第七話 二度目の夕焼け
「ど、どういうことですか?」
僕は美女の言葉を反芻する。何度思い出しても帰れないと言われたのに間違いなかった。
「……あなたは事故の時に二人を庇ったの。だから一番怪我をしていて体と魂の繋がりが弱くなっていて……多分、帰れない」
僕が、二人を庇った?
事故って一体何のことだ?
「思い出しなさい。あなたは異世界に行く前、事故に巻き込まれた」
美女の言葉が頭の中に響いて徐々に映像が浮かび上がっていく。
そうだ、僕はあの時妹が入院する病院に向かおうとしていた。
だけどやっぱり行けなくて、その帰り道。
僕に迫りくる車。僕の前を歩くあの二人。そして――
「猫の鳴き声」
「え?」
「僕には猫の鳴き声が聞こえたんです。あれはあなたですか?」
「……私の声だわ」
「あの声で我に返って、僕は二人を庇ったんです」
「そうだったの」
美女は顔を俯いていた。
「……僕を、帰してはもらえませんか?」
「私の話聞いてた?帰れないって」
「いや正直に言うと、あんだけ二人に向き合えーって言い続けて自分が向き合わずに死ぬって格好悪すぎません?絶対死んだ後に逃げやがってって言われますよ。主に小倉君に」
美女はそれでも複雑な顔をしていた。僕のことをどうするのか迷っているのだろう。
「扉を使ったところであなたは体に帰れないかもしれないのよ?帰れたところでうまくまた元の体と繋がってくれるかわからないし。意識取り戻したらコップになってて他人に飲まれるかもしれないのよ。私だったら絶対嫌」
「そんなことあるんですか」
「可能性の話よ」
美女は色々言ったが、結局はリスクがあるからやめろってことなんだろう。
「でも、それでも僕は妹に向き合わなくてはいけないんです。彼女に僕は酷いことをしたから」
こればかりは折れるわけには、いかない。
僕たちはたった二人だけの家族。
ふと妹の病室を思い出す。……ずっと一人ぼっちにさせていた。
「失敗したっていいです。例えこの身がコップだろうと箒だろうとトイレになろうと構わない。そうなったときは頑張って妹を探して何とか気持ちを伝えます」
「それやったらある意味怪奇現象だからね。妹さん、怖がるわよ」
美女は呆れたように肩を竦めた。
「……わかったわ。あなたのそのシスコンっぷりに敬意を表して全力であなたを元の体に戻す努力をするわ」
美女はあの白い扉を出した。僕はドアノブに触れる。
「うまくいくことを祈っているわ」
その言葉が消えゆく意識の中で遠くの方に聞こえた。
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「お兄ちゃん!」
目を覚ますと、視界いっぱいに妹の顔が目に入った。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「ひっどい顔、だなあ」
掠れ気味にそう言うと、妹は大層憤慨して見舞いのフルーツバスケットの林檎で僕を軽く小突いた。
「なあ」
妹はピクリと肩を揺らし、林檎を元の場所に戻して僕の方に向き直った。
「今まで、悪かった」
本当はもっと言いたいことがあるけど、今はとりあえず。
「……うん」
妹を抱きしめる。僕が知っているよりも細くて、また怖くなった。でももう逃げない。ちゃんと、ちゃんと向き合うから。
「お元気そうですね、寺田さん」
妹が看護婦さんに怒られて部屋に帰らされた後、槙島さんと小倉君がやってきた。
二人は僕が目覚める前日に退院したらしい。
槙島さんは花を、小倉君はプリンを持ってきてくれた。
そして三人でこっそり病院の屋上に行った。
ちょうど異世界で三人一緒に見たあの夕焼けに似ており、空を燃えるような赤で染め上げていた。
「うん。いやあよかったよ。僕、体に戻れないかもしれないって言われてたからさ。一歩間違えたらコップだったよ」
「……なればよかったのに」
「小倉君、酷くない?」
あの時と同じように景色に魅入る。
ここは現実世界で、また三人で同じものを眺める。なんだか変な気分だった。
「寺田さん、妹さんの手術代のことなんですけど……私の家が少し出すそうです」
「……は?」
「先程、家族に『私の大切な人が困っている』と言う話をしたところ、全額は無理だが少しなら、と言われました」
……なんだろう、『私の大切な人』という言葉に嫌な予感が。
「父が今度会いに行くから首を洗って待っておけ、と」
「やっぱりぃぃぃ!勘違いすると思ったよ」
「終わったな、あんた」
小倉君が憐れむような目で肩を叩く。前もこんな顔をされた気がする。
「妹さん、早く手術できるといいですね」
「そうだね。……あーあ、退院したらバイト探さなきゃ」
「バイトなら紹介してやる」
「小倉君、優しい……!」
日が、暮れていく。
そして夜になり、朝がやってくる。
明けない朝はないというどこかで聞いた言葉の通り、朝は必ずやってくる。
僕たちはこの先たくさん立ち止まるだろう。
でもまた前を向いて歩く。決してもう逃げたりしない。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか」
僕たちは夕日に背を向けて、屋上から出て行く。
屋上に続く扉を閉めたとき、にゃーと猫の鳴き声が聞こえた気がした。