時刻は海を指さしている
「お腹を空かせた怪物が、僕のことを食べてくれればいいのに」
独り言であることを意識しながら、キンシは願い事を雨の中に呟いていた。
「僕が美味しいといいのだけれど」
暇だ、とてもとても暇だ。キンシは仕事を軽く放棄して、ポケットから紙切れを取りだす。
オーギから手渡された、仕事内容の指示が書かれた紙。先輩の駆けるような筆跡が刻まれている。
キンシは脳内を侵略しつつあった知的思考を振り払うつもりで、先輩にあたる青年が本日行おうとしている同行へ思いを巡らせた。
オーギさん大丈夫かな、へまをしないといいのだけれど。
閑暇は干渉のしようが無い物事にまで、思惟を誘惑する力がある。
「先生」
いよいよ不気味な一人笑までし始めたキンシに、トゥーイが報告をしてくる。
「終わりました私は、こう考えられます、指定された記述に沿った結果により、本日はこのまま何の事象も起きないと」
「んん? ああ、うん」
ひとり言を邪魔されたキンシは、少しまごついてトゥーイに笑いかける。
「僕の方もしっかり監視をした結果、特に何もないし起きそうにもなかったよ」
キンシは微妙に虚偽が混ざった報告をトゥーイに伝える。
「…………」
トゥーイは無音で、じっくりと瞬きをしながらキンシを見下ろしている。
「な、なんだいトゥーさん」
意味深に自分を観察してくる青年に、キンシは変な汗が噴き出てくるのを感じた。
「先生」青年は短く意見を物申す。「あなたはしましたか?業務を真摯に態度で」
「いやいやいや、トゥーイさん、何を馬鹿なことを」
脳内で歴史の授業を繰り広げてました、と言うわけにはいかないキンシはあからさまに狼狽する。
「僕が過去に一度でも、仕事を怠けたことがありましたか」
動転のあまり、あられもない供述までしてしまう。
この若者は身内からの追及に弱かった。
トゥーイはしばし無言で、しかし確実な圧をかけつつ若い頭頂部を見つめ続けた。
「承知しました」
しかし結局折れたのはトゥーイの方だった。町中で長々と説教するのは合理的ではない、とでも判断したのだろう。
「私から申し上げる意見があります、ところにより先生」
「なにかな」
さらなる尋問に構えていたキンシが身を固くする。
「先生、そろそろ食事を行いましょう」
「へえ?」
なのでトゥーイから申し出された提案に、つい調子の外れた声が出てしまった。
青年は構わず若者に自己の案を主張する。
「もはや問題はありません、しかしもう一つ問題があります、あなたが如何にして浮薄に業務を執り行っていたとして、空腹を覚えませんか?時刻は昼を指しはじめている」
腰にぶら下げていた時計をキンシに示してくる。
確かに短い針が、文字盤の頂点へと差し掛かろうとしているのが見えた。
昼ごろ、ランチタイムである。
「あーなるほど、もうそんな時間ですか」
自分が認知できない速さで通り過ぎ去った時間に、キンシは軽く驚いていた。
「では、あとは空でも飛んで周りを簡単に観察してみます?」
キンシはトゥーイに提案をする。
「さあ、僕につかまって」
「はい」
トゥーイは短く、しかし確かな肉声で答えていた。
彼にはそれだけの言葉しか使えないのであった。
灰笛では正午にあたる時刻のことを「時計の針先が海を見る」と言い表すそうな。
「人喰い怪物の形状について」
怪物は基本的に魚、魚類に近い形状を持つ。
メダカや金魚のような超小型の怪物は、地下鉄などの天井当たりによくふわふわと漂っていることがある。
基本的に、基本的には無害であるが、下手に手を出すと指先の皮を噛み千切られる、かもしれない。




