(2)
自我、というものがいつから芽生えたのか、正確なところは覚えていなかった。茫洋とした虚空の中に断片的な意識が浮かび上がり、時折目を覚ましては宙空を無為に眺め、いつの間にか眠りについている。視界に入るものといえば、立派だけど埃をかぶったベッドに猫足のドレッサー、明かりの灯されない燭台、それと誰も入ってくることのないドア。それだけが私の世界の全てだったのだ。
そんな風に漠然と時間を浪費していたある日、真っ暗な部屋に一筋の光がもたらされた。それは言葉通り部屋に明かりが差し込んできたということでもあり、闇しか知らない私の心に光を灯してくれた、という意味でもある。
ドアが開かれたのだ、と気付いたのは、部屋の中が照らされ、中へ入ってきた青年の姿が瞳に映った時だった。私は驚いた。ろくに手入れもないこの部屋に来訪者があったこともだけれど、彼を一目見て全身に熱が駆け巡った気がしたのだ。勿論私は血肉を持たない人形だから錯覚だ。けれどその瞬間から私の意識はより鮮明なものになり、五感が解放された。人間で言うところの『一目惚れ』とはこういう事なのだと、その時私は確信した。
青年は何か用事があって来たという風でもなく、入口辺りで足を止めたままだった。室内を眺め、時折何かを呟いて考え事をしているようにも見えたが、彼の姿を見るうちに私はいてもたってもいられなくなってしまった。自分の声を思い描く。大丈夫だ、喋れる。
「こんばんは、お兄さん。こんな時間に何のご用?」
「――だ、誰だ!?」
いま思い出しても、その瞬間の彼の反応は傑作だった。大きく後ずさって転びそうになっていたし、瞠目し、青ざめてた顔で辺りを見回す様子は怯える子供そのものだった。幽霊が出たとでも思ったのかもしれない。あまりに彼が慌てるものだから可笑しくなって、私は堪らず笑い声を上げた。
「ここよ。私はチェストの上」
そのせいで余計に青年の顔が引き攣ってしまったのて、私は自分の正体を教えてやることにした。彼はしばらく視線をさまよわせた後、恐る恐るといったようにエメラルドの瞳をチェストへ向けた。摺り足でじりじりと此方へ近付くと、そこに座る私を見付けて首を捻った。
「……人形か? まさか」
「そのまさかよ。人形だって目も耳も口もあるんだもの。別に喋ったっていいでしょう?」
言い返すとまたも彼は大きく仰け反って目をしばたたかせ、それを見た私は笑いが込み上げてきてしまった。まるでこれまでの無為な日々の反動のように抑えがきかない。ひとしきり面白がって、ようやく気が済んだ頃になると、怯えるというよりは仏頂面の青年がそこにいた。その顔にまた吹き出しそうになったけれど、それにはどうにか耐えて私は改めて彼に声をかけた。
「ねぇ、私とお話しましょうよ。ずっとここに放って置かれてるから、とても退屈してるのよ」
――それが、私たちの交流の始まりだった。彼は最初こそ戸惑った様子だったけれど、少しずつ打ち解け、いつの間にか毎晩部屋に訪れるようになり、色々な話をしてくれた。
彼の名前はミゲル。ここはとある裕福な商家の屋敷で、ミゲルはその跡継ぎなのだという。彼の知識は多岐にわたり、穏やかながら聞く者を引き込む話術はさすが商人の跡取り、と言えるものだった。庭に咲いた小さな花の話、町で見かけた人々の話――そんな些細なことを彼はさも大事のように語り、時におどけて見せては、私を笑わせた。
けれど、そんな明るい会話の合間に、ふとミゲルの表情が曇ることがあった。どうしたのかと尋ねても、何でもないの一点張りで教えてはくれない。悲しかった。私をいつも笑わせてくれるミゲルが、そんな顔をしなければいけないのは何故なのだろう。そして相談さえしてもらえないことが辛かった。それは、人形なんかに相談しても解決はしないだろうけれど。
自分でもそうは思ったものの、ついその心境をミゲルに漏らしてしまったことがあった。すると彼は、困ったように肩を竦めながらもようやく訳を話してくれた。
「……実は最近、父と母が立て続けに亡くなって。父が膨大な借金を残していたものだから、取り立て人がうるさくてね。色々とやりくりに苦労してるんだ。もう使用人も殆ど解雇してしまった」
「そう、だったの」
予想以上に重い事情に絶句しながらも、私はどこか納得していた。どうりで部屋に人の出入りが無いわけだ。大きな屋敷なら大抵どの部屋もメイドが手入れしているものだけれど、そういうことなら埃っぽいままなのも頷ける。広い部屋のわりに家財が質素なのも売り払ってしまった後だからのようだ。
そこで私は、ひとつの不安にとらわれた。
「……私のことも、いつか売ってしまう?」
それほど金に困っているのなら、次に売られるのは私かもしれない。摩訶不思議な喋る人形、とでも謳い文句をつければ、そこそこの額になるのではないだろうか。この身がミゲルの助けになるというならそれもやぶさかではないけれど――せっかく仲良くなれたのに離れなければならないと思うと、胸が締め付けられた。
でも彼は、私の心中を察したかのように淡く微笑んだ。
「まさか! そんなことするわけだろう、ベロニカ。僕の一番の話し相手がいなくなってしまうじゃないか」
「本当? 絶対よ」
むりやり聞き出した上に我儘を言う私を咎めるでもなく、ミゲルはあやすように私の髪を撫でた。いつしか親しみを込めて『ベロニカ』と呼んでくれるようになつた彼。愛しい人と共にあり、支えとなれるのは私の大きな喜びだった。
――けれど、私はもう知っている。彼の本当の一番はわたしではないことを。
今日もまた、その人の話だ。
「今日は暖かかったからか彼女も顔色が良くてね。僕も嬉しくてたくさん話をしてたら、やっぱり疲れてしまったみたいなんだ……調子を崩さなければいいんだけど」
私の前で話すミゲルは憂い顔だった。でも、いつものように家のことを考えてのことではない。『彼女』を心配する時の顔だ。彼には想い人がいる。もちろん、人間の。
「もう、ミゲルがはしゃぎすぎなんだわ。気を付けてあげなくちゃ駄目じゃない」
努めて平静を装って言葉を返したものの、心に細い針が無数に突き刺さっているようだった。片恋の相手とその恋人の惚気話なんて、本当なら聞きたくもない。けど所詮私は人形だ。彼に想いを告げられる筈もなければ、聞きたくないと耳を塞いで逃げ出すことも出来ない。結果、私は知りたくもない恋敵の情報がすっかり頭に入ってしまっていた。
彼女はミゲルより三つ年下で、同じく商家の娘らしい。幼い頃から結婚の約束をしていたけれど、ミゲルの家がこんな状態であるため話がうやむやになってしまっているらしい。それでも彼女自身がミゲルの傍に留まることを望んだために今でも交流は続き、彼の心の支えになっているという。ただあまり身体が丈夫ではなく、ベッドの上で過ごさなければならない日も多い。そんな彼女のためにも、一刻も早く家を立て直さなくては――というのが最近のミゲルの口癖だった。
「全く、ベロニカの言う通りだね。彼女に傍にいてもらうためにも、もっとしっかりしなくては」
「……そうね」
私は出来るだけミゲルの顔を見ないようにして相槌を打った。といっても彼がいるのは私の目の前で、私は自分で目も首も動かせないから無理な話だった。彼女の話をする時のミゲルは、例えどんな内容であっても甘ったるく、酩酊したような、どこか夢見心地のような、そんな表情をする。いつからか、彼は私に会いに来ても殆ど彼女の話しかしなくなってしまった。他の話題を振ってみても、いつの間にか彼女の事に戻ってしまう。彼女のことばかりね、と拗ねたように言えば、私のことも愛らしいと褒めてくれた。けれど私はいつも此処にいるだけだし、着てる服だって変わり映えしないからすぐに話も尽きる。一度、彼女と声が似ている、と言われたことがあったけれど、褒めてるわけではないし全くもって嬉しくなかった。もちろん彼と会う時間が楽しみなことに変わりはないけれど、嬉しそうに他の女のことを語られるのは面白くない。
でも同時に、会えるだけまだいいのだとも思った。私は自分の足で歩いてミゲルの元に行くことは出来ない。だから彼が私を鬱陶しいと思えばもう姿を見ることさえ叶わなくなってしまうわけだ。こうして部屋に来てくれるうちは私のことを好ましく思ってくれているのだと、そう自分を慰められる。
「……ああ、ミゲル。残念だけど、私はそろそろお休みの時間だわ」
私の心境など知らぬまま惚気話を続けるミゲルを、私はそう言って遮った。促されて時計に目をやったミゲルは、気付かなかった、と驚き目を見張った。
「もうこんな時間だったのか、ごめんよ。仕方ない、今日はもう帰るとするよ……おやすみ、ベロニカ」
特に後ろ髪を引かれた様子もなく、ミゲルは挨拶と共に私の額にキスを落として離れていく。おやすみなさい、と返した私の声が届いたかどうかも分からぬまま、無情にも扉の向こうに彼の姿は消えていった。
「ひどい人ね」
ミゲルがいなくなって、私の世界は再び闇へと戻る。けれど彼の唇の感触だけが妙に生々しく残っていて、私はどうしてもそれを意識せずにはいられなかった。恋人の話をした後にこんな風に触れるのは無神経ではないか。でもそれは私の感情が勝手にそう思わせるだけで、額へのキスなんてただの挨拶にすぎないことは分かっている。
けれど、時に彼が憎らしくさえ感じられるのだ。いっそ嫌いになってしまえればいい。この恋情も、楽しく話した思い出も、彼の行為に嫌悪感を覚えたことも、何もかも忘れてしまえば楽になる――そこまで考えて、私はふと我に返った。
「嫌ね、どうかしてるわ」
後ろ向きになりがちな思考を打ち払うように、私は声に出して言った。彼と過ごす時間は私にとって宝物だ。その中に嫉妬は含まれていても、嫌なことなどされた記憶は無い。忘れたりしたら、ただ虚しいだけだ。
その時、時計の針がちょうど二時を指した。ボーン、と鐘の音が時を告げる。まるで私の考えが定まるのを待っていたかのようだ。今日はもう眠る時間だ。一つめの鐘で私は感覚の全てを失い、二つめで完全に意識が閉じる。私がベロニカでいられるのは夜中の二時間だけ。これでまた彼に会う時間まで、本当にただのお人形だ。