(6)
それから暫くは平穏な日々が続いていた。私は商売のことは分からないから父の手伝いは出来なかったけれど、新しいものをねだることはしなくなった。庭でのお茶会もやめた。せめて出ていく金を抑えるくらいはしたかったのだ。代わりに、今まであまりやってこなかった礼儀作法の勉強や、女性としての社交術を母に学ぶようになった。
――私は、アルバ伯との結婚を受け入れる気でいる。ただ、もう少し心の整理に時間が欲しい。父にはそう伝えていた。母に学ぶのは、その覚悟を決めるための勉強だ。これはあくまで私の我が儘だから、さっさと嫁げと言われても仕方ないと思っていた。けれど、父母はそれを了承してくれた。アルバ伯のことも説得してくれたのだろう。お陰で、私がしっかりと現実を受け止めるための時間は充分にあった。
ただ、少しだけ寂しく感じたのは、お茶会をやめて勉強する分兄と過ごす時間が減ってしまったことだった。兄自身も忙しくしていて、ゆっくり話せることはあまりない。けれど、これでいいのかもしれない、とも思った。結婚なんて嫌だと駄々をこねる私を慰めてくれた優しい兄。今でも顔を合わせれば何かと私を心配する。そんな兄だから、傍にいればどうしても頼って甘えたくなってしまうだろう。それではいつまで経っても嫁げない。
そうやって幾日が過ぎただろうか。そろそろ正式な婚約を、と父と話していた頃のことだった。アルバ伯の求婚を正式に受け、覚悟を決める。それで全てがうまくいく――その筈だったのに、悲劇はあまりにも唐突に私達に襲いかかった。
長持にも似た、簡素な舟形の箱が二つ並んでいる。黒い服を纏った人々が、一人、また一人とその箱に近付いては頭を垂れ、祭壇に花を捧げて去っていく。白く積み上げられた花から香る、重い空気にそぐわない甘く湿った匂い。どこからか、啜り泣くような小さな声。
父と母が死んだ。外出中の馬車の事故だった。車輪が外れて横転し、二人とも打ち所が悪かったらしい。ようやく両親に苦労をかけなくて済むのだと思っていた矢先だった。想像も出来なかった不幸に打ちのめされ、私は呆然とするしかなかった。悲嘆に暮れ、狼狽えるばかりの私を気遣い、全ての手筈を整えたのは兄だ。私が空虚を抱えて過ごすうちに葬儀の準備を整え、あっという間に当日となった。
参列者に挨拶を済ませ、骸に花を手向けても、実感など無かった。頭が記憶を残すことを拒否しているかのように、全てが私の中を通り過ぎていく。賛美歌も、両親の死に顔も、墓の場所も、もう分からない。いつの間にか教会にいて、気付いた時には葬儀も埋葬も終わっていた。その後は恐らく兄が私を連れ帰ったのだろう。私は教会に出掛けたときのまま襟の詰まった喪服で、ヴェールも脱がずに応接間のソファに一人残されていた。そうだと自覚できたのは、鼻腔をくすぐる仄かな柑橘の香りのお陰だった。
「……お兄さま」
お気に入りの紅茶の匂いにつられて顔を上げると、そこは微笑する兄の姿があった。私とは違い、彼は既に着替えを終えてシャツ一枚で過ごしていたようだ。手ずから用意したのであろう茶器をテーブルに置くと、兄は自然と私の隣に腰かける。
「少しは気分が和らぐと思ったんだけど、どうかな」
言いながら兄は茶を注ぎ、私にカップを差し出した。促されるままにそれを受け取り口に含む。すると鼻に抜ける爽やかな香りが僅かばかり心を解してくれたようで、私は大きく息を吐いた。同時に、無意識に押さえ込んでいた涙が一筋零れ落ちる。ああ、そういえば、まだ泣いていなかった。唇に触れた塩味と、舌に残る微かな渋味が、私の存在を現実へと引き戻した。
「ごめんなさい。迷惑ばかりかけて、何も出来なくて」
「いいんだよ。急なことだったし、気を張っていて疲れただろう」
自分の方こそ疲れているだろうに、兄はそうやって私を労る。それが申し訳なくもあり、嬉しくもあった。兄がいてくれて本当に良かったと思う。万が一、彼まで亡くしていたら私はどうなっていたか分からない。素直に甘えて兄の肩に凭れかかると、微かに煙草のにおいがした。兄が吸っている姿は見たことがないから、葬儀の時に誰かから移ったのだろうか。
「……これから、どうしたらいいのかしら。突然お父さまもお母さまもいなくなってしまって、商売はお兄さまが引き継ぐのでしょうけど、家のことは……アルバ伯との話はお父さまが進めていた筈だけど、どうなるのかしら」
ずっと外界を遮断していた心が現実を認識し始めると、途端に不安が募り始めた。兄が傍にいるのをいいことに弱音を吐き出すと、彼の肩がぴくりと震えた。何かまずいことを言ったかと、慌てて顔色を窺う。
「……アルバ伯、ね」
「お兄さま? 私、何か変なことを言った?」
低く呟くと、兄は堪えかねたというように喉を震わせ笑い始めた。その様子を訝しんで兄の顔を覗き込むと、楽しげなエメラルドの瞳と視線がかち合う。
「そう、その話ね。アルバ伯との結婚は白紙に戻りそうだよ」
上機嫌に告げられた兄の言葉に、私の頭は一瞬真っ白になった。今、彼は何と言った?
「元々その話に乗り気だったのは父さんだけだったしね。僕はあまりアルバ伯と折り合いが良くないからなぁ」
「そんな……じゃあ、借金の話はどうなるの? 葬儀のお金だってかかってるのに。白紙って言ったって、もう殆ど決まったことだったのよ。それなのに……」
それでは、何もかも駄目になってしまう。焦ってまくし立てる私に対して、兄はおかしそうに首を傾げた。
「変だね、君は喜ぶと思っていたのに。結婚は嫌だと言っていただろう?」
「それは……確かに嫌だと思ったけど、でも家のためだもの。それにお父さまが亡くなって嬉しいわけがないわ! ねえお兄さま、アルバ伯とよくお話しましょう? もうこの家は私達だけじゃ立ちゆかないわ」
私は必死になって兄に取り縋った。何を言っているのだろう。父母を失ってただでさえ混乱しているのに、気がおかしくなりそうたった。嫌がっていた結婚が無くなっても、何も現実は変わりはしない。選べる道などもう無いのだ。けれど兄は、そんな私の訴えなど聞こえていないかのように飄々と振る舞った。
「大丈夫だよ、考えてることがあるんだ。僕としては君と暮らしていければ万々歳だしね」
「考えって何? 今の家がどうしようもない状態なことくらい私だって分かってるわ。はぐらかさないで――!」
そう一気に言い切った瞬間、ぐらりと視界が揺れた。身体から力が抜け、崩れ落ちそうになった私を兄が受け止める。背中を支えた手は、そのまま私をソファに横たえた。何か変だ、と疑問を発しようとしたけれど、唇が痺れて上手く言葉が紡げない。それどころか指先を微かに動かすのがようやくだった。戸惑っているうちに、何かが私の上に覆い被さる。視線だけを動かしてその正体を確かめようとすると、シャツの襟元を緩める兄と目が合った。
「な、に……」
一体なにをしているの。そう問い掛けたつもりだったけれど、喉は断片的に音を発しただけだった。絶句する私の様を眺めながら、兄は含みのある笑みで声にならない疑問に答えた。
「怒って興奮したからかな、意外と早かったね。一口でも効果があるものだね」
何の話かと考えかけて、私はすぐにそれに思い至った――さっきの、紅茶。兄が淹れた、何の躊躇いもなく口を付けたあのお茶に、何か盛られていたのだ。香りに誤魔化されて気付かなかった、いやそれ以前に、兄がそんなことをするなど考える由もなかった。
私は戦慄した。何かの間違いだ。薬も、兄が私を見下ろすこの状況も。そう思いたいのに、兄は私の頬を撫でながら更に信じ難い台詞を吐き続けた。
「それにしても残念だな。せっかく嫁がなくていい状況にしてあげたのに、君がそんなことを言うだなんて……僕はこんなに君を愛しているのに、君はアルバ伯の方が良かった?」
いじけたような兄の表情も愛の告白も理解の範疇を越えていたが、何より言葉の前半に強い違和感を覚えた。胸がざわつく。嫁がなくていい状況に『した』とは?
婚約が白紙に戻ったのは、父母が死んだせいだ。不運な事故だったと聞いた。その、はずだ。
まさか、と声にならないのを分かっていても呟かずにいられなかった。私の動揺を悟ったらしい兄が口の端をつり上げる。微笑んでいるはずなのにその表情はあまりにも空虚だ。その瞳に宿る鈍い光を狂気と呼ぶのだと――私はこの時、身をもって知った。
「仕方ない。今、君を僕のものにしてあげよう。そうしたら、諦めがつくよね」
頬に添えられていた手が下方に滑り、喪服の襟元に伸びていく。プツ、と小さな音を立てて釦が外され、瞬く間に胸元が露わになる。兄の顔が首筋に近付いたかと思うと、生温かく、ざらついた感触が肌を這う。
「い……や……」
やめて、と叫びたかった。けれど私の喉は麻痺したままで、身体は言うことを聞かない。いっそ意識を手放してしまいたかった。そうすれば、これはどうしようもない悪夢なのだと自分に言い聞かせることも出来た。けれど、肌を弄る感触がそれを許してはくれない。
乳房から、腹へ、臀部へ、太股へ。嫌悪と恐怖の混ざり合った感情が溢れ出し、僅かに意志の残っていた身体が震え出す。兄はそれすら愉快だというように喉を鳴らし、時に爪を立て、やわく肌を噛み、赤く跡を残す。兄はあまりにも無遠慮に私の身体を暴き蹂躙していく。ひとしきり肌を貪った兄は、更に私の片足を担ぎ上げる。
「さぁ、僕のベロニカ。ひとつになるんだよ」
どうしようもない諦念が私を支配していた。いつも優しかった兄。私を守ってくれた兄。その筈なのに、目の前には肉欲に溺れる、気の触れた男しか存在しなかった。怒りなのか憎しみなのか悲しみなのか、自分が何を思っているのかすらも、もう分からない。ただ、私は引き裂かれるような痛みに声にならない悲鳴を上げた。
――そして奇しくも、私の頭に結婚を嘆いていた時と同じ思いが過ぎった。私が、何も感じない人形だったら良かったのに、と。
おいで、と声か聞こえた気がした。いつかにも覚えた、吸い込まれそうな感覚。私は思考することを放棄して、それに自分の全てを委ねた。
まさかそれが、本当に願いを叶えてしまうとは思ってもいなかったけれど。




