このまま二人でどこか遠い所に逃げよう
ルーフとメイの前に立ちはだかり、そして人喰い怪物の捕食からかばうようにしている。
ルーフがその人物、若い男の姿をしている人間がどの様な存在であるか、まるで理解が出来ないでいた。
大量の不可解さに少年が苛まれている。
だが彼一人の意味不明などお構いなしと、若い男の人間は腕の一振り、そこに携えている剣の一振りで怪物の体を地面に叩き付けていた。
男の腕力に推進力を阻害された、怪物の柔らかい体がアスファルトの上に叩き付けられる。
「あああ あああ あああ」
人間の悲鳴にも、あるいは水風船の残留物をスニーカーで踏み潰した音にも聞こえる。
そんな鳴き声を発しながら、怪物がアスファルトの上を這いつくばっている。
マウンテンバイクほどの全長がある、暗い色をした肉の塊が自動で動いている。
光景は中々に悲惨で、ある種の惨めさすらも感じさせていた。
衝撃は、その柔らかそうな肉体にそれなりのダメージを与えていたらしい。
しばらく動けないことを確認した。
ルーフはそこで初めて、一定の冷静さの中でこの場に現れた男の姿を目で確認していた。
「まったく、元気が多いですね」
そんなことを言っている。
男は、見てくれに関してはどこにでもいそうな、少なくともこの世界にとっては普通の人間のように見える。
身長は170センチほどで、身体的特徴にはなんら特別なことは見受けられそうにない。
あえて何か特筆をするとしたら、彼の聴覚器官はネコ科のそれとよく似ていることだった。
身体に動物のような特徴を宿している。
斑入りと呼ばれる彼らは、この世界の人間社会の大部分を占めている。
確か、ルーフのように何の特徴も無いヒト科よりかは割合を多くしているはずだった。
ともかく、成猫のような耳を持っている男性がチラリとこちら振り向いていた。
光に反応して細長くなった瞳孔は、哺乳類的な温かみよりもむしろ爬虫類、毒蛇のような冷たさを想起させた。
「大丈夫ですか?」
白色の清潔感のあるワイシャツのしたに、暗い染色がなされたデニムパンツというシンプルないで立ち。 そして黒猫のような聴覚器官と、若干毛先に癖のある毛髪を持っている。
前髪の間から、男の視線が兄妹の安否を確認していた。
「…………」
虹彩は深い緑色をしている。
瞳の色を見て、ルーフは身体の内側にかすかな緊張感を抱かずにはいられないでいた。
瞳の色に関しても、この世界では多少妙な色素をもっていたとしても、少なくとも驚愕を抱くような要素足りえることは無いはずだった。
ならば、どうしてルーフは警戒心を抱いているのか。
それは、男の左目の緑色にかすかな違和感を確認したからであった。
左目、そこには右側と同じ抹茶のように濃い緑色が大部分を構成している。
だが濃厚な色素の中に、わずかだが黄色く輝く怪しい光を帯びていた。
黄色、いや……それよりも存在感の強い、男の左目にはヒマワリの花弁のように鮮やかな黄色が、さながら三日月の弦を上に向けたかのような形で刻まれていた。
金眼銀眼という特徴が猫によく表れることは、ルーフも知っている情報だった。
それとはまた種類が異なるとしても、左右で色が異なる目がこの世界でもあまり見られない特徴であること。
ルーフはそう認識していた。
身体的特徴に注目をしてしまった。
一つ違和感に気付くと、途端にルーフは男の存在に含まれている異常性に強く集中を惹きつけられそうになっていた。
もっと見なければならない、そう考えている。
だがルーフの願望をよそに、怪物の方が先に行動を起こしていた。
怪物が、獲物を捕らえられなかった苛立ちに呻き声をあげている。
後ろ足、本物のカエルのように強い筋力を持った足が再び地面を強く踏みしめた。
怪物が跳ぶ。
今度は兄妹ではなく、本来の獲物を狙う手を阻害した男に攻撃意識が集中していた。
どうやらメインディッシュを喰らう前に、障害物を取り除く程度の知能は持ち合わせていたらしい。
カエルのような怪物が男に襲いかかろうとした。
跳び上がる体が、男ひとりに向けた直線を空中に描く。
「あぶない!」
そう叫んでいたのは、ルーフの腕に包まれたままのメイの声であった。
妹がそう心配しているとおりに、もしも何もしなければ男の身体、前進とまではいかずとも頭蓋骨の一つぐらいは怪物の口に呑まれていたであろう。
そう、男が普通の人間であればこそ、怪物の望む仮説の世界が実現されたに違いない。
だが、残念なことに男はどうやら「普通」の人間ではなかったらしい。
風が吹いてきた、空気の変化がルーフの毛先を揺らした。
嵐の気配とは異なる、雨天の中において異様に爽やかさを帯びた風の質感にルーフが戸惑う。
ルーフがまごついている。
その間に、男の姿は少年の視界から消失していた。
跡形もなく消え去ったのだろうか?
そう考えようとして、ルーフはすぐに自らの考えを否定していた。
怪物を目の前に置き去りする、などという行為があの男に適用されるとは思えなかった。
自分の身を案じた楽観的観測というよりかは、ルーフはむしろ怪物そのもの以上に、男に対してある種の恐れを抱き始めていた。
恐怖は、一応経験に基づく感想でもあった。
怪物は知らないで当然であった。
なぜなら、その男が簡単に空を飛べる方法を知っていることを、とりあえずこの場面で知っているのはルーフと妹だけであったからだ。
ルーフ、そして少年の腕の中にいる妹が上を見ている。
怪物はまだ地面の上を見ているだけだった。
兄妹が上を見ている。
その先で、男が左手に刃を携えたままで虚空を優雅に漂っているのが見えていた。
空を飛んでいるにしては、あまりにも緊張感が足りなかった。
まるでものすごく軽い素材で作られたマネキンか何かを、子供の腕力で無造作に投げ出したかのような。
そんな速度で、男は空をゆったりと落ちていた。
ゆっくりとした落下。
男の動作を見て、少年の腕の中に納まっていたメイがぽつりと呟いていた。
「お兄さま、みて、あの人……」
彼女が言いかけた言葉を、ルーフは待ちきれないように言葉にしていた。
「魔法使いだ」
魔法使いである証は、すでにルーフの視界に確認できていた。
ゆっくりとした速度で落ちようとしている、ルーフが見上げた先には男の左頬が輝きを放っていた。
左側の顔面、そこには呪いと呼ばれる魔法使いの証が刻み込まれていた。
およそ人間の皮膚とは呼べそうにない、水晶のように通過性のある質感は、おそらく触ったら火傷の痕のようにプニプニと柔らかいのだろう。
何故にそんなことを知っているのか。
ルーフは思わず妹を抱きしめている手を離して、自らの額に指を伸ばしかけている。
だが少年が行動を起こすよりも先に、怪物の方が次の行動を起こそうとしていた。
行動は、それなりにもっともらしい欲求に基づいていた。
手頃な獲物の前に立ちふさがっていた邪魔な肉壁が消えたのである。
だとすれば、常に空腹感を覚えている怪物が選ぶ事項など、せいぜい兄妹の内のどちらから食すべきかの順番についてのみ。ただそれだけのことであった。
怪物が、もしも表情という感情表現が許されていたとしたら、おそらく口元には満面の意味を浮かべていたに違いない。
それ程に分かりやすい喜びの気配を、ルーフにすら分かる程に全身で表現している。
軽やかな動作で、もうじゃまなどこの世界の何処にも存在していないというかのように、怪物はポテポテと兄妹の方に歩み寄ろうとした。
妹の方はすでに怪物の接近に怯えていた。
だが兄の方、ルーフは依然として空を見続けていた。
空に浮かんでいる、ルーフは空をゆっくりと落ちている黒髪の若い男……、魔法使いの姿を見ていた。
見上げている先。
そこで魔法使いが何かを呟いていた。
「 」
声を届けるつもりはなく、実際に魔法使いは空いている右の人差し指で「静かに」のジェスチャーすらも見せている。
だから、ルーフは魔法使いが実際に何かを言ったのか、実際の詳細を知ったわけではなかった。
ただ、何となくの直感で、ルーフはこの場所から動くべきではないことを悟っていた。
ただひたすらにジッとする。
仮に魔法使いが助けてくれなくとも、せめて喰われるのが自分だけに限定されるように、ルーフは怪物の口がある方に自分の身体を移動させている。
もうすでに上を見ていなかったため、その後に魔法使いがどの様な行動をとったか子細なことは分からなかった。
分かろうとする必要性も無かった。
何故なら、襲いかかろうとした怪物の体にめがけて、魔法使いが落ちてきていたからであった。
最初に刃が怪物の頭部へ刺し込まれていた。
小さな悲鳴が上がる。
「gyuぴぽぷ」
皮膚、肉と骨に刃、刀のような鋭さが突き刺さる。
次に魔法使いの体が落ちてくる。
両の足で地面を激しく踏みしめる。
空に漂っていた魔法を軽度に解除して、せいぜい自分の身を守る程度に重力を取り戻させた。
肉体の重みを両の足で怪物の肉ごと踏みしめている。
怪物の体に覆いかぶさるようにして、魔法使いの重さが肉体に沈み込む。
重さを得た、刀が怪物の肉へさらに深く突き刺さる。
衝撃が怪物の肉を、中身の水分のいくらかを圧迫する。
押し出されたそれら、赤色をしている、まるで血液のような体液が魔法使いの白いワイシャツを赤く染めた。
血液の飛沫は勢いを激しく、蛇口を全壊したかのような飛沫がルーフの体に少しだけかかった、
血液の塊、命の気配をまだ沢山残しているそれは、確かに実感できる程度のあたたかさを持っていた。
ルーフは妹を抱きしめている熱に新たなぬくみが加えられ、ルーフは自らの皮膚に粘度の高い汗がにじみ出るのを感じていた。
人間と、怪物の体液が重力に従って滴をいくつも作りだす。
それらの温度を全て溶かすように、空から落ち続ける雨水の冷たさがそれらの温度を溶かし、消去し続けていた。
「お守りの一種」
鉄及び金属は貴重なものである。
故に蹄鉄は高級品であって、その中心に目をかたどったガラスをあしらえることで、邪悪な視線から身を守るお守りとなる。




