この世は不思議なことがたくさんあるんやで
こんにちは。
「あの……そんなに見つめられると、怖いんだが……?」
俺の主張も虚しく、ハリはこれでもかと言うほどに凝視をし続けている。
よもやプロの漫画家の仕事の一端を任されてしまった。状況に怯える暇もなく、覚悟も決められないうちに「サクッと」実戦投入されてしまっている。
イカリなんとかシンジ君もきっとこんな風に福音の名を受けた汎用人型決戦兵器に登場させられたに違いない。
まったく、児童を守る倫理団体やらユニセフ的な集団がいたら、こんな状況黙っちゃいないだろうよ。
「ゆにせふ?」
どうやら不満の呟きがついうっかり音声にこぼれてしまっていたらしい。
「なんですかそれ? お湯をふんだんに使った美味しい料理のことですか?」
しかしながらどうにも、俺の言葉はハリに通じてはいないようだった。
「違うっての……」
俺が小さく反論しながら、なんとか筆を走らせ続けることに成功している。
「そうだよ」
エミルの声が、集中力の外側で薄ぼんやりと、雨漏りのように染み入ってきている。
「大体の料理は熱湯が無けりゃつくれないよ、ゆで卵だってそうだろ?」
それはそうだが。と、納得しそうになる思考へエミルがさらに言葉を浴びせかけてくる。
「あ、でも目玉焼きはいらないか。オムライスやオムレツには湯はいらねえな。はっはっは」
笑ったところで、しかしエミルは言葉の末尾にてすぐに不満げな溜め息を小さくこぼしている。
「いや、違うな……」
なにが違うというのだろう。こっちまで無駄に不安になってくる。
「ははは……ゴホン、HAHAHA!!! の方がいいか」
「ゴミクソにどうでもいい?!」
予想を斜め上に飛び去る、それはさながら最新、最先端の科学技術を満載したスペースロケットの描く軌道のごとし。
「おやおや? 皿の国スタイルの笑い方はお気に召さなかったようだな」
エミルが俺のことをおちょくっている。
「よっ! さすが生粋の鉄の国男子! ビバ鉄っ子!」
そういうことが言いたいんではなくて……。
っていうかなんだよその「鉄っ子」って……。他人をそんな鉄道マニアじみた名前で呼ぶんじゃねえよ……。
俺はそう伝えたかった。
エミルに、めちゃくちゃに才能のある彼にそう主張したかった。
しかし肉体は言葉を受け入れる要領や、容量を持ち合せていなかった。
「…………」
ただひたすらに目の前に広がる空白を黒色で埋め尽くすので精いっぱいだった。
そこにもっと技術的なものを織りこむ余裕などまったくなかったし、ましてや商業世界を意識した巧みなる工夫など出来るはずもなかった。
「…………」
結局はただ色を塗っただけに過ぎない。
まだ幼稚園児の塗り絵の方が、制作に対する喜びと言うものに満ちあふれている分美しいはずだった。
俺の手元にあるのはただのインクの染みで、それ以外の意味をなしていなかった。
「…………」こんなものを提出して、相手側に迷惑は掛からないのだろうか?
「…………」大丈夫なのだろうか? 俺なんかのせいで、せっかくの作品が台無しになってしまわないか?
「…………」どうしても不安……──。
「立ち止まってないで、さっさと提出しやがれ」
羽根を毟り取るような勢いで、俺の手元にある原稿用紙が「彼」の手に戻っていった。
「あッ!」
あっという間に手の中に空白が訪れていた。
と、考えたところで俺は自分自身に疑問を抱く。
いったい何の権利があって、俺は手の中にあるインクの染みを「自分の物」であると認識しているのだろう?
考えたところで、しかしてその行為の無意味さに呆れる。
答えはすでに知っていた。俺はあの原稿用紙を、自分の作品であると、そう思い始めていたのだ。
作っているあいだは何もかもが分からなかった。ただ自分に与えられた作業をこなすので精一杯だった。
それしか出来ないはずなのに、だというのに、この短い時間で愛着を抱いてしまっている。
これは一体、どういうことなのだろうか? 訳が分からない。
「ふむ……?」
と、そんな自己心理を分析している場合でない。
無いのである!!
目の前に男の生首が伸びてきている。
かと思ったそれは、どうやらエミルの手元にあるスケッチブック、に展開された異空間から首だけを出している男の首であるらしかった。
「えっと……」
本物の漫画家だ!!! ヤバい、サイン欲しい!!!!!!
…………ではなく、俺のお粗末で最低最悪のインク染みが、あろうことかプロの手に渡ってしまった。
「あ……ああ、あああ……」
緊張感、まるで喉元に冷たいナイフを突きつけられたような、切っ先の鋭さは俺の精神を目にも止まらない速さで切り刻んでいった。
「ふうん?」
息ができない。体はメデューサに射抜かれたかのように、石のように硬直するだけだった。
「まあ、いい仕事なんじゃねえの?」
言葉が遠くから聞こえてくる。
「だが、なんつうの? 詰めが甘いよな」
キッカはごくごく自然体な様子で、俺の仕事に対する評価をくだしていた。
「はあ……」
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。それか、あるいはそれ以外の何かなのか。
把握できるほどに、俺はまだこの仕事のことを何も理解していなかった。
ありがとうございます。




