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はなむけ  作者: 九JACK
4/8

三つも苦く

 翌日。通勤路を歩きながら、ぼんやりと昨夜のことを思い返していた。

 昨夜は顎髭老が相変わらずの飲みっぷりで、しかも浴びるほどと形容しても差し支えないくらい飲んだくれて酔っ払っていた。酔った顎髭老の声は店中に響き渡るほどで、眼鏡老が相変わらずの渋面で早々引きずって帰ってくれたので助かった。

 まあしかし問題はそこからで、ピアニストの青年が諸用のために帰らねばならず、私とあの歌い手が二人居残って談笑、という運びになった。帰り際の青年の惜しげな眼差しが忘れられない。……恨みがましい、の間違いかもしれないが

 まあ私は聞こえよく言えば、独身貴族というやつだ。しかし、歌い手の彼女にそんな気を持つことは一切ないから安心してほしい、と青年に教えてやりたかったが、さすがに本人のいる前で言ってしまうほどデリカシーに欠けているつもりはないため、黙って青年の視線を受け止め、見送った。

 その後の彼女との会話を思い出す。


「今日の衣装、派手でございましょう?」

 にこり、と真っ赤なドレスを示して言った。

「理由はあなたもご存知のはずですわ。私、これでいて耳はいいんですのよ」

 たおやかに笑まれ、はて、と思考を巡らすと、これが確かにすぐに思い当たった。おそらく、顎髭老が言っていた十四回目の件だろう。

「熱烈なラブコールの件ですか」

「あら、その言い方は恥ずかしいですわ」

 けれど、その通りですのよ、と彼女は苦笑する。

「私は、あの人以外には、ひかれるつもりは、ありませんもの」

 強調された「ひかれるつもり」──言った本人は、酒をあまり飲んでいないにも拘らず、頬を微かに赤らめていた。困ったような笑みを浮かべて、私に口元に指を当てて示してくる。

 ……なるほど。

 弾かれるつもりも、惹かれるつもりも、ないと。

 なんと洒落の効いた表現だろうか。

「届くことをお祈りしていますよ」

「ありがとうございます」

 けれど、彼に言えばいいだろうに、と思う私は、短絡だろうか。何故私に思いを打ち明けたのか問うと、彼女は言う。

「今、何か悩んでいるようですの。だから、困らせたらいけないと」

 なんといい気遣いだ、と言いたかったが、彼の悩みとはおそらく恋患いではなかろうか、と思ったが、それを言うのも野暮だろう、と黙っていた。

「……まあ、今日のこれはちょっとした意思表示のようなものなのです。……あの方が気づいたかはわかりませんが」

 彼女がほろ苦く笑ったのを、よく覚えていた。


 今日も「Zion」に向かう。扉を開けると、今日もまた早めに来た青年が調律をしている。調律というのは年に一回程度すればいいというような話を聞いた気がするのだが、まあ、生真面目な青年のことだ。万全を期したいのだろう。それに相方はあの歌い手だ。

 そういえば思いがけず彼女の本音を聞き、二人が両想いというやつであることを私は知ったわけだが。青年は彼女に想いを告げないのだろうか。彼女は待っている、というのに。

 しかしそこに刺さるのも野暮ったいか、と踏み込むのを躊躇っている自分がいるのも確か。冷静に考えれば、私はたった二日前に偶然通りすがっただけで関係としてはほとんど他人だ。あまり踏み込むのは迷惑だろうし、お節介が過ぎるというものだ。

 自重自重、と考えながら(こうべ)を巡らすと、同じ隅の席に眼鏡老の姿が。……ん、顎髭老が見当たらない。まだ来ていないのだろうか。

 とりあえず、眼鏡老に声をかけてみることにした。

「こんばんは」

 すると眼鏡老はいつもの通り、寡黙に目礼した。相席を求めると慣れた様子ですんなり頷く。

「顎髭の御仁は今日はまだいらしてないようですね」

「……ああ、あいつなら」

 苦々しげな面持ちで眼鏡老が解答を口にする。

「昨日浴びるほど飲んだ影響で二日酔いだそうだ。今日は来ん。ざまぁないな」

 なかなかに手厳しい言葉に思えたが、昨日の顎髭老の飲みっぷりは確かに……うん、二日酔いをしない方がおかしいと言えるだろう。

 ううむ、あの陽気な御仁が来ないとなると物寂しい気もするが、まあ、たまには自分で会話を広げるのも一つか、と私は眼鏡老に視線を投げ掛ける。

「あなたはどこかにお勤めで?」

「……まあ。大通りに、大きなコンサートホールがあるだろう? あそこの管理者をやっている」

「なんと」

 眼鏡老の口にしたコンサートホールはこの辺りではかなり有名で、頻繁に有名人がコンサートやら講演会やらに利用していたはずだ。そこの管理者とは。

「とはいえ、とっくに定年は過ぎている。だが、後進の者が小心でな。やれあれはどうだこれはどうすればだのとしょっちゅう訊いてくるものだから、呆れながらに対応して、ほぼ通常勤務さ」

「おや。給金はあるので?」

「一応までにはあるさ。それと、ある約束をしている」

 どうやら約束とは交換条件のようなものらしい。何を条件にしたのか訊ねると、何、単純さ、と眼鏡老は微かに笑った。

「いつか一日だけ、私にホールを貸し切れと」

「コンサートでも開くのですか?」

「隠居祝いに誰かを招いて開くくらい、可愛いものだろう」

 ふ、と眼鏡老が笑い、釣られてこちらも笑った。このときの眼鏡老の様子がとても楽しげだったからだろう。


「こんばんは」

 後ろから声をかけられ、振り向くと、コートを羽織った歌い手の女性が微笑んで立っていた。

「そのコンサート、是非ともお招きいただきたいですわ、おじさま」

 どうやら私と眼鏡老の会話を聞いていたらしく、そんなことを言う。眼鏡老も予想していたのか、勿論いいとも、と即応していた。

 この二人の関係というのも、なかなか不思議なものである。聞いたところ、このバー以外には接点がないらしい。けれどこうも親しげなのは、顎髭老共々、常連だからだろうか。

 さて、今日も歌いますか、とコートを脱いだ彼女の衣装は、昨日とは対照的な落ち着いた色合いのドレスだった。淡い空色に、よく見ると水玉模様があしらわれており、愛らしい印象を抱く。

 まあ、衣装がどうあろうと、彼女は素晴らしい歌を魅せてくれるのだろう。


 今日の歌はしっとりと落ち着いていた。耳朶を優しく包み込むような歌声で、初めて聴いたときの印象と似ていた。昨日のような苛烈さはない。つまりは昨日のような出来事──嫌なやつらからの強烈なアプローチはなかったと見える。

 やはりこちらの歌声の方がいいな、と思っていると、歌声を遮るようにがちゃりと入口が開いた。

 空気を読まない客だな、と迷惑に感じながらそちらに目をやると、黒服にサングラスといういかにも怪しげな雰囲気の輩が二人、入ってきたのだった。眼鏡老の纏う雰囲気が僅かに鋭さを帯びたことに気づく。……知り合いだろうか。

 不思議に思い、眼鏡老を見ているとその口髭がいつもより大きくうごうごと動いた。なんとなく読み取った一言は短く、単純。か、ま、う、な──「構うな」。この二人と関わり合いを持つなということだろうか。まあ、いかにも怪しい輩だし、歌を阻むような入り方をされて少なからず気分を害していたところだ。関わらずに済むなら願ってもない。

 私が黙して頷くと、眼鏡老も目を一度瞬かせながら頷く。

 しかし、一人、取り乱してしまった人物がいた。それは、なんとも信じ難いことに、歌い手の女性だ。歌の抑揚が僅かながらに違和感を抱くほど欠いてきて、顔色が微かにだが、青ざめていた。

 しかし、それをフォローするように、ピアノが音の当たりを優しくして、緩やかな雰囲気に変えて違和感を和らげる。青年を見ると、じっと歌い手を見つめていた。少し不安を滲ませた眼差しで。

 曲はいつもより短く終わった。いつそんな合図を取ったのかは知れないが、自然にピアノが締めていた。今日も拍手喝采だが、それを受ける歌い手の表情は芳しくない。ピアニストが横に来て、共に一礼すると、さりげなく彼女をエスコートして、店の隅──つまりこちらの席の方へ誘導する。

 顎髭老ならば、気が利かないまでも、暗い雰囲気を払拭するような言葉がかけられるのだろうが、私には無理だった。眼鏡老は寡黙にウイスキーを啜るだけ。

「……ご気分が優れないようですが」

 青年が心配そうに口を開く。彼女の背をさすりながら、水をマスターに頼む。

「ごめんなさい……今日は、早めにお暇致しますわ」

「お送りしましょうか?」

 気遣わしげに青年が放った一言に、よく言った、と思ったが、それは一瞬で砕ける。

「いえ、そこまでは……大丈夫ですから」

 相手を気遣う、ぎこちない笑み。けれど、これ以上踏みいると、彼女の最後の逃げ場までをも侵食してしまう気がして、やめた。

 彼女はコートを着、裏口から出て行ってしまった。

 青年がぎり、と手を握り込む音が聞こえて、同時になんとも言えない無力感が私を苛んだ。



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