他のとはちょっと違うんですよ
忘れていた
ルーフは息を吐いた。
この珍妙なるパン屋のあとはいよいよ魔法使いの自宅、果たしてそれはどのようなものなのか。
期待と不安が少年の心をない交ぜに、水性絵の具のようにかき乱されていた。
「………あの……」
呼吸するのに一生懸命な兄をよそに、メイはトゥーイの元へとそっと近づく。
「少し、質問したいことがあるんだけれど」
「はい」
トゥーイが眼球だけを下に向け、幼い体の彼女を見やる。
そして短い同意としての返事をした。
「どうぞ」
「あの、ちょっと気になったっていうか、思い出したことがあるんだけれど」
すでにアイエムだとか言う長ったらしい名前のパン屋から離れ、二人で勝手にビニール袋の内容についてふざけ合っている若者たち。
名はぎりぎり彼らの耳に聞こえないよう、細心の注意を払いつつ青年に質問した。
「このパン屋の店長さんって、冥人とかいったかしら? それって───」
彼女は思い出していた。
つい先ほど、店の中にいたときは不甲斐ないことに体が疲れきっていて脳が上手く回転しなかった。
だが今は、疲労も回復して外の新鮮な空気を肺胞にひたした今、彼女の心にはとある疑惑が発生しつつあった。
冥人。
そう呼ばれ、種別される人間のことを自分は知っている。
彼女の脳内でぽつりと痛みが芽吹きかけた。
そうしようとしたところで。
「ういー (‘ε‘)」
青年の腕の中でミッタが沈黙を突き破る大声を発した。
メイはいささか大げさすぎるほどに驚き、目を大きく見開いて腕の中の幼子を見る。
ミッタは彼女の刺すような視線などまったく意に介すことなく手の中のおもちゃ、先ほど風呂場を借りた際に見つけ、いつまでも離そうとしなかったのを、
「アーだいじょぶだいじょぶ、モってちゃっていいよ」
といった感じにシグレから譲り受けたばかりのおもちゃに夢中になって遊んでいた。
「うふふ、うふふ (^‐^)」
小さな、黄色いアヒルの幼体を模した遊具をピコピコと楽しそうに握り締めるミッタ。
「…………」
その様子を見てシグレは何を言うでもなく、ゴマ粒の瞳をそっと細めただけだった。
そしてメイもまた、言おうとしていたことをしばし忘却して沈黙に体をひたす。
そして彼女は、今だけは諦めておくことにした。
「いいえ、やっぱりなんでもないわ」
「それがいいでしょう」
ちんまりと動き回るミッタを腕に抱えたトゥーイが、感情を浮かべないままにどこか遠くを見る。
「サラウンドに疑いを持つことは、百年先でも十分です」
ミッタの握り締めたアヒルが空気の漏れによってまぬけな、それでいてどこか物悲しい音色を奏でる。
「は、はあああっ?」
音色も潮騒も、風の音すらかき消すほどの大声が若者たちの間で沸き起こる。
ルーフの声だ、メイが先ほどまでとはいかないほどに驚いて、二人が立っているところに目を向けつつ近づいてみる。
トゥーイと腕の中のミッタもそれに続く。
「おまっ………。おまおまおま」
ルーフは妹とは比べ物にならないほど圧倒的に、それでいて分かりやすく驚愕を全身で表現しまくっていた。
「お前、本気なんだよな? ふざけてんじゃないんだよな?」
両の腕と足を踏ん張って奇妙な格好になっているルーフに、キンシはまるで一切の動揺を見せることなく平坦に受け答えをする。
「本気ですしふざけてもいません、自分の家の玄関先でふざけるほど僕は元気いっぱいじゃありませんよ」
若者たちは崖の上に立っている。
シグレのパン屋から大して離れていない………、というよりは徒歩三分もかからぬほどの地点で彼らはまたしても揉め事の気配を漂わせていた。
「どうしたの二人とも」
自分の思考に気をとられて外部の音に耳を向けていなかったメイは、主に兄のほうに体を寄せつつ会話の内容を聞き取ろうと試みる。
「ああ、メイさん」
キンシが彼女のほうへ、別段特別なこともない暖かな笑みを向ける。
「今まで移動ご苦労様でした、ようやく僕の家に到着しましたよ」
「え?」
魔法使いの言葉にメイは目を丸くする。
なんとも言えない、今日一日のうちでも指折りに出来てしまいそうな、胸の内が冷え込むような疑問を彼女は抱きそうになる。
魔法使いが、キンシが手で誘導する方向の先には海しかない。
つまり崖の終わりで、その先には地面が継続されず、入るどころか歩くことも不可能な空間しか広がっていない。
「えっと………?」
………もしかして、さっきのパン屋みたいに外からじゃ内容が見えない家なのかも。
そう思いたかったが、しかしそこにはどうしようもなく空間しかなく、空虚以外のものを見出すことなどできそうにない。
……………。
今更、今更だとは自覚している。
しかし、それでも、彼女はいよいよキンシの一切の悪気がなさそうな笑顔に、皮膚が粟立つ不安を覚え始めたところで。
「冗談きついぜ」
ルーフがまさしく彼女の言いたいことを代弁するかのような台詞をはいて、
「崖の下の家とか、意味わかんねーし!」
彼女の抱いていたイメージを否定する事実を口にした。
ずっと深い雨を舌に乗せました。




