灰笛続き 12月14日 3つ 1354 憂いはぜんぶ海に溶かしてしまいましょう
ただひたすらに強い不安があった。
不明瞭で不可解な出来事が自分の身に起きている、そして抗う術を何も持たなかった。
心臓が激しく鼓動している。
循環器の中枢が赤く燃えがるほどに動いている。
だというのに、どうしてなのだろう? 皮膚は内層に流れる赤い血液の多くを感じとることが出来ない。
血が流れて肉が動き、骨は硬い。
なのに肉体の全てを置き去りにして、俺の意識は生命が継続している事実を拒絶していた。
生きながら死んでいる、生きることへの喜びが何一つとして感じられなかった。
ただひたすらに圧倒的な不安が胸の中に渦巻いている。
理不尽に自分の存在が失われつつある感覚は、もしかすると自らに死という事実が訪れようとしているのではないか、予想のようなものに似ていた。
感覚が曖昧になってくる。
泡になって消えてしまう。
バシャン。と液体のような質感に人間ひとり分の重さが落ちてきた音が聞こえてきた。
落下の音はひどくぼんやりとしている。
要素が音を遮断しているのか、それとも俺の聴覚に機能障害が生じていたのか、どちらかは分からない。
いずれにせよ、俺は「眼」が流す涙で作られた魔力の海、「水」の様な質感から引き揚げられていた。
「ブッッッ……!」
「水」の群れから顔を出した、俺まず呼吸を取り戻そうとした。
「はあッ! はあッ!」
「溺れそうになるのは二度目だねえ」
モアがにこにこと笑っている。
「いっそそのまま窒息死して、二度目の人生でもはじめちゃう? そうしちゃう?」
「……ぜえ、ぜえ……。……ふざけんな、こちとらまだまだ今生でやるべきことがあるんだよ、クソッタレ」
「水」に溺れるのも二回目となると飽きて……──。
飽きたかったが、しかしまことに残念なことに飽和してはならない状況になっていた。
「──……って! なんだその姿?!」
何故かモアは水着姿になっていた。
ハイレグタイプの水着、鼠蹊部のラインをこれでもかと主張している。
体のラインにぴったりと沿う生地は大胆に背中を開放し、少女にとって適切なサイズの乳房は濃密なグレーのブラジャーとして保護している。
バストの中心部分、肉と肉が触れ合ってできる谷間を観察できる露出と、首元をハイネックニットのように包む秘匿のバランスが実に蠱惑的である。
「お前……ッ! ついに痴女趣味に走ったのか?!」
「違うよお」
違うと、主張してやがる。
「だってさ、海に入るのにまさか着のみ着のままって訳にもいかないじゃない?」
モアは「水」をたっぷりと身にまとわせながら、冷たい揺らぎのなかでセクシーなポージングをきめている。
「せっかく無意識の海を泳がさせてもらうんだから、もっと相応しい格好をしなくちゃ」
「ふ、相応しい……」
レオタードからのぞく太ももには細い紐がピッタリと密着している。
網タイツの一部分だけを切り取って身に着けたような造形は、少女の和らなかな皮膚にかすかなおうとつを刻み込ませている。
月明かりに照らされる、透明で滑らかな水分に濡れる皮膚が微かに陰影を描く、実に扇情的であった。
「でもほら、ちゃんと靴も履いているよ」
「仕事」に対する責任感は有していると、どうやらモアはそう主張したがっているらしい。
「ニーハイのハイヒールなロングブーツが、果たして仕事に相応しい恰好であるかどうか、ぜひとも議論を重ねたいところだな」
見た目だけなら泳ぐどころか走ることすら無理難題な造形である。
しかしモアは俺の意見などお構いなしに、身に着けている機能についての感触をウキウキと確かめていた。
「これならちょっとした鬼ごっこも楽勝だね!」
願わくばそのような危機的状況は避けたいところである。
何はともあれ、俺はハイレグニーハイヒールブーツに身を包んだ少女の行動の理由について問うことにした。
「ところでどうして俺を超巨大な怪物が作った魔力の塊に落としやがったんだ?」
精一杯棘を含ませないように努力したつもりだった。
効果のほどは分からないが、モアは相変わらずにこやかなままだった。
「ここはもっとお洒落に、愛しの天使たちと怪物の無意識が織り成す壮大な海だと……」
なるほどわかった、海であると主張したい気持ちは分かった。
「あるじ様……」ミッタが悲しげに俺の事を見下ろしていた。
「それは意識の変化というより、ただの諦めというべきではなかろうか?」
「しょうがねえだろうがよ、ここであきらめないといつまで経っても話しが進みやしない」
しかしミッタは俺の諦観を否定し続けていた。
「諦めるのは勝手じゃが、しかし、状況を在るがままに受け入れるのは流石に時期尚早ではなかろうか?」
「どういうことだよ?」
「ほれ、」ミッタが人差し指で俺の方を、「水」に浸かってしまっている俺の下半身を指差していた。
「今すぐにでも其処を脱しないと、おぬしの存在の意味が全部溶けて消えてしまうぞ」
「え?」
何のことを言っているのかは分からない。
なのにどうしてか、不思議な理屈の勤勉なる働きによって、俺は自分の存在が「水」の塊に溶けかかっている事に気付かされていた。




