雨に唄いたくない
雨の音は最初の一滴を切っ掛けに、瞬く間に連続したメロディーを奏でる。
午前中の業務時間が終わり、昼休憩が始まる頃には灰笛の町はすっかり水の香りに染められていた。
行き交う人々は予め持参していた雨具、合羽やら傘等々を使い、何事もなく個々で雨の対策を開始
していた。
うっかり雨具を忘れてしまった人は、急いでコンビニエンスストアに駆け込み、小銭でビニール製の傘を買っている。
突然の雨は、彼らにとっては日常の一部なのであり、それに対する対策もこなれたものである。
車道では早くも水溜りが生まれており、震える水面を車輪が引き裂き、飛沫を散らしている。
雨に濡れそぼった浮遊車両が、空を走りながら滴を振りまいている。
その内の数粒がキンシの頭髪に落下した。仕事の時間が終わったことにまだ気づいていない若者の髪は、黒々と重々しくびしょ濡れになっていた。
周囲の人々がきちんと、雨具を身に着けて雨から頭部を保護しているのに対して、雨に殆ど身を任せてずぶ濡れになっている若者の姿は、どうにも無視できない奇妙さがあった。
事実、親切そうなご年配の男性が「風邪をひいてしまうぞ」的な目でキンシのことをじろじろと見て、通り過ぎて行った。
だがキンシは雨のことなどまるで気にしていないようだった。全く、一切意に介していないわけではない、一応皮膚の上を液体が伝う感覚は感じている。
だけどそれを冷たい寒い鬱陶しい等々、不快に思うことは無い。
若者は無駄に伸び切らした前髪に雨水が染み込み、顔面に滝のような筋が幾つも出来ていようとも、それを拭うことをしない。顎からポトポトと、重力に従って落ちるままにしている。
肯定的な視点で見れば、天然の水浴びを楽しんでいるように見えなくもないが、キンシにとってはその見方も正解とは言えなかった。
別に雨が大嫌いと言うわけでも無いが、別段好んでいるのでも無い。
キンシにとって雨は果てしなく自然な現象で、それこそ空気の流れのように当たり前としか受け止められない、ただそれだけのことで、それだけの理由しかなかった。
だから動物らしく人間らしく、雨に備えるという当たり前の行為が、キンシは幼い頃から苦手だった。だから、「雨が降ってくるならば、降るに任せていれば良いんじゃないですか」持論を勝手に作り、現在に至るまで貫き通している。
ここでいつもならば他からの、主にオーギなどの「こっちが寒くなるから止めろ」的な良心の警告を頂くところなのだが、残念ながら本日キンシは一人で仕事をこなしている。
雨は時間が経つごとに強さを増している。しとどに濡れた、ずぶ濡れの不審者じみた魔法使いは、相変わらず時の流れに気付くことなく、そろそろ空腹を覚え始めていた。
「お腹すいたなあ……」
キンシが一人呟いている。
すると、そこに何かが囁きかけてきていた。
「ぁぁぁふ ふ ふ ぁ」
「おや?」
蚊のはばたきの様にかすかな音。
しかし不快感は不思議なほどに感じさせない音色。
それは怪物の鳴き声であった。
キンシは耳を、子猫の様に黒い柔らかな体毛に包まれた、聴覚器官を音のする方に傾けている。
聞いて、見た。
そこには一匹のスライム、のような怪物が浮遊をしていた。
「おや、こんな所にスライムさんですか」
キンシが少し驚いたようにしている。
魔法使いがそう表現をしている。
「スライム」と表現されているそれは、弱小の怪物の一匹であった。
その姿は液体を主体としていることは当然として、中身に大量の空気を含んでいる。
「 ぁぁぁ ァぁぁぁ あー あー」
体の内部に空気を含む、怪物の姿はまるで一粒のシャボン玉のようだった。
ふわりふわり。
ただよう小さな液体の塊。
そこに空から降る雨が衝突する。
ぽつ。
「あ」
ぽつ。
「あ」
雨の雫がぶつかるたびに、怪物の体から音声がこぼれ落ちる。
それは赤ん坊のあくびのように弱々しく、たどたどしい震えを有していた。
「ふぅー」
その様子が面白くて、キンシは思わずスライムの怪物に息を吹きかけている。
キンシの唇から発せられた吐息、流れに合わせて怪物はふわりふわりと上昇をする。
くるくると回転しながら上に昇る。
そうすると、正午の空気に照らされた怪物の内部が、光に透けてよく見えた。
シャボン玉の中身。
そこには微粒子がキラキラときらめいている。
それは灰のようで、怪物の肉を焼いた際に生じる魔力の微粒子であった。
この都市に暮らす人々が知らず知らずのうちに、気管支の中に取り込んでいる。
その要素を、シャボン玉のような怪物も内部に取り込んでいた。
「うふふ」
キラキラとしたきらめきが面白くて、キンシはつい左指の先端を怪物の表面に触れ合せていた。
「ぁ」
パチンッ!
「あ……」
呪いを受けた左腕で触ってしまった。
魔法使いの触れた先で、シャボン玉の怪物は跡形もなくはじけてしまっていた。
消えてしまった。
跡に小さな、小さな怪物の残滓がはらはらと落ちていった。
「さみしいですね」
羽虫を潰すように、存在を消してしまった。
キンシは怪物の残りを目で追いかけようとした。
だが、そこにはもう小さくて無意味な粒しか残されていなかった。
キンシの装着しているベルトは小型の怪物、自転車ほどの大きさのある個体も楽々と引っ掛けられるそうだ。




