(1)
――コチ、コチ、コチ。
振り子時計が無機質に時を刻む音がする。規則的なリズムは、膜に隔てられたように少しくぐもって聞こえた。でも、これが次第に鮮明になっていくことを私は知っていた。待ちかねた時間が、もうすぐ来る。蜂蜜をかけた苺のように甘酸っぱく、愛おしい、そして切ない時間が。未だ意識が闇に漂い、自分のことが曖昧にしか感じられない中で、私はその瞬間を切望していた。
やがて、ボーン、と低く鐘が鳴り始める。あぁ、目覚めの時だ。一つめの鐘で私の身体は聴覚を宿し、三つめで埃っぽいにおいを知覚する。六つめが鳴るころには、ひやりとした夜の空気を肌が感じ取った。最後に十二の鐘が鳴り終えると、私は視力と声を手に入れる。そうして私の前に、弾けるようにして世界が広がるのだ。
「今日は、まだ来てないのね」
見慣れた暗闇の部屋を目に映し、私は不満を口にした。自分の身体に空気を取り込む器官があったなら、盛大に溜め息を吐いたことだろう。真似事なら出来なくもないけれど、所詮は音だけで実際に空気が漏れるわけではない。私には無理な話なのだ。声だって辺りに響きはするけれど、喉から発してるわけではない。鈴虫のように身体を震わせて発しているような、不思議な感覚だ。
私の身体は、人とは違う。白い肌は滑らかに磨かれた陶器製、澄んだ青い眼はガラス玉。波打つ金髪だけは人と同じだけれど、それだって自分のものではなかった。私の服はいつでも、フリルがたっぷりあしらわれた青いドレスと、花のモチーフとリボンが付いたボンネット。愛らしく飾り立てられ、チェストの上に座らされたビスクドール――それが私だった。
そんな私だから、自分ひとりでは身じろぎすることもできないし、ここでぼんやりと目の前を見つめていることぐらいしか出来ない。それでも、最近は楽しみなことがあった。毎晩、私が目覚める頃になると訪ねて来るひとがいるのだ。その日によって、意識がはっきりする前から目の前にいたり、逆に少し遅れて私をやきもきさせたりする。それでも、彼は必ずやってきた。
どうやら今日は遅い方の日だったようだ。それほど待たずに来てくれる事が殆どだったけれど、それが分かっていてももどかしかった。早く会いたい。私の手足が陶器なんかでなければ。紐とゴムで繋がれた関節なんかではなくて、血の通った肉体だったなら。そうしたら、今すぐ走って私から迎えに行くのに。そう悶々としていると、ドアの開く軋んだ音がした。
「こんばんは。今日はもうお目覚めかな?」
呼び掛ける声と共に、扉近くのランプが灯された。柔らかな橙色の光の中に、待ち人の姿が浮かび上がる。癖のある金髪は灯りを反射して蜜のように甘く染まり、エメラルドの瞳は憂いを含んでどこか蠱惑的な輝きを宿す。凛々しく整った眉、くっきりとした鼻筋、形の良いくちびる。待ち遠しい気持ちのせいか、今日は一際想い人の青年が美しく見えた。着崩したシャツとベスト、少し疲れたような表情も合わさると色香さえ感じられた。
「遅いわミゲル。私が自分の手を動かせたら、その綺麗な顔を思い切りつねってあげるのに」
桜色に塗られた陶器の唇は決して動かないけれど、私は精一杯の拗ねた口調で彼をなじった。勿論、本気でそんなことを言っているわけではなかったけれど。ミゲルもそれは知っていて、少し苦笑すると私に近寄り髪を撫でた。傍に来た拍子に、ふと煙草の香りが鼻を突く。これだけはあまり好きではなかったけれど、彼の手の感触にそれもすぐどうでもよくなってしまう。
「ごめんよ、色々あったんだ。今日も僕の話を聴いてくれるかい、ベロニカ」
「勿論よ、ミゲル」
ふわふわとした高揚感に酔いしれながら、私は即答した。この時間だけが私が私という存在であり、孤独ではないと教えてくれる。なにせ、ミゲルに会う前の私は、自分の名前さえ持たなかったのだ。
――ベロニカ。彼がそう呼ぶから、私はベロニカだ。その名前が彼の口から発される度に、無いはずの私の心臓はひどく高鳴った。