には彼女の口元を多く薄いベールのような布の揺らめきぐらいしか得られなかった。
フコフコと、若干鬱陶しそうに、自身の呼吸で布を揺らす少女。
精一杯、誠心誠意をこめて一生懸命に、こちらを誘惑しようという思惑の元甘い声音を演出している。
のだが、しかし、そういった努力の全てが空回りをしていて、少年の心に全く響いていないのはもちろんの事、部下だと思わしき隣の黒髪の大人ですら微妙に小馬鹿にした視線を送っている。
そんな風景の中で、とりあえず決めておいた台詞を一しきり吐き出した後に。
時間的には十分すぎるほどに素早く、しかし会話劇の中では茶番が過ぎるほどの、それぐらいのタイミングにて少女はこれ以上自分の思い通りにはいかないと判断をつけて。
そもそも自分の思惑が上手くいったことなどないな、と回想編を紡ぎかける脳味噌に拒絶の鞭をうって。
「あー……要するに、ですね。お爺さまとあなたの間に起きた顛末をほかの誰かに漏出されたくなければ、黙って良い子でワタシたちの後についてきて、いや、来なさい」
懸命さの上でどうにか高圧的な態度を保とうとしている、少女からのばされる腕は現代の流行からおよそかけ離れている、装飾が過多なフリルがフリフリとしていて鬱陶しい。
と、そのようなことはどうでもよくて──。
「あの、今、なんて言ったんだ? 何のことを言っている?」
彼女の口からもたらされた言葉は、否定も抗いも許されることなく、しっかりとルーフの耳に届いていた。
実体のない音だけが、まさしく熱せられた鉄棒のように鼓膜を燃やし貫かんと。
それほどの影響力は、むしろ彼の体から現実に対する客観視を根こそぎ奪おうとしていた。
これはつまりどういう………。どうしてこいつらは祖父の事を知っているのだろうか。そもそも奴らは何処から現れた?
気がつけば目の前に、何本目かの道路を横切って、幾度目かの曲がり角を曲がり、とにかくミッタを魔法使いの家まで、せめてシグレのパン屋まで連れて行って。
その後はどうするつもりだったのか、ミッタをほかの誰かに預けて、その後自分はどうするつもりだったのか。
多分最初の目的に向けて次の行動をしたのだろう、そのためにはまず彼女と話すべきことが沢山、余りにも沢山ありすぎて。
妹だけではない、いつまでもずっと魔法使いの奴らを騙し続けることも出来なかったに違いない。
確信はなく確証も存在していない。だけど彼にはどうにも、あの魔法使いは実は自分の正体を知っているのではないか、そんな不安があった。
だから、どうしても辺りが強くなってしまうことに、彼は実のところ内心申し訳なく思っていたり、思っていなかったり。
「…………」
正直億劫さでビニール傘を握る手にすらうまく力が出なかった、それが本音だったのだが。
しかし現実は彼の思惑に反して、それどころか遥か遠くの予想外にて膨張を始めようとしていた。
「あー……やっぱり聞こえていないのかな。色々と話したくないことは、あるかもしれませんが。しかし変に反抗しても良い事は何一つとしてない、と思うわよ」
同じ姿勢をとることに腕の肉が疲労感を訴えてきたのか、少女は溜め息を吐いて元の姿勢へ、直立不動のポーズでもう一度、少年に対して丁寧な脅迫をする。
「弱ったわね、あの人に育てられたというのなら、もう少し社交的な人物を期待していたのだけれど。どうも見当が外れたらしいわね」
やれやれ、と首を振る少女。
その口ぶりからルーフは大して考えることも必要とせず、目の前の女が祖父の事を知っていると、加えて自分と妹の正体についても認知している可能性があると、それらの受け入れ難い仮定を次々と思考の中に生み出していく。
「そう、ね。これは困ったわ、どうしましょう」
少年から立ち上る決意などいざ知らず、少女は首を小さく傾げて困惑している。
「そうですね、ご主人様」
隣にいる背の高い、子供の身長から見上げればそれなりに長さのある背丈の、黒髪の大人は少女に事務的な同意を。
視線をしっかりルーフの体に定めたまま、口元だけに笑みを浮かべて舌を動かしている。
「こうなったら無理矢理……」
「祖父は死にました」
大人からこれ以上の無駄口など必要のない程に、決定されきった行動が示される。
それよりも早く、音を上乗せでけし飛ばさんとルーフは嘘の事柄を述べていた。
「祖父は死んだんです、病気で亡くなり。俺らは親戚を頼るためにこの灰笛までやってきました」
これは、この嘘は最初、故郷から這い出て遠路はるばるこのクソみたいな都会へ、灰笛へ来るために。
無意味に考えた嘘で、こんな事を考えても無意味だと分かっていながら、考えずにはいられなくて。
灰笛の地に降り立つ前に、強引についてきた妹が横で疲労による眠りにつこうとしている、その横でひたすらに文章を繰り返し反芻していて。
これ以上はもう考えたくないと、らしくなく窓の外の風景だとかどうでもいい旅行会社のポスターを凝視したり、そんな空しいやり取りをしていた。
「祖父は死にました、亡くなったんです。だからここにはいません。ですので、それではさようなら」
嘘をつくときの下が裏返るような気持ち悪さ。
その感覚を十分に味わうよりも、それ以上にルーフの内部には別の感覚に苛まれていた。
これは何だろうか? 皮と肉を通り過ぎて、血液を焼き尽くさんばかりに燃え盛り、ブスブスと蛋白質が焦げるような黒煙を上げようとしている。
感情を置き去りにして肉体に直接訴えかけてくる、この警報に逆らうことは出来そうにないと、ルーフの理性は決断をしていた。
「なるほど」
脳内のあまりな忙しさゆえに、その声が向かい側にいる二人のうちどちらから発せられたものなのか、ルーフに区別が着けられなかった。
ただ視線の方向は黒髪で髪の長い大人の方ではなく、少女にだけ限定されていたため自然と彼女の表情は異様なまでに子細さを以て観察することが出来た。
薄いベールのマスクの上、上半分だけを露出した顔面。
そこに二揃いで埋め込まれている眼球は丸々と輝いていて、そうしていると瞳の色素はより一層青味を増している。
そこだけが青色で、ルーフはその色彩から青空を思い出そうとしていて。
「……………」
「お兄さま……」
これ以上の嘘を用意しておらず、にもかかわらず他人からの追及は止むことなく。
沈黙の中で汗だけが滲み出る、兄の様子を見上げるメイは彼のことを心配しようとして。
「そうよ、お兄さまの言うとおりよ」
勇気を出して自ら兄の手を離し、見るからに怪しげな二人に挑みかかる要領で一歩近付く。
「おじい様は……そう、亡くなったの、病気だったのよ」
慣れぬ嘘故に、若い女をじっと睨む形になってしまい。
視界に入り込む色合いから彼女もまた連想を、その青色から海を思い出しかけていた。
(バトスクイッド)
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噂では表に出せない、ちょっとばかし後ろ暗い人々に向けて商品を開発しているそうな。
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