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いつの間にか文化祭は終わっていて(結局当日も僕は出席しなかったし、その後の打ち上げなんて話すら回ってこなかった。僕に打ち上げるものなんてないから構わないんだけど)、十一月末の期末テストに向けて、不思議の国のアリスに出てくる帽子屋とネムリネズミ、三月ウサギが繰り広げる狂ったお茶会のように、毎日毎日つまらない授業を繰り返す日々が戻ってきた。だけれど物語と違うのは、時間に嫌われて永遠にお茶の時間ということはなく、テストの日は確実に迫ってきていることだった。
僕は文化祭後も変わらず図書室に入り浸っていて、先輩に勉強を教えてもらっていた。僕の苦手な化学が先輩は得意なようで、不思議と先輩に教えてもらうと、担任でもある化学教師に教えてもらうよりも、すんなり頭に入ってきて僕は覚えることができていた。おかげで授業中に当てられても答えられることが多かった。
「――まだ、図書室に顔を出しているのか?」
授業の終わり、担任でもある化学教師に職員室まで呼び出され、僕はそんなことを訊かれた。
「彼女にはあまり関わらないようにと、言ったはずだが」
メタルフレームの奥から僕を見てくる彼の目は、僕の目を通して僕の中にまで入ってくるかのような錯覚を与えた。体の内側を見られているような、探られているような感覚に、僕は微かに身震いしそうになる。
「でも先輩、勉強を教えるのが上手なんですよ」
僕の反論とも取れる言葉に、化学教師は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、ため息をついた。深く長く吐き出されるそれが通る道なのか、彼の息で僕の前髪がひらひらと揺れる。本当にやめてほしい。
「だとしても、君に良い影響ばかりであるとは思えない部分が散見されている。君は授業中に上の空の時が多いそうだ。他の先生方から報告が入っている。気をつけなさい」
大人の前で良い子ちゃんをずっとやってきた僕は、何も言わずに頷いた。一体どこにそんな影響を先生方が見ていたかは分からないが、僕は気を付けることだけに頷いた。授業中に上の空にならないよう気を付けていれば、先輩に会いにいっても良いと僕は解釈したからだ。
その時、職員室に当の先輩が入ってきた。期末テスト前のため、職員室は入ってすぐくらいのところで床にビニールテープが貼られて半円の線が引かれており、生徒のそれ以上の入室を禁止していた。だから化学教師と僕はその半円の左側で話をしており、先輩は右側でお目当ての先生を呼んでもらっているところだった。
流石に本人を前にして話をするのは気まずいのか、化学教師が口の中で適当にもごもご言って(教室に戻りなさいとか、そんなことを言ったような気がする)、白衣を翻すと自分のデスクの方へ戻っていった。
僕は先輩の方を振り返る。先輩は、こちらを一ミリも見ていなかった。化学教師がいなくなっても、先輩は僕の方は向かない。僕が先輩の横顔を見つめている間、先輩はマネキンか何かのようにじっと一点を見て自分が呼んだ先生がくるのを待っていた。グレーのスーツを着た、ややお腹が目立つ中年男性の先生が、藤木、と先輩の名字を呼んで、何か質問か、と理由を尋ねる。先輩は先生の方を向いて質問をし始めた。
無視、だろうか。
僕は先輩に話しかけるタイミングを失ったまま、失礼しましたと小声で言うと職員室を後にした。後から先生に質問する先輩の少し高い、でも落ち着いた声が僕を追いかけるように、否、追い立てるようにやってきた。僕はそれを振り払うでもなく掻き集めるでもなく、僕が歩くことで起こる風に遊ばせたまま、教室へと戻っていった。
その日の放課後、恐る恐る図書室を覗いた僕を、先輩はいつもの通りに迎え入れてくれた。少しばかり拍子抜けしたと同時に安堵した僕は、職員室でのことに触れることはせずに、先輩にまた勉強を教わったのだった。
「……今日の職員室でのこと、怒ってる?」
先輩がぽつりと呟くように言った。僕は教科書にある公式をノートに一生懸命書いていて、そろそろ電気でも点けようかと思っているところだった。え、と顔を上げて先輩を見ると、先輩は僕から顔を逸らして苦しそうに眉根を寄せていた。夕日を背にして、影になった先輩の顔から表情を読み取るのは少しばかり難しい。
「君に声をかけなかったこと」
あぁ、と僕はペンを置いた。先輩がその話題に触れてくるとは思わなかった。図書室に僕を普通に迎え入れてくれたことで、僕が何かしでかしたわけではないのは解ったし、何か理由があったのかなと思っていたから。
「事情があったんじゃないんですか」
僕がそう答えると(思っていたより掠れた声だった)、先輩はこく、と頷いた。いつも微笑んでいる先輩がこんなに苦しそうにしているのは初めて見た。何かあったのだろうか。
「……君は、私の噂を、知ってる?」




