願いが叶うなら君のそばで眠りたい
錯覚だと思っていた。
しかし、どうやらその認識こそが錯覚、虚しい思い違いにすぎなかったらしい。
電車の外に出てきた。
ルーフは妹であるメイの手を握りながら、空を見上げている。
空にある、魔力的な変化。
それは切り傷のようにも見えるし、あるいは閉じた人間のまぶたのようにも、みえなくはない。
ルーフが上をじっと見上げている。
するとそこに、少年の妹であるメイの声が聞こえてきた。
「お兄さま?」
小さな金属の鈴をころがしたかのような、空気が少し抜けるかのような掠れ気味の声音がルーフの鼓膜を振動させる。
まちの喧騒はすでに彼の全身を包んでいた。
だがそれらの雑音も、このような状況でありながらも妹の呼び声の前には無価値同然でしかなかった。
右手に熱を感じている。
それは妹の、メイの白い手の平から発せられる温度から生み出される他者のぬくみであった。
ルーフは道を少し歩きながら視線をチラリと、意識の大部分を妹の姿に一時的に捧げている。
「……んん」
見ている先で妹は、メイはあくびをひとつこぼしていた。
彼女の唇が、うっすらとした羽毛に包まれている体がかすかに動いている。
彼女には、妹であるメイにはいくつもの羽毛が生えていた。
それは彼女がこの世界に存在している人間の種類において、その身体に鳥類の特徴を宿す分類に属しているからであった。
彼らは主に体表に多くの羽毛を生やしている。羽の色は保有している鳥類によってそれぞれ異なっており、メイの場合は雪のように白い羽をたくさん持っていた。
そんな妹の手を、手のひらにはあまり羽毛の生えていない、柔らかい皮膚を握りしめながら。
ルーフはまちの中を、灰笛と言う名前を持つ地方都市、見知らぬ土地の中を進もうとした。
しかし、少年の歩みはどうやらスムーズに進もうとはしていなかった。
「…………?」
最初の違和感は、上から降ってきたような気がしていた。
音が聞こえてきた、それは風を切り裂くような音色を有していた。
ルーフは妹の手を握ったままで、上方を確認しようとした。
事態が起きたのは、まさしくその行動と同時の出来事であった。
「え?」
驚きの声を発していたのはルーフの喉元であった。少なくとも妹は、その時点ではまだ眠気につられて周辺の出来事に注意力を働かせられるような余裕はなかった、と思われる。
それに誰がいつ先に気付いたか、情報を獲得した速度など、目の前に広がっている現実の前にはちんけな問題でしかなかった。
そう……、目の前に広がっている……。
それは、人間の姿をしていた。
人間の体が落ちてきていた。子供ではない、当に成人を過ぎ去った、健康そうな男の体のように見える。
「あぶなーい!」
男は予想していた以上には低く、やたらと耳に残りやすい声で自分の下にいる人々……。
つまりは、地面の上に立っているルーフとメイの兄妹に叫びかけていた。
「は?」ルーフは驚く「はああッ?!」
注意喚起をされた、だがルーフとメイはそれに反応することができなかった。
できるはずがなかった。
まさか、生まれて初めて訪れた都会で雨ならともかく、まさか人間が降ってくるとは。
驚く暇も無く、余裕もないままに、ルーフの元に人間の姿が落下してきていた。
ぶつかる! 危機感を覚えると同時に、ルーフはせめてもの抵抗として妹の身を守ろうとした。
兄の思考は、どうやら妹のメイにも共通していたらしい。
抱きすくめるようにした少年の体、頭の辺りを彼女の白い指、そこに鋭く伸びている爪が彼の頭をギュッと握りしめている。
兄妹が互いに身を寄せ合って、一方的に訪れようとしている危険に虚しい抵抗を計ろうとしていた。
「…………?」
一秒、二秒、それ以上待った。
だが、いくら待てどもルーフが想像した衝撃が身を叩き潰すようなことは起きなかった。
ただ一つ、頭の上、頭頂部……うなじの辺りに何か、軽いものが触れているような感覚だけがある。
天日干ししたタオルケット一枚を、そっと頭に被せたかのような、そんな軽さ。
重くなければ、当然痛くもなんともない。
しいて言えば少し痒い、夏の夕暮れに羽虫が肌に付着した、あの感覚に似ている気がする。
そんな違和感に、ルーフがまずもって状況を把握するために確認をしようとする。
首を動かして、左右を見ようとする。
だが、少年の動きは他者の声によって遮られることになった。
「ああ、待って、動かないで」
聞き覚えの無い、知らない人間の声。
だがルーフは、その声が今しがた自分らに叫びかけていた男のそれであることをすぐさま察知していた。
落ちてきていた、自分たちに落下衝突してきていたはずの人物。
それと思わしき存在が、どうして今、自分に向けて話しかけているのだろうか。
意味不明の中で、抑えようもなくルーフは体を大きく動かしている。
そうすると、男の声が一層狼狽を強くさせているのが聞こえた。
「うわわっ? ちょっと、ホントに動かないで……っ」
ものすごく慌てている。
だが男が慌てるほどに、ルーフの不可解さはより一層深みを増すばかりであった。
何をすればいいのか?
訳が分からないままに、ルーフはとにかく妹を抱えてこの場から逃げ出そうとしていた。
それが、どうやら男に決定的な何かを与えたらしい。
「おあーっ?!」
まるで最悪な災厄にあったのは自分自身であると。
それより他など存在していないと、そう信じきっているかのような叫び声であった。
男の悲鳴が頭上に響いてくる。
ドサリ、と重たそうな物が落ちていく音が左側から聞こえてきたのが、ほぼ同時の出来事であった。
落下物によって発生した風が、ルーフの赤みがかった癖毛を揺らしている。
近くに落ちてきた、ルーフは最初それを見ようとはしなかった。
見たくなかった、それは一種願望めいた硬さを有していた。
どうして? ただ駅の外まで歩いてきて、どうしていきなりこんな異常事態に遭遇しなくてはならないのだ。
不可解は永遠の不理解のままで、やがては不愉快と不満に姿を変えようとしている。
そのまま、ずっと自分の感情に素直になれたら、どれほど良かっただろう。
だが少年の期待することは、いくら願おうとも現実に叶えられる事など無かった。
違和感は、憎々しいことにそれだけで終わってはくれなかった。
落ちてきた、男の声が地面の上から不満げな意見を伸ばしている。
「ひどいなあ、動かないでって言ったのに」
自分の要求が叶えられなかったことに不満を抱いている。
ルーフは最後の抵抗として、その男から目を逸らすためにこの場から逃走を図ろうとした。
だが、少年の願望は現実に実を結ぶことは無かった。
「お兄さま!」
そう叫んでいたのは妹、メイの声であった。
限りなく悲鳴に近しい、それは彼女が兄であるルーフの身を案じるための叫びそのものだった。
自分らの元に落ちてきた男よりも、ルーフは瞬時にその意識を妹の叫び全てへと捧げている。
彼女が悲鳴をあげることは、たとえどのようなことであったとしても、この世界で何よりも優先すべき事項であるからだ。
少なくともルーフは、妹の兄である少年自身がそう信じきっている。
それは覚悟、決意のような気配を有していた。
少年の体に緊張感が走る、妹を守るためにルーフは腕の力をさらに強めた。
なにから守るべきか?
答えはすでに決まりきっていた。
落ちてきた男はすでに意識の外側に移されている。
何故なら、それ以上に危険である物体が彼らの元に急接近していたからであった。
近付いてくる、それはカエルのような造形をしていた。
もちろん、普通のアマガエルのように柔らかく湿った緑色の可愛らしさは、その怪物には一切含まれてなどいなかった。
その、カエルのように強い跳躍力を持っている「何か」は、体表を墨汁のような暗黒で包んでいた。
まるで本当に炭のひと塊を、誰かが液体ごと遠隔操作しているかのような。
「何か」の暗黒部分は、それほどに生命力に満ち溢れた活動能力を有していた。
怪物、ルーフの頭の中に単語が一つひらめいていた。
いつだったか、故郷で彼の祖父がこんなことを言っていた様な気がする。
このまち、人が集まるところ、灰笛という名の地方都市。
そこには人を喰らう、人間を食べたくて食べたくて仕方がない、そんな生き物が幾つも息を潜めているのだと。
そう、祖父に教えてもらった。
記憶を確かめる必要性も無いほどに、怪物は少年に向かって大きく口を開いていた。
柔らかく薄い二枚の唇。
隙間が外界のおぼろげな光に照らされている。
歯と思わしき捕食器官は確認できそうになかった。
牙の一本や二本でも生えているのかと、そう思っていたルーフは少しだけ意外に思った。
歯の無い空洞から、怪物の音声と思わしきものが発せられている。
「ハハハハハハ ハハハハハッハハハハハ」
一瞬だけ人間の声だと、そう思いそうになったのはルーフの思い込みに過ぎなかったのだろうか。
そう期待しそうになった、だがルーフの期待は現実に実を結ぶことは無かった。
「八蜂葉葉葉葉葉 haa haa haaaaa」
人間のそれと思っていた、怪物はすぐに己の存在価値を証明するかのように、およそ人間らしくない嘶きを口から発していた。
「ああああぁぁぁぁあああぁぁあああ」
獣のような、怪物は全身で空腹であることを表現するかのように叫んでいた。
唇が、奥にある空洞が真っ直ぐこちらに向かってきている。
怪物が、そのカエルのように強靭なる脚力によって、ルーフたちが居る場所まで突進しようとしてた。
「……ッ?!」
沈黙さえも許さずに、ルーフはただひたすらに妹の身だけを守ろうとした。
少年が考えた行動が、現実に確かな効能を発揮するかどうかは、その先を知る誰かの視点しか知り得ぬことだった。
結果だけを言うとして、ルーフが危惧した出来事は現実には起きなかった。
何故ならば、ちょうど兄妹と怪物の間に割り込むようにして、とある人物が武器を手に立ち塞がっていたからであった。
人物が兄妹に、主にルーフに向けて確認をしてきている。
「大丈夫ですか?」
それは、今しがたルーフの頭から滑り落ちたばかりの男の声、姿と大体同じ色合いを有していた。
道丘地方……灰笛の近くにある。ルーフとメイの故郷がある場所。




