第三話 妹
気がつくと僕は白い空間にいた。今度は白かよと思っていると、徐々に部屋になり、家具が置かれ……白いカーテンがはためく中で白いベッドの隣に僕は立っていた。
……そこは病室だった。
ベッドには彼女がいた。その彼女は僕を見つけて何かを言った。
僕はそれに答えようとして、口を開いたが……声が出ない。
話したいのに、話さなければならないのに、言葉を発せない。
そこまで考えてふと気付いた。
――一体何を、話せばいいんだ?
「寺田さん!」
目を開けると、槙島さんが僕の肩を揺すっていた。
「大丈夫ですか!?すごくうなされていたようで」
「ああうん大丈夫大丈夫」
「……何か見たのか」
いつものように睨みながら、でもどこか心配そうに見る小倉君を見て必死に思い出そうとしたが……
「あれ?何にも思い出せない」
夢のひとかけらも思い出せない。思い出そうとすればするほど、反対に遠ざかっているような、そんな感じ。
「……槙島、こいつ駄目だ」
小倉君の目が僕のことを可哀想な人を見る目に変わっていた。
「えーっと、朝ご飯を食べましょう!そうすればきっと」
その時、また槙島さんのお腹が鳴った。
+++
ようやく店の仕事が終わり、これから昨日言っていた観光タイムになった。
色々行き先は考えていたのだが、お客さんや店長らに聞いたところ、北の森の中心に”コーラの泉”というのがあって、たいそう景色が綺麗で観光客には人気のスポットらしい。ちなみにあの茶色の炭酸水が湧き出ているわけではない。
人気の理由はそれだけではない。なんでも泉の周りで不思議なことが起こるらしい。
曰わく、泉の水面に過去の出来事から自分の妄想まで願えばなんでも見える。
曰わく、大切なものに会えた。
聞いた時僕は何と言っていいかわからない顔をし、小倉君はんなもんあるわけねえだろと言い、槙島さんは凄い!とはしゃいでいた。
結構店から近いらしく、すぐにわかるよと言われていたのだが……歩いても歩いても見えてこない。
「おい、本当にこれで合ってるんだろうな」
後ろにいる小倉君の視線が怖い。
朝から妙な騒ぎを起こし、昨日の会ったときが最高だった(はずの)僕の『頼れるお兄さん度』が地をはっている今、ここでやるしかないと地図係になったのはいいが、迷った。完全に迷った。
「あ、すごく綺麗な白猫さんがいますよ」
槙島さんの声に地図から顔を上げると、ちょうど行こうする道に白猫がいた。ただの猫であるはずなのにその猫の周りだけ、キラキラ輝いているように見えた。
「あれは美人ならぬ美猫というんですかねっ」
女の子の槙島さんはやはり綺麗なものが好きらしく、テンションが上がり、駆け寄って頭を撫でていた。
それと反対にジリジリと後退していく小倉君。真っ青な顔をして、余計に睨みをきかせているのでとても怖かった。
「……小倉君、もしかして猫苦手?」
「そうでもない」
「すっごく顔が真っ青だよ」
「見て下さい!なんか白猫さんがこっちに来いと言ってるようです」
槙島さんが興奮気味に叫ぶ。真っ青な小倉君の腕を掴んで、白猫の近くに来るとこちらを見上げた後、すっと前を向いた。
……このまままっすぐ行けってことか?
僕らが歩き始めると、白猫はたたっと僕らの前にやってきて先導してくれた。歩いて十分ぐらいすると、“コーラの泉”と思われる綺麗な泉が見えてきた。
空はオレンジ色に染まり、真っ赤な夕日が徐々に沈んでいく光景が水面にも映って二つの夕日があるように見える景色は幻想的で、背景に西洋風の建物やドラゴンが飛んでいるのを見つけてここはやはり異世界なのだと実感した。
「綺麗、だね」
僕らは顔を見合わせて笑い合った。
+++
「え?僕たちそれぞれに一日ずつ休みを?」
店に帰ると店長さんはすでに帰ってきており、夕食の準備をしてくれていた。
「うん。なんか異世界体験だっていうのにこれからずっと働くのも悪いし、かといって全員にまとめて一日休みをあげたらお店が大変だし、折衷案で」
店長さんは”マウントゾーラ”という力持ちの猿(もはやゴリラ)と人とのハーフらしい。だから見た目は歩く大きなゴリラで威圧感がすごいけど、こんな風に困っている人には手をくれるやさしいゴリラだった。
「ゴリラじゃないから、“マウント・ゾーラ”だから。間違えるなよ」
店長さんは心が読めるのかもしれない。
「じゃあ最初は誰にする?」
「「小倉君で」」
僕と槙島さんは口を揃えて言った。
小倉君はよく働く。僕と槙島さんがもたもた注文を取っている間に彼は五つのテーブルの注文をとっていた。
是非とも一番最初に休んでもらいたい。
「……わかった」
小倉君は渋々頷いた。良かった、ゆっくり休んで――
「お前ら、面倒なことを起こすなよ」
あははっ、全然頼られてないよ。……泣きたい。槙島さんと僕は肩を落とした。
「二番目は」
「槙島さんで。僕はいりません」
「え、そんな悪いです」
槙島さんは顔の前でぶんぶんと手を振った。
「いいんだよ。僕の分は今日だけでいい。……それにもし住むことになったらいつでも見れるし」
「……そうですか」
槙島さんと小倉君はそれ以上何も言わなかった。
+++
その日の夜、僕は寝付けなかったのでこっそり部屋から抜け出して夜の散歩と洒落込んだ。
異世界の月は僕の世界と同じようにぼんやりと照っている。街灯がない分、異世界の方が綺麗に月が見えた。
その光景を見て、”コーラの泉”ならもっと綺麗に見えるのではないかと思って行くことにした。そうしたら夕方より泉には簡単に辿り着いた。……夕方のは一体何だったんだ。
”コーラの泉”には先客がいた。髪を後ろでポニーテールにしている女の子だった。
「一緒に見てもいいですか」
女の子がこちらを振り向いて、僕は息を呑んだ。
――それは紛れもない僕の妹だった。
僕は妹とずっと二人で生きていたといっても過言ではない。僕が中学に上がる前に両親が事故で死に、妹と二人で親戚の家をたらい回しにされた。
そして一昨年の春、妹が病気で倒れた。
僕が大学生になって妹と二人で暮らそうと思っていた矢先のことだった。
医者からは高額な手術をしなければ助からないと言われ……僕はすぐにはい、とは言えなかった。
僕が見舞いに行くと、妹は笑って迎えてくれた。しかし、決まって言うのだ。
『お兄ちゃん、私はいつまで生きられるのかな』
それを言う妹は笑顔が少し苦しそうに見えた。僕は大丈夫だ、といつも返すとどこか諦めたように笑った。
そして僕はいつからかそんな妹を見るのが怖くなってあの病室から――逃げた。
「お兄ちゃん」
妹が僕を見て言った。その声も、妹のものだった。
「どうして、来てくれないの。私、ずっと待ってるのに」
妹がこちらに来て、僕の手を取った。妹の手は月明かりに照らされて真っ白に見え、僕が知ってるよりも随分細くなっていた。
「にゃー」
その時、猫の鳴き声がした。辺りを見渡すと、あの白猫がいた。
なにやら前足で泉の水面をつついていた。
気になって妹の手を引いて水面をのぞき込むと、そこには……ベッドに眠る僕がいた。隣には妹がいて、僕の手を握っていた。
『お兄ちゃん』
水面に映る妹が言った。
『早く目を覚まして。私のところに来てくれなくてもいいから。だからどうか……』
「なあこれって」
僕は隣にいる妹を見ようと横を向くと、もうすでに手の温もりはどこにもなかった。
水面に映る自分の姿。
あれは、どういうことなんだ?
僕は今ここにいる。ベッドに寝るような怪我も病気もしていない。……あれって現実、なのかな。
いや、あれはきっと僕の想像に違いない。
妹は僕の病室を訪れてあんなことを言わない。僕自身が、彼女から離れたからだ。
「……それでも傍にいて欲しいだなんて、おこがましすぎる」
僕の呟きは溶けるように消えていった。