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先輩は、変なことを言う。
自分は幸せだったのに、僕には同じ幸せは味わわせようとしない。
僕は先輩と過ごした図書室で、先輩が飛び降りたあの日から二か月経った今、写真の撮り方や保存方法などを記した本に挟まっていた先輩の手紙を手にしていた。それを折りたたんで僕はブレザーの右ポケットにしまう。
――大人の世界は、子どもには解らないか――
以前、先輩が言っていたその言葉。先輩もあの化学教師に言われた言葉だったのかもしれない。
先輩のその言葉は、大人になったから出たものか、子どもだから出たものか、僕にはずっと判らない。
僕は焼きついたまま離れない先輩の姿を思い出した。
色素の薄い、長い髪。切り揃えられた前髪の下でいつも優しく微笑んでいた、長いまつげに縁どられた形の良い目。その間から伸びる通った鼻梁に視線を誘導され、辿りつくのは赤い唇。それは緩く優しく弧を描き、白皙の肌を際立たせていた。その先に進めば小さな顎がフェイスラインの美しさを強調し、白く細い首筋が伸びた先からは、生徒である証が続いていた。卒業しなかった先輩は今も、この学校の生徒のままだ。
先輩はよく、学校という「箱庭」でそれだけが世界の全てと信じて生きる生徒たちを「無垢な者」という意味で「アリス」と呼んだ。彼女たちアリスは、きっかけさえあれば、簡単に好奇心につられてシロウサギを追いかける。その途中でどんな困難があっても、アリスはシロウサギを探して女王の庭へと迷いつくのだ。
先輩は僕をアリスだと言ったけれど、僕にとっては先輩の方がアリスだった。彼女もまた、化学教師というシロウサギに魅入られたアリスだったのだから。
それでも、先輩は僕にとってのシロウサギであったことも事実だろう。僕はアリスがシロウサギの家にはまりこんでしまったように、先輩に心惹かれていって抜け出せなくなっていた。けれどそれは、先輩もきっと、同じだったんだと思う。化学教師に心惹かれて抜け出せなくなっていた。そして女王のタルトを盗んだジャックとして、告発された。
大切な人を、そしてその大切な人が大切に想う人を傷つけたくなくて、先輩は自分の罪を断罪する裁判から逃げ出した。物語のアリスは、どのような場面でもへこたれることはない。自分を叱咤して次へと進む力がある。大人の理不尽な理屈に、アリスは反論し、裁判の最中に物怖じせずに王や女王がトランプのカードであることを指摘して、夢から覚める。先輩は、アリスからシロウサギになりかけていたから、大人の理屈が解って反論することができなかった。そして彼女は夢から覚めるために、自ら現実へ戻る手段をとった。
先輩は、大人の「常識」に翻弄され、大人になった。女性になった。けれど見た目は子どもの証を纏って子どものふりをして、周囲を騙した。子どもの皮をかぶった大人は、けれど大人になりきれなくて、子どもを卒業するその日に、自ら夢から覚めようと強硬手段をとった。だから先輩はアリスに近くて遠かったのだろう。
さしずめ彼女は、アリスの残骸。
――「子どもを甘くやさしい気だてにするのは甘くておいしいキャンディよ。おとなって、このことがぜんぜんわかっていないのよ」
僕はいつか、先輩の言葉が解るようになるだろうか。
僕もいつか、先輩の言葉を紡ぐことになるだろうか。
子どもの頃の気持ちを忘れて、大人の常識を押し付ける大人になるのだろうか。
それとも先輩のように、なるだろうか。先輩が残した言葉の意味を知るために、先輩が味わった幸せを、僕も味わうために。
ガラッと扉が開く音がした。僕はその音に顔を上げ、ちらりとそちらを見やる。濃い緑色のネクタイをした少女が、僕を探してきょろきょろしていた。僕の可愛い可愛い後輩だ。
「どうしたの。当番は代わったはずだけど」
僕が声をかけると、少女はぴくりと反応してこちらを向いた。それからぱたぱたと小走りにやってくる。
「有栖川先輩~!」
僕を呼ぶ高めの声の後に、艶々のまっすぐな黒髪がなびく。僕がそれに目を奪われていると、彼女はあっという間に僕の目の前まできた。僕と同じくらいの背丈の、小柄な子だ。
「明日、風紀委員の制服検査があるらしいんですよ~。私初めてなんですけど、このくらいのスカート丈で大丈夫ですかね。うちの女子高の制服って、絶対スカート短い方が可愛いと思うんですけど、大人には解んないんでしょうね~厳しいですよね~。有栖川先輩も美脚なんだからもっと出したら良いのに~」
ぷぅっと頬を膨らませる姿がおかしくて僕が笑うと、彼女は心外だとばかりに更に頬を膨らませる。更に僕がそれを笑う。いつしか彼女も、頬を膨らませるのをやめて笑っていた。
僕はまだ、現実にいる。
夢から覚めない限りその世界はずっと、アリスにとっては現実であり、総てであるから。
終




