ザットスペシャルサムワン
僕はこのクラスが嫌いだ。ここでは僕だけが孤立している。なぜか? 簡単だ。僕以外のすべてのクラスメイトは、何かしら特別な何かを持っている。そして、僕は持っていない。
例を挙げよう。一学期、僕の隣に座っていた男子生徒は、目立たない外見なのに、実は某国の特殊工作員だった。そいつの前の席に座っている、超能力者の女生徒を守るために派遣されてきたらしい。その女生徒の右隣には、宇宙人の女が座っている。そいつの前には、未来からやってきた時間工作員。窓際の列は悪魔か天使か化け物か、とにかくそれに属する連中で固められている。
いちいち説明するのが面倒になってきた。たぶん、わかってはもらえたと思うが、ここはそういうクラスなのだ。僕以外のクラスメイトはみんな、特別な能力や出自を持っている。
だけど、僕は、なんでもなかった。これほどまでに異常なクラスにおいて、僕はただ一人、平凡な存在であり続けた。人を殺したこともない。お嬢様と宇宙人と暗殺者の女の子に言い寄られたこともない。あるいは、世界の崩壊をとどめ置くための要石でもない。ただ一人、僕は、びっくりするくらい、普通の存在だったのだ。
僕が登校する間、クラスメイトの誰かは、世界の存亡をかけて戦っていた。僕がトイレで用を足している間、クラスメイトの誰かが、地獄と現世をつなぐ門を開けていた。僕が家に帰って風呂に入っている間、クラスメイトの誰かが、同じくクラスメイトの女の子の裸を目撃していた。
それらはすべて起こったことだ。そして、僕の身には何も起こらなかったのだ。誰かが悪魔と契約したその日、僕は漫画を読んでいただろう。誰かが巨大人型兵器に乗ったその日、僕はパソコンでエロサイトを見ていたに違いない。
このクラスにおいて、僕は背景に描かれたキャラクターの一人でしかなかった。クラスの隅で突っ伏して、寝ているふりをしている生徒……いや、それすら違うだろう。突っ伏して寝ている生徒は、僕のクラスにもいるからだ。確かそいつは、有名な探偵だったと思う。
そもそも、僕はこのクラスの背景にすらいないのかもしれない。昼休みになると、ほかのクラスの友達のところにご飯を食べに行くし、部活には所属してないから、放課後はさっさと帰る。僕が存在するのは授業中ぐらいで、そのときは背景として描かれているかもしれない。
僕がこのクラスをうらやましがっていると思う人は、いるだろう。確かに、僕は彼らがうらやましい。同じクラスで笑い、泣き、恋愛している彼らがうらやましい。だから、最初は、彼らと一緒になろうとした。彼らと同じ価値観を共有し、自分もこのクラスの一部となろうとした。
しかし、それはうまくいかなかった。みんな、世界の危機と戦うのに忙しい。恋愛に忙しい。部活に忙しい。僕とは二言三言、言葉は交わす。でも、それ以上には発展しない。まるで僕は、同じ台詞しかしゃべらないゲームのNPCみたいな存在だった。どこでフラグを立てるのを忘れたか知らないが、僕はずっと、クラスメイトと同じ価値観は持てなかった。
だから、僕は、始業式に行くのが嫌だった。夏休みは昨日で終わった。宿題と、漫画と、ゲームと、エロサイトでつぶれた夏休みは終わった。それ以外の何一つ起こらなかった。友達とカラオケには行った。ゲームセンターにも行った。だが、それだけだった。何一つ特別でない、ごく普通の夏休み、僕の高校最後の夏休みは、あっという間に終わってしまった。
それでも、僕は始業式に行った。受験生だからでもある。普通に授業があるから、行かないと進度が遅れてしまう。もっとも、このクラスで進度が遅れることに、どれほど意味があるかはわからない。僕が大学に落ちようと、一流大学に受かろうと、たいした意味は無いだろうし。
始業式は普通に始まり、普通に終わった。クラスメイトは全員そろわなかった。たぶんまだ、夏を終えられていないやつがいるんだろう。UFOでも探しているんだろうか。
それから、僕は教室に戻った。クラスメイトの、比較的普通なやつも一緒だ。比較的というのはつまり、人外で世界規模の厄災と戦っていたりはしない、という意味だ。僕は席に着いた。休み時間、することはない。ヒマだから、僕は座って、次の授業の予習をしていた。
「聞いた? 夏休みがなんか、十回ぐらいループしてた人がいるんだってさ」
「うちのクラス?」
「そう。相変わらずよね、うちはさ」
「全然気づかなかった」
「記憶とか残らなかったらしいし、しょうがないんじゃない?」
クラスの女子の話し声が聞こえてくる。どうやら、僕の知らないうちに、僕のクラスは夏休みを何度も繰り返していたらしい。記憶が無いなら仕方ない。こういうことは何度もあった。僕の知らないところで世界は危機に瀕し、何度となく救われているのだ。
「ループしてたってことは、あたしらの臨海学校も何度もやってたってこと?」
「たぶんねー。あんたも何度となく、お風呂を覗かれてたってわけだ」
「やめてよー」
この辺りは普通の会話かもしれない。ただ、話している女子は確か、世界で五本の指に入る金持ちと、大学を飛び級で卒業している天才少女だから、変と言えば変だ。何で大学を出てるのに高校に来てるのかは、僕は知らない。天才だからだろう。
この辺の会話は、結構応える。神だの悪魔だのの話ははっきり言って関係ないと言ってしまえばそれまでだが、臨海学校とか合宿とかは、身近な話題の一つだ。たぶん、クラスで友達のいない人間が、夏休み明けに感じる嫌な気持ちと同じだろう。
混ざろうと思えば、混ざれたはずなのかもしれない。このクラスに入ってしばらくして、僕はその辺の連中と友達になろうとした。比較的人間に近く、世界の命運とかを背負わない「特別な」クラスメイトと。もちろん、それはうまくいかなかった。
なぜなのかは、よくわからない。まるで、彼らには最初から、誰と友達になるかという運命が、決まっていたような感じだった。挨拶ぐらいはする。けれども、それ以上は踏み込めない。そんなところだった。
クラスに一人、僕に近い男の子はいる。何をやらせてもできる方ではなく、立ち位置としては僕と同じくらいのはずだ。だけども、彼はとにかく女にもてる。このクラスの中だけで、すでに四人は確保していたはずだ。毎日四食の弁当を食べるのはしんどい、と以前漏らしていた。
そんな彼でも、僕と友達にはならなかった。彼の友達は別にいる。将来はスパイになると豪語してやまない、非常識なことばかりやる男子生徒だ。彼はとてつもなく有能で、本当にスパイ組織からスカウトが来ているという話も聞く。そんな彼と、例の女にもてる彼は、よくつるんで遊んでいた。もちろん、そこに僕はいない。
エイリアンだとか、神だとか、悪魔だとかと、僕が相容れないのはわかる。僕は普通だからだ。食べて寝てクソをするぐらいしか能の無い普通の人間だから、超常的存在にとっては何の価値もないだろう。だけど、平凡そうに見える彼とすら、僕は挨拶を交わすぐらいの間柄にしかなれなかった。
おまえが友達を作れないだけの人間だと思うかもしれない。でも、僕は普通に友達を持っている。クラスの外にだけれども。彼らはいいやつだ。つまらない僕とも笑ってつきあってくれるし、当たり前のことを当たり前に話す。
じゃあ、そいつらを頼ればいいのだろうか? 僕は、そうは思わなかった。クラスメイトとは、少なくとも一年間、ずっと一緒に過ごす。修学旅行もそう。補習もそう。それなのに、話し相手もいないで満足できるのだろうか? 僕はできなかった。だから、始業式に来るのが嫌だった。
一学期は、あまりにもつらすぎた。僕は何も考えず、ただクラスに溶け込もうと、努力を重ねた。それが無意味なものだと悟ったのは、夏休みが目前になってからだった。そう、四月、五月、六月と過ごして、僕はやっと、ここの異常性に気づいたのだ。
四月は、学校が魔境になっていたらしい。僕はその日、休みだったから知らないけど、校内に化け物があふれ出てえらいことになっていたとか。オカルト好きの女の子がやらかしたことで、対処するのはとても手間だったらしい。
五月は、修学旅行の飛行機がテロリストにハイジャックされた。僕は体調を崩して別便で行くはめになったから、巻き込まれるのは免れたけど。結局、どこかの国の特殊部隊が介入して解決したとか。
六月は……どうだったか。休み時間中に、クラスがエイリアンの宇宙船に拉致されたとか聞いた。僕はトイレに立っていて、それが起こったかどうかはわからなかった。戻ってみるとクラス中がこの話題で持ちきりだっただけだ。
七月。この月だけで、転校生が十人ぐらいやってきた。例外なく暗殺者だったらしくて、僕のクラスの何人かが、トラブルに巻き込まれたらしい。そんな騒ぎがあったなんて、もちろん僕は知らなかった。転校生はいつの間にかいなくなっていたし。
このいずれにも、僕は参加できなかった。偶然か必然かは知らない。ただ、こういうイベントに参加できていれば、クラスメイトとの絆は深まったかもしれない。
チャイムが鳴っている。休み時間が終わる。クラスメイトたちが、ぞろぞろとどこかから戻ってきた。泣き顔の女の子もいる。たぶん、誰かがひどいことを言ったんだろう。先生も入ってきた。
授業が始まる。授業中は心地よかった。受験生として、集中していればいいのだから。ひたすら数式や公式、構文をノートにとり、頭にたたき込めば、僕の仕事は終わりだった。そしてそれが終わった後、僕は当たり前のように、無力感と孤独感にむしばまれた。
二学期は、あっという間に過ぎた。何もなかったからだ。もちろん、僕の身に限っての話だが。そう。僕はずっと、受験勉強をしていた。孤独を紛らわすかのように参考書を読み、じっと問題ばかり解いていた。
九月はクラスメイト全員が消えていた。一ヶ月間、僕は自習だった。後から聞いた話だと、みんな未来世界に転移していたらしい。得体の知れない化け物と戦って、戻ってきたときのみんなは、ずいぶん野生化していたように思う。
十月は、みんなで映画を撮っていた。文化祭で上映する、クラス制作の映画だ。先生を説得して、授業をつぶしてまで撮影をやっていたけど、僕は特に絡まなかった。クラスの金持ち連中と非常識連中が無茶を言って、どこかの撮影所を借り切って作ったからだ。僕はキャストが帰ってくるまでの間、教室で荷物番をする係だった。もちろん、映画は大成功だった。
十一月は、部活動をやっているクラスメイトが、全国大会で優勝したらしい。僕はそれを、朝礼の時の表彰で知った。クラスメイトの何人かは応援に行っていたらしいが、僕にはその話すら回ってこなかった。
そして、十二月。僕は今、金持ちお嬢様のパーティに招かれている。大規模なクリスマスパーティをやらかすとか何かで、クラスメイト全員に招待状が送られてきたのだった。幸か不幸か、僕にも招待状は届いた。僕は悩み、制服を着て、パーティに出かけていた。
僕は確かに、パーティで見たこともない料理を食べた。すばらしい音楽を聴いた。もちろん、一人で。僕に絡むクラスメイトは一人もいなかった。クラスメイト以外の参加者は、どこかで見たような要人ばかりで、僕はとても彼らとは話せなかった。
パーティでも、僕はひとりぼっちだった。背景の一人だった。高校生だからと、僕はグラスにつがれたリンゴジュースを飲んだ。おいしかった。けど、僕の後ろでは、超能力者の女の子が、工作員と楽しそうに話している。僕はそれを聞いているだけだった。
時折がんばって、誰かに話しかけようともした。実際、話しかけもした。でも、世間話にも満たないようなわずかな会話で、すべては終わった。僕は取り残され、話しかけたクラスメイトは、ほかの誰かと楽しそうに話し出すのだった。僕がそこにはいないかのように。
いたたまれなくなって、僕は外に出た。そこでは、目つきの悪い不良と、部活一直線の女の子がキスをしていた。僕は二人のすぐそばに立っているのに、二人は僕の姿すら見えていないようだった。
僕はたらふく食べ、たらふく飲んだ。そして、お嬢様の終わりの挨拶を聞かずに、パーティ会場を後にした。僕には耐えられなかった。どうしようもなかったのだ。僕は招かれ、確かにクラスの一員として会場にはいたけれど、それだけだったのだ。僕はあそこにいただけで、それ以上の何かをする存在ではなかった。
いきなりキレて、料理の乗った机を蹴っ飛ばして、すべてを台無しにするとかすれば良かったのかもしれない。でも、僕にはできなかった。何が起こるか、わかったものじゃないし、そういうやり方で、僕はクラスの一部になりたかったわけじゃない。僕はあくまで、クラスの一人として、クラスメイトと話したかった。普通の、友達の一人として、やっていきたかっただけなのだ。
帰り道は寒かった。雪も降らなかった。雨も降らなかった。空は満天の星空でも何でもなく、ただ暗澹と曇っていた。それだけだ。僕のクリスマスパーティは、それだけだった。僕はうまい料理をたくさん食べて、飲んで、そして帰った。それ以上の何かは起こりえなかった。
その後、冬休みになった。休み中、クラスメイトの何人かは温泉宿に行ったらしい。後から聞いた話だと、そこではエッチなイベントが目白押しだったとか。もちろん僕は行かなかった。そこでカップルができたという話も聞いたが、僕は気にしなかった。
一月は楽だった。センター試験という大きな障壁があったからだ。僕は日夜勉強し、何も考えないようにした。模試の結果は良かった。本番も良かった。先生にも、よく頑張ったとほめられたし、友達からもうらやましがられた。クラスメイトが初詣に行って、そこの神様ととんでもない賭をした話は、聞かなかったことにした。
二月も楽だった。僕は受験で忙しくて、あまり学校にはいなかったからだ。クラスのみんなはというと、受験の合間を縫って、スキーに行っていたらしい。そこで女同士の殴り合いがあったとか、誰かと誰かが駆け落ちしたとか聞いたが、僕にとっては正直、どうでもいいことだった。
そう、この頃には、僕はもう、どうでも良くなっていたのだ。クラスのことなんかどうでもいいし、自分は受験だけを考えていればいい。そんな風に考えていたのだ。
先生からそう言われた。親からもそう言われた。友達からもそう言われたし、予備校の講師にだってそう言われた。だから僕はそうした。受験のことだけを考えて、僕は勉強ばかりしていたのだ。当然、それは、逃避の一種だった。
どれだけ溶け込もうとしても溶け込めず、僕はずっとおいて行かれていた。世界の存亡の危機にも、僕は何もできなかった。凡人だから当然だ。だけど、がんばれよ、の一言ぐらいは、かけられたかもしれない。熱い視線を送ることだってできたかもしれない。
恋愛模様のただ中に突っ込んで、女の子にちょっかいをかけたりも、できたかもしれない。いや、実際、やろうとした。わかりやすいおしゃれをして、例の平凡だけどモテる彼に言い寄る女の子に、モーションをかけてみたりした。でも、それっきりだった。女の子の反応は素っ気なかった。町中のティッシュ配りを断るかのように、僕は断られた。
もちろん、悔しかった。一学期は何が何だかわからず、ただただトライアンドエラーだった。夏休みという長いクールダウン期間を経て、僕は自分がいけないのだと思った。だから、アプローチのやり方を変えてみようと思ったのだ。自分を変えれば、世界も変わる。そう思って、僕はクラスメイトを観察し、理解しようとした。彼らが何を好み、何に気を許すかを考えた。
そうすれば、すべてうまくいくはずだったのだ。二学期は何とかなると思っていた。始業式は嫌で仕方なかったけど、自分が変われば、きっとみんな僕と心を通わせられると思っていたのだ。
だが、そうはならなかった。努力が報われないとわかると、どうなるだろう? 僕は悔しがった。なぜこうも皆は僕をいないものとして扱うのか、理解しかねた。嫌で嫌で仕方が無くなって、とうとう僕は、このクラスに溶け込むことをやめた。そして、僕は、逃げ出したのだ。すべてから。勉強という、誰も文句のつけようのない目的に、僕はすべてを捧げたのだ。
だから、僕は、あっけないほど簡単に、志望大学に合格した。当たり前のように合格通知が届いた。僕は泣きも笑いもしなかった。それは最初からわかっていたことで、至極、どうでもいいことだったのだ。
三月、卒業式の季節だった。僕はいつも通り、登校して、席に座った。クラスメイトの数は減った。駆け落ちしたり、拉致されたり、拉致されたやつを取り返しに行ったり、個人的な復讐をやったせいで捕まったり、異次元に放り出されたり、そいつを助けるために次元の研究を始めたり、世界の危機を救って現実世界に戻ってこれなくなったり……ああ、もう、いいじゃないか。
そういうことなのだ。クラスメイトはみんな、背負った使命を果たし、そのための代償を支払った。あるいは、今も使命を果たしている最中か、もしくは代償を支払っている最中なのかもしれない。卒業式当日になれば、拉致されたやつとか異次元に放り出されたやつは戻ってくるかもしれない。そうやって戻ってきて、みんなただいま、なんて笑って、みんなから拍手で迎えられるのだ。
もちろん、僕も拍手する。良かったね、って拍手する。そりゃ、そうだ。僕はこのクラスの一員なんだから。誰からも相手にされなくたって、僕はこのクラスで一年過ごしたのだ。きっと、僕の拍手には誰も気づかないだろう。それでもかまわない、と僕は思ってしまった。受験を終えて、すべてがどうでも良くなった瞬間、僕はやっぱり、このクラスの一員として終わりたいと思ってしまったのだから。
だから、最後に、もう一度がんばろうと思った。卒業式が終わったら、僕はみんなと話す。それで、僕は確かにここに存在したのだと、皆に言う。そうやって、僕の高校生活を終えようと思った。
卒業式までは、僕はいろいろなことを考えていた。何を言うか、どう言うか、いろいろ考えた。卒業式の最中だってずっと考えていた。クラス全員に卒業証書が行き渡ったそのときすら、僕は考えていたみたいだった。
「今日でこのクラスも終わりです。ここはとても個性的な場所だったけど……先生は、ここの担任になれて、とてもうれしかったと思います。それだけに……全員がそろっていないのは、残念です……」
先生は泣いていた。先生は先生として、このクラスの一員だった。先生はクラスメイトたちから平等に接され、僕より遙かに多くの会話を交わしていた。僕はうらやましいと思ったけども、先生と生徒では立場が違う。先生をうらやんでも、何の意味も無い。そう思って、僕はずっと黙っていた。
隣に座っている、部活一直線の女が、鼻をすすっている。泣いているクラスメイトが何人かいた。みんな、このクラスが好きだったのだ。不完全な状態で卒業することを、皆快く思っていないのだ。
クラス全体が悲しみに包まれようとしていたそのとき、教室の扉が開いた。皆が一斉に視線を向ける。そこにいたのは、拉致されていた女と、それを取り返しに行っていた男だった。
「先生、まだ全員そろわないと決まったわけじゃないですよ!」
その言葉を皮切りに、行方不明だった連中が、続々と教室に入ってきた。一人戻ってくるたびに、歓声が上がる。完璧といってもいいくらいの光景だった。みんなの顔にどんどん笑顔が戻っていく。僕も危うく、泣きそうになっていた。
「……そうですね! もう一度、卒業証書を渡しましょう! 卒業は、みんな一緒にしますからね!」
先生は、そう言って、もう一度卒業証書の授与を始めた。一人一人、名前が呼ばれ、教卓の前に出て行く。僕の名前も、ちゃんと呼ばれた。みんな、ちゃんと拍手してくれた。僕は照れ笑いを浮かべながら、自分の席に戻った。
授与の時間はあっという間だった。先生は最後の方など、涙でろくに読めていなかった。それでも、みんなの手に卒業証書が行き渡った。クラスメイトたちは、皆、満足そうに笑っている。
「……以上を持って、このクラスは解散です。皆さん、本当に……ありがとう!」
先生は、そう言って、笑った。泣き顔で、精一杯笑っていた。あの人は本当にここが好きだったんだろうな、と僕は思った。
それからすぐ、クラスは歓声に包まれた。皆が卒業を祝い、それぞれの場所へ向かっていくことをたたえ合った。先生はもみくちゃにされていた。僕は相変わらず、誰からも相手にされなかったけど。でも、今日は卑屈にはならなかった。僕は教卓の前に出て行く。ゆっくりと、少しずつ、でも力強く。
そして、僕は教卓の上に立った。そうとも、目立つためだ。みんなに僕の顔をよく見えるようにして、これまでありがとうと、一言言うためだ。
僕は立った。クラスがよく見渡せる。みんな笑っている。僕のことなどいないように。でも、僕は今日、ここで、僕がここに存在していたと知らしめる。腹に力をため、息を大きく吸い込み、僕は、叫んだ。
「みんな、聞いてくれ!」
大声を上げた。僕は、クラス全体に聞こえるように、叫んだ。そして、皆が僕を見るのを待った。一瞬、あれば十分だと思っていた。
でも、そうはならなかった。
僕は、クラスを見ていた。皆が笑い、たたえ合う姿を見ていた。誰も、僕を見ようとはしなかった。みんな、自分と友達で笑い合うのに熱心で、僕なんかいないかのように振る舞っていた。
「みんな! お願いだ、聞いてくれ!」
より強く、叫んだ。みんな、笑うばかりだ。僕を見ようともしない。
そうか、叫び方が足りないのか。僕は全力で息を吸った。こんな仕打ちに負けていられない。僕は今日、ここで、僕の存在を証明しなくてはならない。このクラスで僕がどのように生きて、どう消えていくかを、証明しなくてはならない。そう思って、必死で僕は、息を吸った。
しかし、そこから先が、出なかった。全力の大声は、僕ののどからは出てこなかった。僕は息を吸い、叫んだその瞬間、悟っていたのだ。その声を思いとどまらせるだけの、十分な事実を。
僕の居場所は、このクラスにはなかった。この、異常が普通なクラスには、僕のような人間の居場所はなかった。一年間、通してわかった。どれだけ溶け込もうとしても、僕のような普通の人間は、ここに入ることはできなかった。そう、僕はここに、いるべきではなかったのだ。この、異常が通常のクラスに、普通の人間が入り込む隙間はない。水と油は、混ざらないのだ。
僕は普通だった。笑えるくらい普通だった。変身能力もない。実は魔族の血を引く存在でもない。特殊な戦闘術を使うわけでもなければ、天才でもなかった。僕はただ普通で、そこにいることだけしかできない存在だった。
だから、僕は、ここにはいられなかった。僕がどれだけ望もうとも、僕という存在そのものが、僕がこれまで歩んできた人生のすべてが、僕をここに溶け込ませることを拒否していた。僕は普通だ。特別ではない。それが、すべての答えだった。
僕は泣いた。当たり前のように、泣いた。もうどうしようもなかった。すべてはそういうことだったのだ。普通の人間はここにいてはいけない。それだけの事実が僕を泣かせていた。どれだけ僕は、ここに溶け込もうとがんばったのだろう。どれだけの噂話を聞き、身をもだえさせたのだろう。
気が遠くなるようだった。僕がやってきたことはすべて、無駄だったのだ。
僕は泣いた。声を上げて泣いた。教卓の上で、泣きじゃくった。鼻水が垂れ、教卓にいくつものシミを作った。
でも、誰も気づかなかった。僕はいなかった。僕はこんなにも泣いているのに、僕はそこにはいなかったのだ。僕は泣いた。不運を呪った。己の普通さに怒った。そして、怒って呪って、最後に、僕は、憎んでいた。クラスメイトを、憎んでいた。
僕は、努力していた。普通じゃなくなろうとがんばっていた。溶け込もうとしていた。しかし、クラスメイトはみんな、僕を拒否した。いや、拒否すらしなかったろう。何の反応もしなかった。ただ、それだけなのだ。
僕をいないものとしたクラスが、憎かった。僕のせいじゃなかったのだ。本当に、本当にそうだとしか思えなかった。僕に何の落ち度があった? 僕は何か悪いことをしただろうか? 生まれの不幸が罪だったか? 何一つやっちゃいなかったのに、僕は、クラスに溶け込むことすらできなかった。
だから、憎んだ。僕はクラスを憎んだ。嫌いにこそなれど、憎んだことはなかった。そうするしかなかったかのように、僕は憎しみに身を任せ、涙を流した。この場で誰かに殴りかかって、すべてを台無しにしてやろうかとすら、思った。
だけど、それだけだった。僕は、思うだけだった。僕には、できなかったのだ。ここのすべてを否定し、クラスメイトの大事な瞬間を壊すことなど、僕には、とても、できなかったのだ。
僕は、教卓を降りた。誰にも気づかれないように、降りた。もちろん、誰も気づかなかった。そして、僕は、クラスメイトの合間を縫って、席に戻り、荷物をまとめた。涙で視界が曇った。鼻水で呼吸が苦しい。でも、僕は荷物をまとめた。そして、立ち上がった。
いない人間なら、いない人間らしく、影響を与えないように出て行こう。そう思ったのだ。そうするしか手がなかった。僕はこのクラスが好きだった。憎み、嫌ってもなお、好きだった。ここに溶け込みたいと思っていた。だから、そんな場所を壊すなんて、できなかったのだ。
教室の一番後ろを通った。何もなかった。笑い声のほかに、泣き声も聞こえていた。感動しているんだろう。僕は、卒業の喜びを背中一杯に受けながら、教室の扉を、くぐろうとした。
「待って」
僕は振り向いた。涙と鼻水で汚れた顔で、振り向いた。そこには、世界を見通す力を持つという女の子が、立っていた。
「……君、自分がこのクラスの一員じゃない、と思ってたでしょ? 違うよ。君はね、特別なんだよ。このクラスの誰よりも、君は特別で尊い存在なんだよ」
女の子は、笑っていた。ほほえんでいた。僕の存在を最初から知って、ずっと見ていたみたいに、ほほえんでいた。
「私、知ってるよ。君は、こんなにも異常なクラスの中でさ、ただ一人、普通であり続けたじゃない。それって、とってもすごいことだよ? 泣くことなんて無い。君は、特別。立派に、このクラスの一員なんだよ」
女の子がそういった瞬間、クラスメイトたちの視線が、僕に向いた。さっきまでいなかったはずの僕が、たった今、ここに存在したのだ。
「おいおい、そんなに泣くなよ! 一人で先に帰って、どうするつもりだったんだよ!」
「これから二次会とか行こうと思ってたんだけど、来てよ!」
「まだ俺たちの物語は終わっていないんだぜ!」
皆、口々に、僕を引き留めようとしている。さっきまでいなかったはずの僕に、惜しみなく言葉を投げかけている。僕は、たった今、特別になったらしい。そう、卒業式が終わったこの瞬間に、僕は、特別に、なったらしい。
「……だから、なんだってんだ?」
今、話しかけられていることは、うれしかった。そうとも。僕がずっと望んでいたことが、卒業式のその日に起こったのだから、うれしくないはずがない。自分が特別だと思い知らされて、それで喜ばないはずがない。
「……あまりにも、遅すぎるだろ?」
そう、遅すぎる。すべては、遅すぎる。僕が望んでいたのは、これじゃなかった。僕はもっと、早く、このクラスに溶け込みたかった。いや、違う。そうじゃない。僕は、「普通」であることが「特別」だなんて、言ってほしくなかった。
「……僕はね、みんなと一緒に、この一年を、やりたかったんだよ」
そうだ。僕は、そうしたかった。「普通」である「特別」なんか、いらなかった。この異常が通常なクラスの中で、僕は通常でありたかったのだ。それだけが、僕の望みだった。それを勝ち取るために、僕は一年、必死でやってきたというのに。
「だってのに、さ。今更になって、君たちはさ、僕が「特別」だった、って?」
侮辱にしか思えなかった。笑い出してしまいそうだった。高校生活最後の日に、努力が報われて、それでハッピーエンドだって? そうは思わない。僕は一年、ずっと苦しんだ。必死になって戦い、苦しんでいた。それを、この、たった一日にも満たない時間で、チャラにしろって言うのか?
「……傲慢すぎる。そんなのは」
みんな、黙っていた。僕が、もっと、わかりやすく、喜ぶと思っていたんだろうか? 喜んではいる。うれしくもある。だけど、それには、あまりにも遅すぎた。ただ、それだけなのだ。
「……なるほど、わからないか。なら、いいよ。僕も、今から「特別」になろう」
このとき、僕は、本気でクラスメイトを憎んだ。僕の一年を、無かったことにしようとした彼らを、本気で、憎んだ。終わりよければすべてよし、なんて幻想だ。僕がこれまで積み重ねてきた毎日は、どれもかけがえのない毎日だった。それらをすべてないがしろにした上で、今日で満足しろなんて、嫌だった。ぶちこわしたかった。彼らの一年のすべてを、今日で台無しに、しようと思った。
だから、僕は、鞄からカッターナイフを取り出した。いつも筆箱に入れていた。これを知っていたクラスメイトが、何人いるだろう。
「こうやって、さ」
僕はカッターの刃を引き出した。みんな、僕を見ている。僕を止めようともしない。僕が何をするかわかっているはずなのに、みんな、僕がそこにいないかのように、じっとしている。息をのんでいるとでも言うのだろう。もっとも、僕にとっては……、空虚な一年を過ごしてきた僕にとっては……、そうとしか思えない。
僕は、カッターを自分の左手首に突き立てた。僕は絶叫した。手首の神経がずたずたになり、強烈な痛みの信号が、僕の脳みそになだれ込んでくる。
血が流れた。吹き出した。笑えるくらいあふれていた。僕の手首が真っ赤になり、床にぼたぼたと血が落ちていく。
それでも、僕は、やめなかった。一回、二回、三回、四回、僕は、カッターで、左手首を突いた。切った。刻んだ。己の血ですべてが洗い流されるかのように、やった。
痛みで頭がどうにかなりそうだった。いや、どうにかなっていただろう。僕は叫びっぱなしだったし、目から涙があふれていた。変な汗が体中から噴き出して、平衡感覚を保つのですら一苦労だった。
だけど、僕は、やめなかった。五回、六回、七回、八回、カッターの刃を突き立てたところで、ようやく、工作員の男が、僕の腕をつかんだ。すごい力だった。おなじ年代とは思えない力で、僕は凶行をやめさせられた。
血で染まったカッターが床に落ちた。床には血だまりができていた。僕のシャツにも、目の前の女の子にも、血が飛んでいた。左手首が、だらしなく垂れ下がっていた。どこまで刻んでしまったのか、見た目ではわからない。
「……なんで、止めたんだい?」
「決まってる。君は……俺たちのクラスメイトだからだ」
クラスメイトは、善人だった。あまりにも善人で、あまりにも特別だった。僕の凶行では、彼らの一年を台無しにすることなど、できなかったのだ。
卒業式の日、クラスで目立たなかった男が、手首を切り落とそうとした。クラスメイトの脳裏に刻まれるのは、それだけだ。それが起こったからと言って、彼らの一年が台無しになるわけではない。
僕の一年が、今日一日で救われなかったのと同じように、彼らの一年も、今日一日で価値を失うことなど無かったのだ。
クラスメイトはみんな、僕に同情するだろう。そして、どうして僕の気持ちをわかってやれなかったか、悔やむだろう。僕に慰めの言葉をかけ、二次会に連れて行ってくれる。ひょっとしたら、傷を治してくれるかもしれない。化け物連中なら、赤子の手をひねるより簡単にやるに違いない。
でも、それだけだ。僕の一年は、それで返ってはこない。僕が望んだ一年は、無い。これから、僕は、彼らの記憶に刻まれ、時々、同窓会とかに呼ばれるかもしれない。だけど、それは、すべて、物語が終わった後の、出来事でしかない。
僕は、このクラスの一員でありたかった。このクラスに生きる一人の存在として、この一年を過ごしたかった。この一年が、僕たちの物語であるはずだったのだ。
だけど、そうはならなかった。僕は一年、ひたすらに苦しみ、ひたすら悩んだ。それを含めて、この物語だ、というのは、簡単だろう。……それでいったい、誰が満足すると言うのだ? いや、満足するに違いない。クラスメイトはそう言うだろう。
でも、僕は満足しない。僕の望んだものはどこにもなかった。卒業式の日ですら、何一つ無かった。それが、僕の一年の、すべてだった。
もう、いいのかもしれない。すべて、終わったことなのだから。苦々しい青春の一ページとして、笑い飛ばしてしまえば、何の問題も無いのかもしれない。
だけど、あの一年、僕の周りは、全く持って「特別」だったのだ。誰もが興奮し、驚く物語の一端に、僕は参加できたかもしれなかった。そういうチャンスが山ほどあって、僕はそれをつかもうと必死でがんばっていた。
そして、つかみ損ねた。後に残ったのは、絶望的な徒労感と、哀れみでもらった「特別」の証明だけ。それっきりで、僕の一年は終わってしまった。
黄金を目の前にして、それを手に入れられなければ、誰だって悔しがる。ましてそれが、毎日毎日起こっていれば、こうもなるとは、思わないだろうか。
思わない、という人もいるだろう。仕方ない。あんな環境、体験したやつなんて、僕以外にはほとんどいないだろうから。だけど、僕は、はっきり言える。僕は……
僕は……あのクラスが、嫌いだった。