アヒルちゃんは落ちない
急ぐよ
「ん?」
兄がつぶやいた言葉、メイはその意味をすぐに理解できず脳のなかでビー玉のように転がす。
「んん?」
転がして、転がして、結局は自分の目で事実の確認することにした。
言い争いもまだ勃発していない若者たち、彼らの視線を浴びるのもかまわずメイはささやかな注意を払って崖の終着点まで近づいてみる。
そしてあるものを、どうしようもなく決定的なあるものを見つけてしまう。
「あ、はしごがある」
ぽかんと開かれた唇が、どうにも情緒のないそのままの風景描写だけをこぼす。
崖の終わり、地面の終着点、海原が始まるところ。
パン屋のシャワーですっかり清潔になった彼女の、真っ白な足の少し先にはしごが、潮風に削られてパリパリさびついている、ごくごく当たり前の形をしていそうなはしごが掛けられていた。
どうしてこんなところにはしごが、それがどうしたというのか、もしかして───。
妹の疑問、それに関しても兄がすぐに具体的な言葉にしてくれる。
「本当に、本当なのか? このはしごの下にお前の家があるのか?」
ああなるほど、やっぱりね。
メイが針に突かれるような納得をしている間にも、若者たちは討論を続ける。
「そうですよ、その通りです。さあ、我が家へようこそ」
キンシは兄弟たちの暗い表情をうかがいつつ、それでも明るい表情を保ったまま崖の終わりに足をつけ、はしごに手を掛ける。
「このはしごの下に、ちょっとしたスペースがあります。そこが僕とトゥーさんの住処の入り口があります」
そこでふと、キンシはトゥーイのほうに不安げな視線を送る。
「あ、でもトゥーさんはどうやって降りましょうかね?」
兄妹も一旦自らの内側から不安を切り離しトゥーイを、青年の腕の中にいる幼子のことを気に掛ける。
あまり考えたくないことだが、しかし仮定的に想定するとしてミッタを抱えたままでは崖の下の家にどうやって?
だがその辺の問題はすぐに解決する。
と言うよりは、すでに解決していた。
「…………」
トゥーイが無言で、限りなく無音で、子供たちの前を通り過ぎる。
青年のフードつきポケットには黄色いアヒルがねじ込まれ、青年の大人らしく広い背中には、
「ひい、ふふう (‘>‘)」
アヒルのように唇を尖らせながら、しっかりとした握力でトゥーイの首に腕を回しているミッタの姿がぶら下がっていた。
青年と幼子は子供たちの注目のもと、さっさとはしごを下っていく。
「えーっと………」
キンシは少しぼんやりと、ルーフは戸惑いがちに頬をこする、
そうしている隙に、彼女は諦めながらも暖かな決意を抱くことが出来るようになる。
「さてと、それじゃあ、お邪魔します」
メイがそろりそろりと、おっかなびっくりな動作ではしごを降りる。
若者のうちの一人、魔法使いが一拍遅れてその声に反応する。
「あ、えっと、ようこそ」
そして崖のふちに立ち、降りていく彼らの様子を見守った。
「あ、おい………」
一人残された少年は少し慌てて後を追う。
はしごを下る。
ロールプレイングゲームの世界だと高確率で経験するであろう、少なくともルーフが今までクリアしてきたゲームたちには必ずといっていいほどはしごが登場し、キャラクターはそれを上ったり下ったり滑り落ちたりしていた。
そんな、ちょっとした憧れを抱いてすらいた行為。
しかし電子画面ではなく現実の、生の肉と骨をともなって経験するはしごは、どうにもこうにもどうしても、到底楽しめるような代物ではなかった。
「ちょっと、何してんですか!」
キンシがルーフに叫びかける。
「もたもたしてないで早く降りてくださいよ! 後がつかえていますよ!」
魔法使いの文句にルーフは苛立った返事を叫ぶ。
「う、う、うるせえな! わかってんだよそんなこと!」
若者たちははしごを降りはじめ、そしてまだ降りきっていなかった。
「なんで、なんで………!」
日はすっかり暮れ、暗黒をなみなみと湛えた海原と遠くに輝く工場の明かり、それらの匂いをたっぷり含んだ風にあおられながらルーフが小さく悲鳴を上げる。
「このはしご、大丈夫なのかっ………?」
彼が心配するのも当然のことで、そのはしごはどうにも劣化が激しく少し体重をのせただけで、
ぎしりぎしり! ぎりぎぎぎりり!
きっと凶暴な巨人が歯軋りしたらこんな感じの音がするのであろうか。
そんな感じのなんとも人間の本能的な不安を掻き立て掻き乱す、深い極まりない音を奏でまくるのである。
「大丈夫ですよーお兄さまー」
すでにさっさとはしごを降り、キンシが言ったとおりの崖の下、そこに生じている駅のホームほどの幅がある空間に足をつけていた。
「ちょっと所々留め具が外れそうですけれどー、仮に落ちても大丈夫ですよー」
「大丈夫って………お前───」
妹の何も気楽なアドバイスに呆れかけた、
その時、
バキリ
「あえ?」
ちょうど少年が足を掛けていた辺りのはしごの柵、そこの金具がなんとも言えぬ音色を奏でて外れた。
「う、」
ルーフは一秒ほど懸命に耐え、
「うわあああ?」
結局耐え切れず、体のありとあらゆるバランスを失ってはしごから手を離してしまった。
崖下のホームにはまだそれなりの距離が、死ぬとまではいかなくとも無傷ではすまなさそうな落差がある。
「仮面君!」
キンシが無駄だと分かっていても手を差し伸べ、しかしすぐに公開を覚悟しかける。
だが、
「うあー………。あれ?」
若者たちがいくら待っても、起こるべき衝撃もその音も発生しない。
「ね、お兄さま」
瞬きなどすっかり忘れ、ヒリヒリと乾燥している眼球でルーフはメイのほうを見る。
彼女はいたって気軽そうに、にこやかに、きらきらと輝く爪で落下してきた兄の体を受け止めていた。
「落ちても、大丈夫だったでしょ」
するすると布の擦れる音。
ルーフが見上げると、キンシがなるべくはしご自体に負担を掛けないよう、軽やかな速度で自分たちのいる場所まで降りてくるのが見える。
「すばらしいですメイさん!」
魔法使いは幼女を賞賛する。
「ナイスキャッチ」
メイは少し恥ずかしそうに微笑む。
そんな彼女たちのやり取りを、ルーフは暴れる心臓の中で冷ややかに眺めていた。
心理戦です。




