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前に化学教師が言っていた噂だろうか。僕は知らなかったから、素直にかぶりを振る。先輩がこんなにつらそうな顔をする噂というのは、つらい内容のことなんだろうか。
「先輩が図書委員の仕事を全部代わってくれるって噂なら先輩から聞きましたけど」
先輩がその噂とやらについて口を開く前に僕が先に言葉を発すると、先輩はきょとんとしてそれから笑った。悪戯をした子どもにお姉さんがびっくりさせられて笑っているような笑い方だった。
「それは噂って言わないんじゃないのかな。もう、君ってば」
微苦笑を零す先輩は、さっきのつらそうな表情はもう、浮かべていなかった。
「――先輩にどんな噂があったって、今のところそれを知らないし、それで何が変わる訳でもないと思うから、言わなくていいですよ」
僕の言葉に、先輩はうんと頷いた。あのまま先輩に話を続けさせていたら、先輩は泣いてしまっていたのではないかと思う。先輩が涙で溺れることのないように、僕は止めた。本当は、僕が先輩の笑顔以外を見たくなかったからなのかもしれない。先輩がまた、穏やかに微笑を零したのを見て、僕はそれでも良いと言い聞かせた。
十一月は図書室で先輩に教えてもらいながら勉強したおかげか、期末テストは中間テストの時よりは手応えがあったと思う。解きながら答えが判る問題が多いことに嬉しくなって、テストが終わってすぐの放課後に僕は先輩にテストの手応えを報告していた。
「君は注意力が足りないのよ。言葉の裏に含まれている意味を考えれば、君なら何を問われているのか解るはずなのに」
先輩はそう言った。落ち着いているように見えて、僕は意外にも落ち着いていないらしい(そんなことはないと思うんだけど先輩曰くそうらしい)。
「もともと成績もそんなに悪いわけじゃないから、君の言う『良い子ちゃんの顔』も、外さなくて良さそうよ」
期末テストの自己採点を先輩と一緒にやっている時に先輩はそう言って微笑んだ。僕が大人の前では「良い子ちゃん」の顔をしていると僕が言っても、それに驚きも否定もせず、それが君の生き方なんだね、と穏やかに肯定を返した先輩は、まだまだ子どもだねとも言った。
「ね、君の言う『大人』っていうのは、どんな人のことを言うんだろう?」
先輩はふと真面目な声で僕に尋ねた。表情は穏やかなままなのだけど、やや下を向いて僕の問題用紙とそれにメモした僕の回答を採点しているせいで、僕から先輩の目の表情までは見えない。
「君はどうして大人の前では、良い子ちゃんのふりをするの?」
僕は口をつぐんだまま、何て説明するべきか考えた。でも考えても理路整然と説明するのは難しそうだったので、微かに息をつくと、僕は思いつくままに話した。
「『大人』は、子どもを解っていない。子どもが大人を解るのはとても難しいけれど、大人が子どもを解るのは難しいことではないと思うんです。大人は、子どもだったことがあるのに、子どもの気持ちが解らない。どうしてなんでしょうね」
先輩は顔を上げて僕をじっと見つめた。僕は先輩を見ることができなくて、頬杖をついて明後日の方を見る。
「いずれは大人になるけれど、大人になったら子どもの気持ちを忘れてしまうんでしょうか。大人の理屈と大人の論理を押し付けてきて、大人の許容の中で子どもは子どもらしくいなければならない。大人の望む子どもでなければ世間を渡っていけない。けれど、いずれそういう、大人の常識を押し付ける大人に、嫌でもなるんでしょうか」
僕は、そんな大人にはなりたくない。だから、子どもなりに大人を欺く。良い子ちゃんのふりは、僕の細やかな抵抗だ。大人にはバレているのかもしれない。これも、大人の許容の中のあがきなのかもしれない。それでも僕は、良い子ちゃんのふりを止めない。
「君は、大人は完全だと思う?」
「まさか。完全なら、子どもの気持ちは解るはずですよ」
「そうかな。完全だと思っているから、子どもの気持ちが解ると期待するんじゃないのかな」
僕は言葉に詰まった。先輩の言っていることは、正しいような気がした。完全な存在であるはずの大人が、子どもの気持ちも解らない。それは大人に期待しているから出てくる感情で、そして僕は、大人に解ってほしいと、願っていることになる。
――恥ずかしい。ただのわがままをこねる、子どもだ。
カッと熱が頬に集まっているのが判った。僕の頬は紅潮しているに違いない。夕日で誤魔化せるかは判らないけど、先輩には僕がわがままな子どもであることを知られたくないと思った。
「……大人の世界は、子どもには解らないか……」
先輩がふっと呟いた。僕は視線だけを先輩に向けて、目を瞠った。先輩はどこか遠くを見るようでいて、切なそうでいて、僕をとても愛おしいものであるように、見ていた。
「大人はずるいわ。成長すれば、経験すれば君も解るよとメッセージを発するの。だから子どもは、大人は何も解ってないと思うんだわ。子どもが経験していないことを大人は経験していて、子どもがまだ経験していないことを大人は解っているはずなのに、どうしてそんな意地悪を言うんだって。
子どもの私はそれを解りたくて、必死に大人になろうとした。そして大人になってもそれが、良いものだとは思えないの」
自分自身を抱きしめるように先輩は右手で自分の左の二の腕をぎゅっと掴んだ。ブレザーの上からでも先輩の華奢さが判る。




