悪魔の公証人 四ツ角三園の場合
ただすげぇ面倒くさくて威圧的なきったねぇおっさんが色々シバき倒すたけの話。
コメディでもシリアスでもない山なし落ちなし意味なしな夢見がちではないといいながらも非現実に夢を見る少年の話。
「あーあーあーもうつまんねぇなあオイ!何度痛ぇ目にあっても学習しねぇお前らは本当にゴミだなゴミ!とっとと業火に焼かれて消し炭にでもなっちまえばいいってのによぉー」
僕が非現実的な気分を味わっていた最中に振って湧いたのは反響する爆発音とボロボロのジャージを着た薄汚い男でした。薄暗い中ではよくわからないが比較的細身の男で、ぼさぼさの髪とうっすら生えた髭は清潔感を全く感じない。おそらく20代から30代ぐらいに見えるが、それにしては厭世的な声はやたら年季を感じたものだった。
男は切り裂かれたんじゃないかと思うぐらいに顔を横断するほどに大きな口をうっすら歪ませて、僕たちを冷えた視線で刺した。
「超多忙極まりない有名有能超優秀な俺様が来てやったんだ、感謝しろよ蛆虫が」
体温が奪われそうな目線は確実に僕だけを指していて、蛆虫と呼ばれたのは僕だけということは露骨にわかった。
今までの人生も人から馬鹿にされるばかりの僕ではあったが、今日だけは…今日からは違う、今までの僕ではなくなるのに、こんな男がいるのは間違っている。この場に相応しくないこの男はここにいるべきではない。
いつの間にかその視線に縫いとめられていた体と心を取り戻して、僕は男を睨みつけた。
僕と同様に、邪魔をされたことに腹が立ったのか僕が呼び出したソレは低いうなり声をあげて男を威嚇した。
だが、男はそんなことを気にすることなくだらだらとこちらへ近寄り…
「蛆虫同然の人間の分際で俺の仕事の邪魔すんじゃねえ」
そんな言葉と共に僕だけを蹴り飛ばした。
大した力を込めていないはずなのに、原付に撥ねられたぐらいの衝撃を受けて僕は軽く吹っ飛ばされてそのままの勢いでコロコロと転がって壁にぶつかってようやく止まった。
「どこのゴミカスだか知らねぇが、黙って聞ぃとけ」
いつ間にか僕の目の前に立ち、ためらいも容赦もなく僕の背中の上に片足を乗せて男は言った。
「俺は悪魔交渉人であり公証人の梯子道眞」
男は己の名を名乗り、ソレにゾッとするような嬉しそうな笑みを向けた。
「契約、見届けてやるよ」
*************
僕は四ツ角三園、親が面白半分ネタ半分で付けた名前を持つ悩める14歳だ。14歳にしては若干貧弱さを感じる華奢な体躯と特徴のない顔立ちと地味な性格と頑張ると悪目立ちをするなんともまぁ救いようのない平凡な中学生だ。家庭もふつうというよりかは平凡という方がカッチリピッタリはまるような家だ。そんな脇役はなはだしい僕のような人材は得てして息をひそめてこの世の中心から距離を取るか、もしくは見つかっていじめという名のおもちゃにされるかのいずれかしか役を与えられることはなかった。
残念ながら僕は後者になってしまった。
中学デビューなんてしようと思ってはいなかったけれど、それでも人並みの青春ぐらい送ってみたいなんて言う細やかな夢を持っていたのだ。ある日、従妹と帰り道に偶然会い、その時に従妹と一緒にいた猫目の気の強そうな美少女と話していた。僕の名誉のために主張させてもらうが、僕はロリコンではない。しかし、どうやら同級生にはロリペド糞野郎が悲しいことにいたらしい。悲劇的なことにその現場を目撃された結果、そのロリペド糞ゴリラの同級生らの目に留まり、日々使い走りやサンドバックとして人生を消化している。そんな僕を近所に住む従妹の女の子は冷えた目で見るが、僕だって好きでこんな目に合っているわけじゃない。
こんな日常を逃げ出すには環境から逃げ出すのが一番だが、悲しいかな。我が家は平平凡凡を地で行くような家庭である。いじめられたからと言って容易に引越しも天候もできないのだ。もっとも親に相談するという選択肢をしていないが故だが、そんなことはできない。親に心配をかけるとかいうよりも、なんとなく言えないのだ。
ある意味、僕もある点では吹っ切れたというか壊れていたのかもしれない。
親に連れられて家にやってきたらしい従妹が生気を感じない目で読み漁っていた内の一冊を、僕はたまたま拾って、そして返すことを忘れてそのままにしていたのだ。
本のタイトルは「誰でもできる簡単悪魔召喚!」
…できてたまるか。
思わずつっこんだタイトルだけど、小学四年生の女の子が読むのだからそんなものなのかもしれない。悪魔召喚なんていう禍々しいタイトルの割に、表紙はポップ体の丸っこい字体で、デフォルメされた虫歯菌みたいな悪魔のイラストが中央に描かれている大きさも一般的なハードカバーの本と同じ程度の大きさだ。悪魔召喚なのに、なぜか全体的にピンク色だ。あえてこの本を選んだ従妹はどういう悪魔を呼び出す気なのだろう。地味に気になる。小学四年生という年頃ならやっぱり好きな人との縁結びなのだろうか。この本が恋愛方面に特化しているのなら僕はどちらかというと全力で縁を切りたい方向だから方向性は違うかもしれない。
何となしに手に取ってパラパラめくると時折付箋や消せるタイプのペンで丸が付けられているのがわかった。相当読み込まれているらしいことがわかる。従妹らしい筆跡で印がつけられていたのは呪いのアイテムを外す方法だった。何が起こった従妹。
悪魔召喚というタイトルだが、改めて目次を見てみれば望む効能は多岐にわたっていた。
その中には縁結びとか友達と仲直りする方法なんていうほのぼのしたものから世界征服や嫌いな人間を意のままに操る方法だとか神になるための必需悪魔とか人類抹殺にお勧めの悪魔なんていうのもあった。日ごろ冷たい視線しか送ってこない普通のJCである従妹の深い闇が見えたような気がするが僕は見ないふりをして、僕が今必要とする項目へとページを捲った。
「嫌いな人間を消したい」
「自分の思うような人生を歩みたい」
つまらない人間の代名詞のような僕が今望むその二つの項目は、偶然にも同じ悪魔が持つ権能によって叶うらしい。悪魔らしく生贄がひつようらしい。雑食動物の内臓らしいので肉屋で豚のホルモンを買ってきた。僕自身はあまりホルモンとか内臓系の肉は得意ではないので、失敗したら明日は燃えるごみの日だから登校中に捨てればいい。ほとんど現実逃避で成功するわけがないので日ごろは気にすることもないゴミの日なんかを意識してちょこちょこ準備したわけなんだけれども。
部屋で悪魔召喚ごっことか親に見られた日には目も当てられなくなることは予想するに容易い。残念なことに僕の母はノックをせずにドアを開けるタイプで、さらに悪いことに僕の部屋に鍵はついていないのだ。姉の部屋にはあるというのに。部屋を急にみられて困るのは何も女性ばかりでなく男性もそうだと思う。むしろ家族に着替えを見られるよりも生理現象の類を見られる方が居た堪れないと思うのだけれど、どうだろうか。
閑話休題。
そんなわけで、僕は近所の廃工場へ忍び込んだ。季節は冬に差し掛かっているため、日ごろはあまりお近づきになりたくないやんちゃ集団も寒さには勝てないようで、暖かな24時間しているカラオケに入り浸っている。これで僕は心置きなく不審な行為をすることができる。いくら警察であろうとも私有地の廃工場に通報もされなければ来ることもないだろう。
本に書いてあった通りに巻末のおまけページにあった魔法陣をコンビニのコピー機でA3サイズに拡大コピーして、一部空欄に自分が呼び出したい悪魔の名前を書くだけというカップラーメンも真っ青のお手軽さだった。
僕は出荷直前の製品在庫が置かれていただろう倉庫内で拡大コピーをした紙を地面に置いて、さらにその用紙の中央に豚ホルモンをそっと乗せた。
「四ツ角 三園と契約せしめんとする、悪魔の名は『ライム』、ここにいざ現れん」
閉じられた空間内とはいえ、冬を目前として空気は吐息を白く煙らせるほどには寒く、声は幾許か震えた。しかし噛まずにちゃんと言えた。
少しの不安と僅かな期待を抱きながら魔法陣を見るが、何一つ変わらない、生臭さを少々発したままの臓物といくらか湿ったA3コピー用紙があるだけだった。
(失敗したかな?)
四ツ角がそう思っても仕方がないだろう。ダメでもともと、現実逃避程度の軽い気持ちでしたのだから。そもそも悪魔の名前がライムとか、なんだか女の子がペットに名づけそうな感じの可愛らしい語感だ。JCのくせに目が死んでるような従妹とはいえ、年頃の少女というような年齢の娘が読むような本なのだから、そんなものなのだろう。
四ツ角は何も起こらなかったことに少しだけ気を落としながら片づけようと身をかがめた。
『汝が我を呼び出したか』
しゃがれたような年よりのような声が真上から落ちてきた。
『ヨツカド…ヨツカド…お前の望みは何だ』
べちゃりと四ツ角の背後に液状のような粘着質なような何かが落ちた音がした。後ろを振り向けない。
『我を呼び出したはお前か。ヨツカド…何でも言えばいい。何でも叶うぞ。街一つ壊すのも容易い。ヨツカドが憎いと思う人間の尊厳を踏みにじることもできる。お前の望みは何だ?』
老婆なのか老父なのかもわからない、ただ置いた声が後ろから、前から、上から、下から左から。どこからともなく聞こえてくる。怖い怖い怖い怖い。
『恐ろしいか、我が怖ろしいか』
グルグルと嘲笑うソレはどこから送られているのかもわからない視線で四ツ角を視た。
『我はライム。ラウムと呼んでもらってもかまわん。久しぶりの人の子よ、ゆるりとお前の望みを言うがよい。さぁ、面を上げよ』
ソレは、ライムと名のったソレは見た目はカラスのようだが、どこか歪な人のようにも見えた。鳥と人とでは全く違うはずなのに。
『我が怖ろしいか。…ヨイヨイ、まだ年若い人のコともあればそうもあろうよ』
ふたたび不快な笑い声を鳴らしながら、ライムは足を高鳴らした。
すると、陰鬱な雰囲気を漂わせるだけの廃工場の倉庫が瞬く間に上下左右も解らないような暗闇に包まれ、また同時に写真やテレビでしか見たことのないような置く千万の煌めく星に、一帯をふわりと下から上へとゆらゆらと流れるシャボン玉のような空気泡がゆらりゆらりと四ツ角の周囲を漂いながら上へと昇って行った。
足の下も夜よりもずっと暗いのに、それよりも遥か下から上る様子は幻想的で、現実離れしていて、どこか儚げであった。
『我はこう見えて人好きでなぁ?呼び出してくれたお前の願い、喜んで叶えてやろう』
景色に気を取られている内に、目の前の鳥もどきの悪魔は年老いた紳士のような姿に変わっていた。震えがいくらか収まったものの、本能的に感じる恐怖がなくなることはなかった。
『さぁ、ヨツカド。お前の望みを言え』
甘やかすように強請るように問いかけられて、僕はつばを飲み込んで乾いた咥内を何とか動かした。震える体と声を何とか動かそうと力を入れる。
「僕の、僕の望みは、僕を馬鹿にする、僕に逆らう馬鹿どもに思い知らせてやりたい!そして生まれてきたことを後悔するような苦痛を与えたうえでこの世から消してやりたい!!」
一度口にしてしまえば、それはどこともわからないところからどろどろと暗い感情が身を浸していくようで、でもそれは僕の感情を決して邪魔しないもので。
「地味で目立たない僕だけど、もっと僕に力があればきっとみんな僕のことを見てくれる、あんな目で僕を見ることなんてもう二度とないんだ…っ!」
僕はライムと名のった悪魔の目を見た。金色の瞳が大きく開いて僕を見つめている。喜びを隠そうともしないで口は大きく弧を描かせている。
「僕の嫌いな人間をすべて消してやる力と、僕の望むがままの世界を作れる力が欲しい!」
僕が吠えるような叫びを受けて、ライムはゲラゲラと声を上げて上機嫌に笑った。
『良いだろう!我は貴様の願いを叶えよう!!ただし、言うまでもなくタダではない』
そう言うなり、ライムはどこからともなく十数枚に渡る紙を取り出し、僕の目の前に差し出した。
『対価は貴様の魂一つで許してやる。さあ、契約書にサインを!』
ライムは数十枚の内の一番最後のページを枯れ枝のような指先で指し示した。
もう片方の手にはなじみのない羽ペンが握られている。それを問答無用と言わんばかりに僕に押し付けた。
『さあ、サインを!このサイン一つで貴様の人生が変わるのだ!!』
僕たちを包んでいた暗闇と星明り、そして虹色の透明な泡が一層強く深まった。
闇を背景に虹の泡が踊り、星の光が歌うように輝く。
現実とはまるで違う世界に来たような、現実感のない今。
雰囲気に流されるように、僕は今までの僕の世界を変えるためにペンを握った。
見慣れない材質の紙にペン先を置いた。
―――――爆発音
********
『どういうつもりだ若造!我の餌を奪うつもりか!!』
甲高く叫ぶ悪魔は気が付けば現れたばかりの時と同じく、鴉と人の中間というよくわからない姿に戻っていた。梯子と名乗った男は面倒くさそうに僕の背中に乗せていた足を下ろし、カツン、と足音を響かせながらゆっくりとライムと名乗る悪魔の前へと近寄った。
痛む体に涙目になりながら梯子の姿を視線で追った。見た目のボロボロで不衛生な恰好とは反比例しているように、後ろから見ただけでも高級感を感じる革靴を履いていることにどうでもよいことだが気が付いた。
ライムの前まで来た梯子は契約の中断の為か怒りに震える悪魔を目前にしても何一つ怯えることなく、むしろ鼻で笑って見せた。
「いやあ?あんた方悪魔の飯を取るつもりなんざ爪の垢ほどもねぇよ。ぶっちゃけ、俺個人の心情としてはあんた方寄りなんだ。ゴミが減る分には過ごしやすいしな、いいんじゃねえの?どんどん持ってってくれって感じだ。自分で自分の食べる飯の都合することの何が悪いのかわかんねぇ」
だいたいあんた方と関わるような屑共なんざ、手をかける必要性すら感じないもんばっかだしな。
そういって梯子は僕を振り向きざまにくだらないものを見たと言わんばかりに顔をしかめた。どこのだれともわからない男にクズだの蛆虫だの言われなきゃいけないのもわからないのはこっちの方だと強く主張させていただきたい。
『ならば何しに来た、ハシゴミチザネ。我は望まれて人の子と契約を交わすのみ。立会人など不要よ』
ライムが自分に敵意がないことがわかってか、いくらか怒気を治めたようだ。それでも警戒心は緩めていない。梯子も承知していると頷いた。
「さっき名乗った通り、俺は対:悪魔の交渉人であり公証人なわけよ。交渉してんのかしてねぇのかわかんねぇが、どう見てもド素人と契約しようとしてんだろ、あんた」
梯子がそういうと、ライムは警戒心を強めた。心なしか重力が増したような体のだるさを感じた。変な汗がじわりと額から流れたところで、梯子は相変わらず汚物を見るような目で僕に「オイ」と熟年夫婦かと言うような声をかけた。相変わらず転がったままの僕であるので、顔をわずかにあげて反応を示すにとどめてみた。
「羽虫、お前契約内容わかってペンとってんのか?」
羽虫って僕のことか。それはスケールダウンしているのかアップしているのか今一よくわからない。だが余計なことは言うまい。蹴られるのは御免だ。僕はライムの圧力を無視して首を振った。
梯子はこれから休み時間に入ろうとした生徒が教師から次の教室に教材を持っていくように指示された時のように不機嫌な態度を露骨にし、おまけに舌打ちをした。確実にその舌打ちの先は僕ですねわかってきていますよ。
梯子は辛うじて開いていないジャージのポケットから煙草を出し、無遠慮に火をつけた。
誰に気を配ることもなく、それに口をつけて、ゆっくりと煙を吐き出して、梯子はかったるいと言わんばかりにライムを視た。
「ここ数年、増えてんだよ。悪魔呼び出すってぇのがどういうことなのかわかんねー癖に軽いおまじない気分でするやつ。そういうゴミが増えていることそのものが問題ではあるんだが、それに乗じて契約も碌に確認させずにサインさせて、相手が望む対価を払わずにモノだけ奪う輩も増えているそうだ」
梯子は一度吸っただけの煙草を落としてゆっくりと火元を踏み潰した。
足元からゆっくりとライムへと顔を上げて、後ろから見ても解るぐらいの切り裂かれた口先だけの笑みを浮かべてみせた。
「あんたは、そういう輩じゃあないだろ?もちろん」
誰に向けているのかわからない嘲笑に、ライムは右腕を持ち上げ薙ぎ払うように梯子へと振り下ろした。
『部外者が、契約に口をはさむな。契約書にサインさえしてしまえばそれこそ成されたモノで文句などつけるものでもないだろうが!!――ッ!?』
叫ぶライムの鴉のくちばしに、梯子はいつの間にか火をつけていた二本目のたばこを突っ込んでいた。当たり前みたいにライムの攻撃をよけて、不自然なくらい自然な動きでライムを抑え込んだ。
そしてかったるいという気持ちを隠そうともせず、むしろ露骨にまで示して、梯子は羽を折るようにライムを取り押さえた。
「うるせぇな…こちとらお前らがちゃんとまともな契約してりゃあこんなくだらねぇことに一々一々ちまちまちまちま足運んだりなんざしねぇんだよ!!!」
ポキ
思いのほか軽い「何か」が折れる音がした。
「だいたい一々まともな呼び出しじゃねえのにホイホイ出てきてんじゃねえよ!テメェらはやっすい魂刈り取るのが仕事でもねぇだろうが!何が悲しくて本業差し置いてこんなくだらねぇことの調停だの契約内容の見直しだのなんだのやらなきゃなんねぇんだよふざけんなゴラ!!!」
ポキポキポキポキ
梯子の怒りに合わせて聞こえる折れる音は軽い。中が空洞の物を無理やり折るような音だ。
ライムの老婆だか老父のような悲鳴のような声が聞こえるが、それすらも遠いようで現実感を感じない。そういえば従妹が言っていたっけ。鳥の骨は軽量化されているんだっけ。
「やってらんねぇ。本当にマジこんなくだらねぇことさっさと終わらせるぞ」
ヒィヒィと鳴くライムに警戒もなく背を向けて、梯子は散らばった契約書を拾い集めた。
拾い集めながら内容に目を通し、時折舌打ちをしているあたり、碌な内容ではなかったのだろう。梯子は何の躊躇もなく、ライムの体を覆う鴉羽を勢いよく何本か引き抜き、悲鳴を上げるライムを気遣うことなくそこからじわりと出てきた血に毛先をつけ、契約書の一部を上書きしていった。心なしか梯子がライムに触れた部分から黒い靄のようなものが出ていてめちゃくちゃ痛そうだ。悪魔の表情なんてわからないので適当だが。
「まー糞どもがどうなろうがどうでもいいが、この程度ならまぁ許容範囲だろう」
そういって梯子が先に僕に契約書を渡した。そのころには僕もなんとか上半身を起こすことができていた。手渡された契約書は見たこともない言語で、渡されたところで何が何だかさっぱりわからない。そんな僕に『わからねぇもんをなんでわざわざするんだ基地外め』と毒を吐いて、大まかな契約内容を口頭で説明してくれた。ぶっちゃけよくわからない。
そんな僕の様子を気にすることなく梯子は「こんな内容だが異論はねえな」と言って僕の了解も得ずにライムに契約書の確認を促した。いくつか渋い顔をしていたライムだが、それでも割とすんなり同意した。
梯子はさっさと帰りたいオーラを隠すことなく、僕に先ほどの羽ペンを握らせた。さっさとサインをすればいいのかとインクはどこかと視線の通りすがりに梯子の手を見たところで、ついでに梯子の顔をみた。糞どうでもよさそうな顔だった。それでも、面倒くささを隠しもせずに、梯子は適当に契約内容について説明してくれた。
「お前みたいなゾウリムシ野郎でもわかるように言うと、一番でかい変更点は、お前がライムとの契約で与えられた力を行使したら、お前の何の価値があるかもよくわからねぇ魂をライムに引き渡すっつー内容だな」
「前は何だったんですか?」
「契約した時点でお前は死んで体と魂共々悪魔の腹の中行き」
まぁ、お前に似た「ナニカ」がお前の野望を引き継ぐかもしれなかったけどな。
そう言って梯子はそれでもいいならサインしろを促した。
ちらりとライムに視線を移せば、全力で帰りたいという態度を示していた。
『どうするヨツカド……早く決めろ』
ライムの様子と梯子の態度を見て、そして僕は目の前の肉屋で買ったホルモンを見た。
そして唐突に思ったのだ。
――――豚ホルモン200gで出来る復讐ってなんだ。
そう思うと、途端にどうでもよくなった。急にと言うほどに、僕はこの悪魔召喚について関心がなくなってしまった。できる事なら今すぐに家に帰ってさっさと寝てしまいたい。寒いし。
僕は手渡された契約書を躊躇せずに真っ二つ…というには歪だが、まぁとにかく破った。
「なんかもういいです」
中二病的な復讐とか、僕らしくない。
ヒーローになりたいわけではなかったし、嫌いな奴をどうにかして幸せになるとも思えなかった。楽にはなるとは思うけれど、それだけなのだろう。
逃げる方法だって、こんな非現実的なことばかりじゃないはずだ。
だって相手は糞ペドロリゴリラなのだ。僕がいじめられている証拠なんてどれだけでも手に入る。
「すみません、ライムさん。僕、契約できません」
『……二度と我を呼び出すな』
なんだかよくわからないけど、僕もライムもズタボロだ。
さっさと帰りたいという気持ちは共通しているのだろう、悪魔がそう簡単に引き下がるとは思いもしていなかったけれど、さっさとそういうなり消え去ってしまった。
気が付けばあの幻想的な光も泡も何もかも消えて、残っているのはズタボロの僕と、うす汚いおっさんと、そしてガランとした工場とどうしたらいいのかわからない豚ホルモン200gだけだ。梯子も悪魔と一緒に消えれば夢と錯覚できたのだが、やっぱり現実は甘くない。
「余計な手間かけさせやがって塵虫が」
梯子はそういいながら再び僕を容赦なく蹴り飛ばした。
ゴロゴロと再び壁にぶつかり声にならない悲痛な声を上げる僕を梯子は見降ろした。
「たまたまだ。たまたま、俺がここに来ていたからてめぇのダンゴ虫よりも無駄な命がここにあるんだ。二度はない。俺は暇じゃねえ。個人的にはお前みたいな考えなしの屑なんざ餌にでもなった方がよほど有意義だとすら思っている。偶然とか夢だとか都合のいいように思い込むな。迷惑だ。死ぬなら勝手に一人で死ね」
抑揚もなく吐き捨てて、梯子は最後にもう一度僕を蹴飛ばして音もなく消えて行った。
夢と思いたくても、全身が痛む。どうにもこうにも夢にはなりそうもない痛々しい現実しか、僕には残されていなかった。
しいて言えば、あの梯子道眞という交渉人が“僕”を消し去ることを無くしてくれた。
それに感謝するべきなのかどうなのか、未だによくわからない。
その後、僕はやっぱりいつものように糞ペドロリゴリラ野郎どもに殴られたし蹴られたしノートは取り上げられたしカツアゲもされた。
僕が次に手に取った本はファンシーなピンクの背表紙の悪魔な本ではなく、元いじめられっ子がいじめっ子を陥れた方法が書いてある実用書だ。幸いにも、僕をいじめる奴らの親はそこそこ資産家もいるようだし、僕も強気でいいんじゃないかと思う。
蛆虫みたいでゴミクズみたいな僕だけれども、世の中にはそんな人間がちらほらいて、僕とは違う結末になった人もいるのだろう。でもきっと、非現実的な体験をしたからといって超人的な人間になんてなれるわけがなかった。
でも、非人道的な人間には誰でもなれると思うんだ。きっと。
僕はこの数か月で手にした様々な交渉道具を確認して、校長室の扉を叩いた。
この世の仕組みはきっと、彼らから見たらクズでゴミでどうしようもないのだろうけれども、きっと僕はもうためらわない。
入室許可を得て扉を開いた僕は、室内にいるのがゴミクズどもと、その製造元と確認して、出来る限り優しく見えるように微笑んだ。
「示談金のご用意はできましたか?」
既にボロボロになっているヤツらを見て、僕は差し出される彼らの将来を守るための金額を示すよう促した。
後日談というか蛇足てきな話を活動報告に乗せる予定。
基本的に自己満足な話だったのでまぁいっかと。