「あれえ、めずらしい、おきゃくさんだ」
クッキー、
「何故に、何ゆえに、小麦の焼ける香りが………?」
「そりゃあ、だってここはパン屋なんですもん。小麦粉の香りがするのは当たり前のことでしょう」
意味不明に全身を貫いているルーフに、無自覚な追い打ちをかけるが如くキンシは平常に事情を説明した。
「魔法で外見をごまかしてはいますが、ここは知る人ぞ知る灰笛の名店なんでございますよ」
さらりといかにも灰笛的な一般常識をキンシは少年にさらけ出したが、しかし彼の耳にはすでに魔法使いの言葉など届いていやしなかった。
驚きのあまり呼吸を忘れそうになって、しかしどうにか倒れないよう懸命に気合を入れ、ルーフはそろりそろりとそのベーカリーへと足を踏み入れる。
深い飴色の床が彼の体重を快く受け入れて木製の音色を低く奏でる。
丁寧に、継続性を持って清められていることが視認できるその頼りがいのある床は、ワックスが均等に塗り込められており天井から降り注ぐ人工の光をツヤツヤと反射している。
その光に誘われ彼は上を向く。
明度の強さに一瞬瞼を細め、瞳孔が刺激への対応を迅速に行う。
光に慣れてはっきりとしてきた視界に移ったのはこれまたいかにも瀟洒で、それでいて程よく嫌らしくない、いかにも趣味がよさそうなデザインの吊り下げ式照明が気持ちの良い、煌びやかで美しい明るさを空間に満たしている。
シャンデリアだったかシャンダラリだったか、どっちだっけ?
床と同じく清潔で埃の全く目立たない、自分にとっては珍しくて仕方がないそれを彼はぼんやりと口を開き気味にしてしばらく眺める。
「えーっと、ご主人はいずこでしょうかね?」
しばらく閉じれそうにないルーフの口の中がほんのり乾いてきたころ、キンシが一切のためらいもなくその建物の中を散策し始める。
「おーい、おーいー? てんちょー、ご在宅ですかー?」
乾燥によってピリピリと痛む咥内を舌で撫でつけながら、ルーフはキンシから流されてくる情報を少しでも多く掻き集めようとする。
「店長? シグレさーん。………あれ、返事がない……」
どうやらこの外見と中身のギャップがひどすぎるパン屋の主人は「シグレ」という名前らしい。
言葉の響き的には男性を連想させるが、しかし油断はできない。
ルーフは潤ってきた口の中で味のしない唾を飲み込む。
こんなみょうちきりんな店を持っている人間なのだから、魔法使い及びそれに関係していることは確定事項だとしても、かなりレベルの高い変人であることは易々と想定がつく。
「シグレさーん、お留守ですかー?」
キンシは早くも諦め気味になりながら店の階段を二段ほど上がる。
魔法使いはその建物を、その中身をパン屋だと主張したが、しかしルーフはどちらかといえばその場所に旅館っぽさを想起していた。
実際として入口から少し奥まった場所に茶トラ猫の背中みたいな色をした柔らかそうなパンが陳列されているし、そもそも少年は旅館に泊まった経験などない。
だが彼の中にあるそれとないイメージが、その店をベーカリーだと認めることを拒んでいた。
だって、
「あー駄目ですねこれ、たぶん海の上にさんぽに行ってちゃってます」
キンシが下りてくるあの階段、大の大人が五人くらい並列してもまだ余裕がありそうな、それほどに大きい階段があるパン屋など、いったいここ以外のどこにあるというのか?
キンシが深い色をしているフカフカのじゅうたんが敷き詰められている階段の、最後の一段をため息交じりに降りる。
「仕方ありませんね、こちらで勝手にいろいろ使わせてもらいましょう」
いうや否や持っていた荷物の紐を解き、上着のジッパーを下げようとする。
「は、え?」
魔法使いの下した決断の大胆さにルーフは戸惑う。
「いいのか? 勝手にそんなことして」
ジッパーの留め具が上手く外せず、ごそごそと手こずっているキンシが彼のほうをまともに見ることもせず気楽に答える。
「いいんですよ、シグレさんは体に負けないくらい心の広いお方ですから」
少年の気がかりなど真面目に取り合うこともせず、魔法使いは上着と格闘を続けていた。
しかし彼も引き下がろうとしない。
「そのシグレって言う……、このパン屋の主人とかいうやつはその、大丈夫なのか?」
やっとのことで上着を完全に開放したキンシは、内部に新鮮な空気を取り込みつつルーフの質問の意味を逆に問い返す。
「大丈夫、とは?」
「いや、だから………」
ルーフはこの言い知れぬ不安をどう言葉にしたものか悩みに悩み。
「魔法使いなんだろ、そいつ。信頼できんのか」
結局は相手に失礼がある形でしか、自分の意見を言うことができなかった。
ああしまった、また面倒くさいワードを使ってしまった。
ルーフは言葉の尻で後悔を味来に滑らせる。
だが、しかし彼の予測した反応は帰ってこなかった。
「うーん………?」
その代り、キンシは彼以上に形容しがたい感情と戦っているようだった。
「貴方がご心配している点、その辺については何ら問題はありません。ええ、そこだけは大丈夫です」
魔法使いから放たれる含みにルーフは怪訝さをより強固にする。
「そこだけは、ってどういうことだよ」
「そのままの意味ですよ仮面君。この店は魔法使いが経営しているわけではありませんし、本当に、本当に魔法使いなんかよりも……。いえ、普通の人間よりも信頼のおける方が信用の元管理している場所ですから」
とにもかくにもこの店は安全な場所であると、キンシがそう主張したいことなら理解できる。
しかしどうにも、その言葉には受け入れがたい怪しさがある。
「お前みたいなやつがそこまで言い切れる、そのシグレって野郎はいったい何者なんだよ?」
いったいどんな男、いや女か? どちらにしてもとてつもなくフィクション的な善人だと───。
ルーフはあれやこれやと予測した、
その答えは、
「3;5、・rode、6g7hxyq」
彼の後ろから、店の入り口から出現した。
怪物のようにむさぼる。




