現代日本の弱肉強食と、サバンナのライオンの前との違い
四週前ぐらいから週刊少年ジャンプで連載を始めた『ものの歩』という漫画が、個人的にすごく面白い。
普通に少年漫画としてクォリティが高いというのもあるのだが、個人的に面白いと思うのは、この作品に込められたメッセージ性だ。
週刊少年ジャンプと言えば、過去は「努力、友情、勝利」を三大テーマにしていたものだが、最近はここから「努力」が抜けてきたという指摘を色んなところでちらほらと見る。
それが時代に合わない、読者から要求されない時代になってきたのだ、という話で、僕としても正直努力とかどうでもいいし、強い主人公が悪いやつをスカッとやっつけてくれればいいよ、なんて思っていた。
時代劇が好きだし、シティハンターが好きだし、るろうに剣心の最初期が好き、という子どもだった。
今でも、努力、努力と言われても、ちょっといまいちピンとこないものがある。
現実でも、方向性を間違った努力をしたってあまり意味ないと思うし(もちろん「あまり」であって、人生のあらゆる経験に無駄はない、というような見方からは、無駄ではないよ、ということになるのだが……それでも、コストパフォーマンスが合わないとは思う)。
努力をした先のワクワク感がない努力というのは、何らかの強制力がないと続かないものだと思っている。
押しつけのべき論や義務感というのは、人がとても大変なこと(とてもストレスが掛かること)をするための原動力にはならないと考えている。
人が何かをとても大変なことを為すための原動力は、何かを「やりたい」という願望しかないと思っている。
とある元人気芸能人が、「男の原動力は、金と地位と女。この三つしかない」というようなことを言っていたことがある。
金にも地位にも女にも強い願望を呼び起こされない男は、頑張るための原動力を持たないということで、ああなるほどなぁそれで自分は、と思ったりもしたのだが。
閑話休題。
そんなわけで、週刊少年ジャンプから「努力」が半ば失われかけて久しい気がするのだが、そこにきて『ものの歩』である。
この漫画は、「努力」と似て、しかし少し異なるテーマを持って来たように思う。
何かというと、「不屈」だ。
僕はこれを、現代日本社会で生きるための非常に重要なファクターであると思っていて、そこにこの漫画が来たので、これを今の少年たちに見せようというスタンスが、とても面白いと思ったのだ。
何度叩かれても潰されても折れずに、何度も何度もケロッと立ち上がって、何度でもチャレンジする。
失敗や敗北のたびに、その原因を追究し、あるいは成功や勝利の方法を思考し、再挑戦する。
これが徹底してできる人間は、現実社会においても、わりと最強に近いと思っている。
というか、およそどんな環境にぶつかっても、これができる人間はいずれエリートの一角ぐらいにはなる運命にあるという、そんな印象だ。
何かを為すにあたって、一切の失敗も敗北もしないというのは、およそ不可能に近い。
必要なのは、失敗や敗北をしたときに、そこで折れずに、さらに前へと進む力だ。
そう思って考えてみると、今週刊少年誌で連載している漫画の中にもう一つ、同じテーマを扱っている作品があることに気付いた。
週刊少年マガジンで連載中の、赤松健・作、『UQ HOLDER』だ。
この作品は概ねバトル漫画なのだが、主人公は「不死身」である。
何度死んでも蘇る体を持っているわけだ。
パッと考えると、不死身の主人公は絶対に負けないのだから、どんな敵にでも絶対に勝ってしまうように思う。
が、これはこの漫画を読めば、誤りであることに気付く。
何度再戦しても勝てない相手には、何度蘇っても勝てないのだ。
いや、もっと厳密に言おう。
何度再戦しても勝てない「と思って」、心が折れて再挑戦する気力を失ってしまったら、その時点で負けなのだ。
……さて。
これは現代日本の現実社会で、僕らが直面している環境と、かなり近いように思う。
現代日本は基本、資本主義社会なので、弱肉強食の世界である。
しかし制度上は、弱者は強者に食われるといっても、物理的なレベルでは「死なない程度にしか食われない」ようになっている。
もしそれでも死ぬとしたら、それは苦境に心が折れたときであろう。
つまり、何度負けて何度食われても、その気になればもう一度──いや、もう何度でも強者に刃向うことが、物理的には可能なのだ。
心さえ折れなければ、その気になりさえすれば、敗北しても敗北したと思わなければ本当の意味での敗者にはならないというのが、現代日本社会の裏のゲームルールであると思う。
これは例えるなら、僕らがサバンナのライオンの前に、「不死身の体を与えられた上で」立たされているという状態に近いと思う。
ライオンぐらいなら、不死身の体を持っていれば倒せると思うだろうか。
でも負けて食われれば死ぬほど苦しいし、倒せるまでには何度も何度も食われなければいけないかもしれない。
じゃあと言って、「ひっ、ひぃっ!」と悲鳴を上げて四つん這いで逃げたら、ライオンは見逃してくれるだろうか。
見逃してくれるかもしれないし、やっぱり食われるかもしれない。
逃げても逃げても食われ続けるのと、立ち向かって食われ続けるのと、どっちが嫌だろうか。
不死身の体を与えられているというのは、ある意味で残酷だ。
何度も何度も永久に、食われる苦しみを味わわなければいけない。
そういう意味では、一思いに殺されてしまう時代の方が、まだ楽だったのかもしれない。
現代社会で生きる上で、おそらく一番楽な生き方はと言えば、ライオンなんぞ軽く蹴飛ばしてしまえるぐらいに自分が強くなることだろう。
それができりゃあ苦労はしないという話だが、それでも何度も立ち向かっていれば、多少の戦い方は身に付くだろうし、ライオン相手の攻略法ぐらいは見えてくるだろう。
ちなみに、『ものの歩』ではほかにも、現代社会での生き方を、これでもかと教えてくれている。
例えば、「この一局で俺が勝ったら、大会は諦めろ!」と言われた主人公は「お断りします!」ときっぱり答える。
実にカッコイイ。
僕らは言えるだろうか。
相手に対する悪意も非難も持たず、ただ純粋に、自分のために言う「お断りします」という言葉を。
あなたが何と言おうと、僕が何をするかしないかは僕が決める──そういう意志を、ただシンプルに示すことができるだろうか。
ほかにもこの作品には、まだたった四話にして、名言のオンパレードだ。
「人の言うことを聞くのが真面目だと、信じてきた。だから何も手に入らない」
「そもそもやりたい事をやるのに、許可を得ようというのが間違いでした」
「ばあ~っか! 夢なんて全世界に否定されて当たり前。お前がやりたいか、どうかだろ!」
「言われてやめる位ならやめればいい。……僕は義務を果たしただけさ」
僕は、『夢』なんて言葉は基本的に胡散臭いものだと思っているが、この作品が語る『夢』だけは、胡散臭くないと思う。
多少のご都合主義に彩られてもいるが、それでもここには、この作者が夢を追うことによって直面した壁と、その壁の乗り越え方とが描かれているように思う。
人から何かを言われたら、そのようにしなければならないと思ってしまう。
真面目な人間ほど、そういう過ちを、大人になっても犯し続ける。
人から言われたとおりに、みんなが言っている通りに物事をやって、それで失敗したら人のせい、世の中のせいにする。
そんな生き方は絶対、楽しくない。
人から何と言われようと、自分が何をするかは自分で決める。
だけどその結果起こったことは、自分が決めたことの結果として受け入れる。
失敗も成功も、敗北も勝利も、非難も称賛も、受け入れてまた、前に進む。
そんな生き方こそが、僕らが楽しい人生を送るための、たった一つの冴えたやり方なのかもしれない。