第五話 赤い宝石
幼い私はお母様と一緒に散歩をしていた。お母様は体が弱くて長時間は外に出られないけれど、白いレースの日傘を差していつも一緒に散歩してくれた。
あの日も散歩中だったように思う。綺麗な真っ白な猫がとことことお母様の足元に寄ってきて、ちょこんと座った。
私がその子に『この子は白い猫さんだからしーちゃん!』と命名しながらしゃがんでその頭をわしゃわしゃ撫でるとお母様はころころと笑ってくれた。
――その翌日、母は亡くなってしまった。
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「さて、どこに行きましょうか」
私は店長さんからもらった地図を見ながら呟いた。
どこに行きたいかを一昨日お休みがもらえるとわかってから考えていたのだが、いい案が思い浮かばなかった。
「にゃー」
考えていると、ここ数日私たちの周りにいる白猫さんが足元にすり寄ってきた。
「そういえばあなた、昨日小倉君と一緒だったんですか?」
昨日お休みだった小倉君が青い顔をして探しに行った寺田さんと帰ってきたので、猫に聞いてもわからないのにふとしゃがんで聞いてみた。すると白猫さんはにゃーともう一度鳴いた。……はい、ということなんでしょうか。
「おすすめはどこですか」
会話が成り立ったので地図を広げてながら聞くと、白猫さんは前足を出してある場所を指した。
「”サンライズ・ロード”ですか」
そういえばお客さんがよく”コーラの泉”とセットで話していた気がする。確か一番のおみやげロードのはず。
「おみやげですか……やっぱり家族に買っていくべきなんですかね」
私が言うと、白猫さんはぺろりと私の頬を舐めた。
”サンライズ・ロード”は私が働いている店がある通りよりももっと人で溢れていた。とても賑やかで楽しそうな雰囲気だ。
少し沈んでいた気持ちが上向きになる。白猫さんと一緒に色んな店を覗きながら、歩いていく。
あるアクセサリー屋で綺麗な赤い石のついたネックレスを見つけた。
「綺麗……」
思わず口に出してしまうほど綺麗だった。太陽の光できらきらと反射して輝きが一層増す。
手に取ろうとして腕を伸ばす。
『あなた、これを盗もうとしてたわね!?』
頭の中でお義母様の声が響いた。
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実の母が亡くなり、半年も経たない内に一人の女が私のお義母様になった。
そのことに私は当初少し嬉しかった。生きる気力を無くしたお父様を見るのは辛かったし、何より自分が寂しかったのもあると思う。
お義母様は他人の前では完璧な母親だった。私を愛し、時には怒り……使用人たちからも本当の親子みたいだと言われていた。
しかし実際は真逆だった。人がいなくなった瞬間に私を罵倒し始め、私は言い返すこともできず、ただ俯いて聞くだけだった。
お義母様の私に対する嫌がらせはエスカレートしていき、私は使用人以下の待遇になった。自分の部屋は狭い倉庫になり、使用人たちと一緒に屋敷の管理をしていた。要領の悪い私をいつもお義母様は意地の悪い笑みを浮かべて遠くから監視するように見ていた。
その頃にはお父様や使用人たちはきっと気付いていたのだろう。時折視線を向けてくれていたが、助けてくれた者はいなかった。
以前、お義母様の部屋の掃除をしていた時に宝石箱が机の上に無造作に置かれていた。蓋は開いており、中の赤い宝石が見えていた。私はそれをどかして掃除しようとして宝石箱を手に取った瞬間、ばしんと強く手を払われた。――お義母様だった。
「あなた、これを盗もうとしてたわね!?」
そう言われて私はすべてが嫌になった。
何も言わずにあなたの言うとおりにしてきたのに。あなたの不興を買わないように身を小さくして生きてきたのに。
その日以降、私はこの家から早く出たいと強く願うようになった。
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「やっぱり夜も綺麗ですね」
私はその夜、寺田さんたちと以前やってきた”コーラの泉”にやってきた。銀色に輝く満月が泉に映り込んでいた。
「あれ?槙島さん?」
寺田さんがいつの間にか隣にやってきていた。
「寺田さんも景色を見に来たんですか?」
「いや……妹を」
私が不思議に思って寺田さんの顔を見ようと見上げると、どこか遠くを見るような目をしていた。
「妹さん?」
「一昨日、会ったんだよ。……不思議だよね、今妹は病院にいるっていうのに。これが泉の噂話みたいだ」
寺田さんの声は静かな泉に波紋を作るように広がった。
病院にいる。
一日目に寺田さんが『遠いところにいる』と言っていたけど、そういう意味だった。
「すみません、あの、初日に失礼なこと言って」
「いいよいいよ。確かに妹に話したり、お土産あげたりしたいし。……もっとも、それで許してくれるかわからないけど」
「喧嘩中なんですか?」
「ううん。僕が逃げてるだけ。だけど、そろそろ終わりにするつもり。……どうなるかはわからないけど逃げるのはやめる、ってことをここに出没した妹に言おうと思ってここに来たんだ」
寺田さんはどこか吹っ切れたように笑った。
そんな寺田さんを見て、私は以前から聞きたかったことを聞いてみた。
「……寺田さんはここに住むことについてどう思いますか?」
『もし住むことになったらいつでも見れるしね』
以前寺田さんたちと一緒にここに来たときに言っていた言葉。それが頭から離れなかった。そして今日、わからなくなってしまった。自分がどこにいればいいのか。
「私は父と再婚した女性に嫌がらせを受けていて……ここに来たとき、本当はほっとしたんです。『あそこにいなくて済む』って」
どんどん涙が零れてきた。止まらない。
「誰も、助けてくれないんです。お父様も使用人たちも。……もう私のことなんかどうでもいいんでしょうか。私はやっぱりここに住んだ方が」
「駄目だ」
寺田さんはきっぱりと言った。
「それは逃げだ。このままじゃ君は一生お義母さんに負けっぱなしだ。一回がつんとお義母さんに言ってしまえばいい。今までの思いを全部」
寺田さんは微笑んでそっと手で涙を拭ってくれた。
「それで駄目だったら僕と小倉君が迎えに行くよ。……小倉君、面倒くさがりそうだけど」
「私もそんな気がします」
「逃げたら駄目なんだよ、僕も、君も。とりあえず当たって砕けろってね」
「砕けちゃ駄目ですよ……でも」
決してそんな風に見えないぐらい陽気で優しいこの人も自分と戦っている。
本当はこの人だって怖いのだ。けれど、向き合おうとしている。
「決めました。私も当たってみます。怖いけど、やってみます」
向き合わなきゃ。弱くて逃げ出したくなる自分と。
「寺田さんも頑張って下さい。もしかしたら砕けてしまったら私が欠片集めますよ」
「その時はよろしく」
寺田さんはぽんぽんと私の頭を撫でた。
ほとぼりが冷めたら帰って来てね、と言い残して寺田さんは去っていった。
泉の水面を見て心を落ち着かせる。するとにゃーと鳴き声がした。あの白猫さんだった。
「あなたってあの時の白猫さん……じゃないですよね?」
よく見れば白猫さんはお母様との最後の散歩に現れた”しーちゃん”にそっくりだった。どうして気付かなかったのだろう。
私は聞いてみたが白猫さんは答えてはくれず、泉の水面にちょんと片足を触れた。
ぼんやりと何かが映り出した。そこにはお父様と使用人たちがいた。
『お嬢様をもう見てはいられません。旦那様、奥様に』
『駄目だ。そんなことをして悪化したらどうする……私にはどうすることもできない』
……これは現実なのだろうか。こんな風にみんなが私を心配してくれている。
場面が変わった。お母様がベッドにいる。……もう亡くなる間際だ。
『紫……これからあなたはたくさんの出来事が起こるでしょう。大好きな人も、苦手な人もできる。辛いことも楽しいことも起こる。辛かったら逃げたっていい。だけどその前に一度向き合いなさい。そうじゃないと大切なことを見失っちゃうわ』
どうして私はこの言葉を忘れていたんだろう。
お母様は言葉を続ける。
『どうかあなたの行く先が幸福でありますように。……愛しているわ、紫』
私はしばらくその場を動くことはできなかった。
私がこのままここに残ればどうなるんだろう。
この泉に映った出来事が本当とは限らない。もしかしたら自分の都合のいい妄想なのかもしれない。
でも信じてみようと思った。
ここに住んだとして、きっと私は現実世界を忘れることはできないだろう。ならば、寺田さんの言うとおり向き合って決着をつけよう。
「……覚悟して下さいね、お養母様」
私は満月に向かってピストルの形を手で作り、小さくバーンと言った。