この曲好きだけど嫌い
こんにちは。
ご覧になってくださり、ありがとうございます。
穏やかである。
キンシとモアがお気に入りの小説について語っている。
その合間に、喫茶店の店員であるトユンは安心してトゥーイの方を観察することができていた。
「…………」
トユンの視線を集めている。
トゥーイは落ち着きはらった様子で紅茶を楽しんでいた。
ふうふう。
ふうふう。
ふうふう。
紅茶に息を吹きかけている。
砂糖を合計三杯以上は入れたであろう、かなり甘い紅茶。
かなりの時間をかけて、トゥーイは紅茶を冷まそうとしていた。
ふうふう。
のべ三十秒以上は息を吹きかけ続けていたであろうか。
まだトゥーイは紅茶に口を着けようとしない。
ふうふう。
猫舌なのだろうか?
いや、この場合は犬舌というべきか?
トユンは考える。
喫茶店の店員である彼の思考を他所に、トゥーイの耳は自らの呼吸の音を聞き続けている。
白色の、柴犬のような形を持った聴覚器官。
三角形の耳をピン、とまっすぐ立たせている。
長いな……。
と、トユンが早くも飽きようとしていた頃合い。
「さて、と」
モアがおもむろにカウンター席から立ち上がっていた。
「あたしはそろそろ帰ろうかな」
用意された分の紅茶を飲み干した。
モアは右の片手に恐ろしき人喰い怪物を携えながら、周辺の人々に柔和な微笑みを振りまいている。
「帰るって言っても、帰る家なんてどこにも無いんだけれども」
モアはそのように言っている。
とくにさみしそうにしている訳でも無く、ただ当たり前の事実だけを受け入れている。
春に桜の花が咲き、夏が始まる前にいっせいに散る。
分かりきっている事実を、モアはあらためて言葉にしているようだった。
「モアさん?」
立ち去ろうとしているモアに、キンシが不思議なものを見るかのような視線を送っていた。
「帰るところなら、ちゃんとあるじゃないですか」
モアがキンシのほうを見やる。
その視線の中に一筋、刃物のような鋭さが宿った。
のは、もしかするとこの場所、今日一日でモアがはじめて魔法使いに向けた攻撃的意識だったのかもしれない。
「貴女は古城に帰るのでしょう?」
モアの視線の鋭さを知ってか知らずか、どちらにせよ、キンシはただ自分の先入観だけをしっかりと言葉にしようとする。
ただそれだけのことであった。
「そう、だね」
魔法少女の言葉を受け取った。
モアはそれを聞き流そうとはしなかった。
「現状、あれが、あそこがあたしのおうち。My sweet homeだからね」
声音にあきらめのような気配が滲んでいるように見えるのは、ただの気のせいだったのだろうか。
メイがモアの表情を、カウンター席から見上げている。
「それじゃあ、愛しの我が家に帰ろうか」
魔法少女の言葉を自分の体の内に取り込みつつ、モアは黒色のワンピースのすそをヒラリとひるがえしている。
遮光カーテンのように厚い布が、闇夜を切り取ったかのように空間へ暗色を主張していた。
「今日はいい日だったよ」
モアは長袖に包まれた右腕を少し上に掲げている。
彼女の右手には、魔法使いたちの手によって捕らえられた人喰い怪物が存在していた。
「 あ あ あ 」
かすかに呼吸の気配が聞こえるのは、怪物の小さな口が生命の気配を主張している証でもあった。
緑色の針に、ハリセンボンのように刺されている。
怪物は小さい口、しかして歯の生えそろった口から空気を吐き出していた。
「素晴らしい検体も見つかったし、紅茶は美味しかったし」
そう言いながら、モアは視線をトゥーイの方に向けている。
古城の主である彼女が見ている先。
視線の先。
そこでは、トゥーイがようやく紅茶に口を着けている姿を確認することができていた。
「…………」
充分に冷ましたであろう。
というよりかは、冷ましすぎてすでにぬるま湯のような温度になっている。
飲料を、トゥーイは実に美味しそうに味わっていた。
まるで彼女の苦しみや悩みなどまるで興味がないと言った様子で、トゥーイは自らの欲求だけを満たし、潤しているだけであった。
「ああ、幸せだなあ」
「モアさん?」
ここまで来たところで、キンシの方でもようやくモアの異常に気付きはじめていた。
もとよりキンシにしてみれば、この古城の主である彼女の様子はいつでも、どんな時であろうとも特別なものでしかない。
魔法少女は依然として、モアそのものを何かしらの異常事態としてしか認識できないでいた。
「なにが、一体なにが? そんなに幸せなのですか?」
問いかけながら、キンシの指は食欲のおもむくままにカツパンの最後の一区切りを掴み取っている。
その自然な動作に、モアは微笑みの気配をさらに深めていた。
「そりゃあもちろん、新しい研究内容が増えたことだよ」
モアはそう言いながら、その体はすでに喫茶店の外側におもむこうとしていた。
「こうしちゃいられない。今すぐにでも帰らなきゃ」
自らの所在地を再確認した。
モアは右手に怪物を携えて、左手は黒色の喪服のようなワンピースのポケットの内部をまさぐっている。
ごそごそと、しばらくポケットの内部を探り終えた。
そのあとに。
「これ、お釣りはいらないから」
そう言いながら、モアは喫茶の料金を支払っていた。




