死んでしまえ
『死んでしまえ』
拓海はずぶ濡れになりながらも死ぬ気で走っていた。喉は焼け付くように痛み、脇腹は引きつって鈍い痛みを発していたが止まるわけには行かなかった。止まると本当に殺されてしまう、拓海は必死で足を前に出し続けた。
拓海の後ろから壊れたコンプレッサーの様な轟音が響いてくる。拓海は恐怖に取り付かれて後ろを振り返った。身長が190cmはあろうかと言う大男が全力で拓海を追いかけくる。
大男は深い緑色をしたモッズコートと真黒なダボダボのズボンを履いており、その髪は何ヶ月も切っていない様子で鳥の巣のようであった。拓海を一心に捉える大男の目は獣の様に光っており、その手には先のとがった傘を槍のように構えていた。
追いつかれれば殺される拓海の直感的が囁いていた。
拓海は全力で走りながら記憶を遡っていた。拓海はあの大男の事を知らない。自分が追いかけられる理由が見つからなかった。何故自分が追われなければならないのか? 拓海は必死で考えていた。
拓海が始めてあの大男と出会ったのは、今朝の電車の中であった。
「拓海、拓海、起きてよ」
電車の揺れで気持ちよく眠っていた拓海を彼女の声が現実に引き戻した。拓海は少しイラつきながらも彼女の声に答える。
「何?」
「あっちの奴、ずっと睨んできてるんだけど」
彼女の目線の先、ガラス越しに見える隣の車両から大男が拓海を睨みつけていた。
「誰あいつ、拓海の知り合い?」
「しらねえよ、あんな奴、お前の元彼じゃねえの?」
「やだ、キモイ、そんなわけ無いじゃん」
「ただの変質者だろ、お前もあんま見返すなよ」
拓海は大男から意識を外すと再び眠った。
目的の駅に着き、改札を抜ける際、拓海は後ろを振り返ったが大男の姿は無かった。
駅を出てからも彼女は不安そうに辺りをキョロキョロ見渡した。
「大丈夫だよ、もういないって」
「なんだったのあいつ、気持ち悪い」
「お前の事、おかずにしてたんだろ」
「馬鹿、拓海ったら」
駅の外は雨が降っており拓海は傘を差して彼女を家まで送り届けた。
昨日は一日中彼女とデートしており、夜遅くまでホテルで色々していたので寝不足であった。拓海は家に帰って夕方まで昼寝しようと考えていた。
そのとき不意に背後から突き刺さるような視線を感じた。電車で見かけた大男が立っていた。大男は雨が降っているのに手に持った傘をささずにじっと拓海を睨みつけてた。
得体の知れない恐怖を感じて拓海は全身からサブいぼが立った。
拓海は急いで振り返ると早足でその場を離れた。しばらく歩き続けたが背中に感じる視線は消えることが無かった。
雨の降っている朝の住宅街はほとんど人気が無く、拓海をよけいに不安にさせた。
拓海は立ち止まり、思い切って振り返った。
「なんだよ? お前?」
大男も立ち止まり無言で拓海を睨みつけている。
「気持ち悪いんだよ! ついてくるんじゃねえ!」
拓海は大男の顔をまじまじと観察したが、まったく見覚えが無かった。
「誰だよお前?」
「ああああぁぁぁーーーー!!!」
大男は突然獣のような雄たけびを上げると拓海に向かって突進してきた。手に持っていた傘を大きく振り上げて今にも拓海に投げつけようとしている。
拓海は恐怖に囚われながらも一心に駆けた。全力で走った。大男の形相から溢れえ出る殺意を感じた。
拓海は小中高と野球部に入っており体力には自信があった。だが雨に濡れた服で二十分以上全力で走り、今にも倒れそうであった。
後ろを振り返えると、十mの程の距離を保ったまま大男はまだ追いかけてきている。大男は拓海以上に息も絶え絶えで口から血を噴出しそうな様子だった。それでも大男は決して走るのを止めようとせずに拓海をその目に捉え走るのを止めなかった。
やがて住宅街を抜けて駅近くの繁華街に代わった。雨が降っていても人気は多い、誰もがみな拓海と大男の様子に目を奪われていた。
拓海は闇雲に走っていたわけではない、駅の近くにある派出所に向けて走っていた。彼女とデートする際に見たことがあり、常に警官が一人は待機していた。そこまで逃げ切ればこの男から逃げられると踏んでいた。
拓海が水溜りを踏みつけながら角を曲がった。派出所が見えた。距離にしてわずか二十メートルほどである。助かった。鼓動は早鐘のように打ちながらも拓海は安堵した。
もう十メートル、五メートル、派出所が目前というところで足が絡まり拓海は転倒した。
膝を思い切り地面に打ち付けた。ズボンから血が滲んでいる。だが、痛みはまったく気にならなかった。膝の痛みによりも早くこの場から離れなければ大男に殺されてしまう。現に後ろからは大男の足跡が近づいている。
拓海は這って進んだ。新品のシャツが泥で汚れるのも気にならなかった。背後から大型の獣のような息遣いが近づいて来る。二人の距離はもう二三歩も離れてはいない。拓海は恐ろしくて振り返りたくなる気持ちを抑えて這い進んだ。
『っつったすけって!!』
拓海は間一髪派出所に転がり込んだ。泥だらけでうずくまる拓海をみて警官が目を丸くしている。
「どうしたんだ!?」
「うしっし後ろ、おっ男に、追われって!!」
警官は拓海の容態を気にしつつも、腰にかけた警棒を握り締め外に出た。
「……君、外にはだれもいないよ」
拓海は息を整えながら四つん這いで外の様子を伺った。雨の降りしきる駅前には大男の姿は無かった。
拓海は電車で家路に向かっていた。警察で下着だけ貸してもらったが上着は半乾きなので気持ち悪かった。
派出所では大男の人相と服装を聴かれ、パトロールを強化するとだけ言われた。まだ事件になっていないので大規模なことは出来ないらしい。拓海は必死で大男の危険さを伝えようとしたが、姿さえ見ていない警官の対応は変わりそうも無かった。
拓海が家に戻るとすでに一六時を過ぎていた。父と母は旅行に行っており、自立している姉は実家には帰ってこない。今日家にいるのは拓海一人だった。
今朝までは友達を招いて夜遅くまで騒いでいようと考えていたが、もはやそんな気にはなれなかった。手早くシャワーを浴びて自室に入り眠りこんだ。
拓海はふと目を覚ました。体中から汗が噴出してじめじめと気持ち悪い。時計を見てみると深夜の二時だった。汗に濡れた下着を替えて再びベットに入るが、すっかり目は覚めていた。しばらくは眠れそうも無い。
携帯を取ろうと上体を上げたとき、
『ベキ』
ドアの向こう側から木材の乾いた音がした。拓海の心臓は衝撃で止まりそうになった。
ドアの向こう、階段からの音だった。拓海は呼吸するのも忘れて、ドアを注視した。
『ベキ』
再び音がした。しかも音はさっきよりも大きく、部屋に近づいている。拓海の鼓動は自分で分かるくらい音を立てていた。ドアの向こう、階段を登ってくる者がいるそんな気配を感じた。
拓海は目を見開いた。するとドアがゆっくりと内側に開いた。
『グスッ』
ドアの向こう、暗闇の中から巨大なブーツを履いた足が出てきた。
『ギャーーーー!!!』
拓海は悲鳴を上げてベットから立ち上がった。咄嗟に携帯を探し、机のうえにあったそれを手に取った。
拓海の悲鳴を聞き、もう隠れる必要は無いと悟ったのか。ドアは半分開いた状態から跳ね上がるように乱暴に開かれた。ドアの向こうから現れたのは散々拓海を追いかけてきた大男であった。
拓海は叫び声を上げながら大男と対峙した。大男も拓海を見据え動こうとはしない。拓海はある物が目に入り全身の毛が逆立った。大男の右手には二十センチあろうかという包丁が握られていた。鋭い刃は部屋の中の僅かな光を反射して鈍く光っていた。
大男は拓海に向けて踏み出した。拓海は声にならない悲鳴を上げて、手に持った携帯を大男に投げつけた。
携帯は大男の額に命中したが、大男は何事も無かったかのように歩み続ける。
拓海はベットの脇に置いてある重たい大型の目覚まし時計を持ち上げた。大男に向けて投げつける。
目覚まし時計は大男の頭に当たり、単一の乾電池が飛び散った。大男もさすがに怯んだのか頭を抑えて苦しそうな声をあげその歩みを止めた。
拓海はその隙にベットを飛び降りた。部屋の隅においている木製のバットを手に取り、大男を威嚇するように構えた。
「くるな!! くるな! このやろう!」
拓海は半分パニック状態になりながらバットを振り回した。感情が高ぶり、自らを追い込む理不尽に対する非難が口を突いて出てきた。
「なんだよ!! なんなんだよ! おまえ!? なんでおれのとこにくるんだ!?」
「……」
大男の昼間とは違う深く沈んだ黒い瞳が拓海を捕らえている。
「……おれのことわすれたのか?」
大男の声だった。その声は意外なほど高く、歳の若さを感じさせた。
「知らない! 知らないぞ! お前みたいな奴!」
「あああぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!」
大男は苦しみをまとった奇声を上げて拓海に突進した。包丁を突き出し拓海を突き刺さんとしている。
拓海も叫び声を上げて無茶苦茶にバットを振り回した。
すると偶然バットの先が包丁を持つ大男の手に当たった。大男の手から包丁がこぼれ落ちる。
バットは大男の手首にあたったようで、その箇所は肉が削げて白い骨が見えていた。大男は痛みに耐えかねる様にその場に膝を着いた。
恐怖に囚われた拓海は何度も何度も大男に向かってバットを振り下ろした。大男はたまらず体を丸めて両手で頭を守るように固まった。
「おまえなんか知るか! でていけ!!」
何度もバットを打ちつけた後に拓海は大男が微動だにしない事に気がついた。拓海の内に殺される恐怖とは別の恐ろしさが沸いてきてバットを持つ手を緩めた。
そのときを待っていたとばかりに大男は叫び声を上げて拓海に突進した。
拓海は胸の辺りを大男に押さえつけられて後方に吹っ飛んだ。背面の壁と大男に挟まれて息が出来なくなった。大男が拓海から離れ呼吸ができるようになったかと思うと、腹部に強烈な衝撃が襲った。大男の巨大な手がめり込んでいた。
あまりの衝撃に吐しゃ物を吐き、気を失いそうになった。
拓海の目は涙を溢れさせながらも大男の姿を追った。大男は這い蹲る拓海を見下すように立っていた。そしてその手には鈍く光る包丁が持たれていた。
拓海の目に手に持った包丁を高く振り上げる大男の姿が映る。拓海は今ここで殺される事を覚悟した。
「待て!! 動くな!!」
包丁が振り下ろされる刹那、部屋に怒号が走る。ドアを突き破り三人の警官がどかどかと部屋の中に入り込んできた。警官たちは大男の背後に警棒を構えて立ち尽くした。
「その包丁を降ろして、その子から離れるんだ!」
警告を聴いた大男は包丁を振り上げたまま、警官達をゆっくりと一瞥した。巧みの目には薄明かりの中で大男の口角が微かに上がったように見えた。
次の瞬間大男は拓海に振り返り包丁を振り下ろした。だが、包丁が拓海に刺さるよりも警官の警棒が大男の手首に届く方が僅かに早かった。
包丁は拓海の腹の横を通り過ぎ、フローリングに突き刺さった。すぐさま警官たちが拓海から大男を引き剥がした。
大男は拓海が見守る中パトカーに連行された。両腕を手錠で押さえられて抵抗するそぶりは見せなかったが、拓海の姿を見つけるとパトカーに連行されるまでジッと睥睨していた。
そこまで自分が憎まれる覚えのない拓海はただ困惑するだけだった。
家の周りはパトカーが三台も止まっており、寝巻き姿の野次馬でごった返していた。
中年の警察が一人拓海に近づいてきた。中年の警察に事情を聞かれたが大男に覚えの無い拓海は事の顛末を上手く説明することが出来なかった。
しばらく中年の警察の問いに答えていると、向かいから若い警官に連れられた背の小さな中年の男が歩いてきた。
背の低い男を連れてきた若い警官が言った。
「この人が君が襲われていると連絡してくれたんだ」
拓海は言わば命の恩人である男に礼を述べようと思ったが、拓海を凶弾するような背の低い男の目に困惑して声が出なかった。
拓海はこの男を見た時何かを感じた。この男の風貌、そして見る者に嫌悪感を抱かせる目……
凍っていた記憶が解けるように思い出した。今、目の間にいる男は自分が小学生の時の同級生に似ていた。
拓海の顔に出た驚きを察知したのか背の低い男がしゃべり出した。
「思い出したかい、拓海くん」
「……ああ、はい……」
「ワシのことも覚えてるかい? 雅史の父親だよ」
「……ええ、はい……」
拓海と同じクラスだった雅史。クラスの中で一番背が低くて、机の上でずっと本を読んでいるおとなしい子であった。
拓海は雅史を虐めていた。雅史の目が気に入らなかった。うじうじと辺りの雰囲気ばかり伺っている臆病者の目。見ているだけで腹が立った。
「気付くのが遅いんじゃないかぁ!! あんなに酷い事しておいて!!」
突然雅史の父親が大声を張り上げた。野次馬の視線が集中して、拓海の隣にいる警官が身構える。
「雅史はね、家を出るときに君を殺すって言っててね、ワシはあの子を人殺しにはさせたくないから……」
「……」
「あの子は君に虐められてから、家から出れなくなったんだ。身体は見違えるように大きくなったけど、心はずっと苦しんで人前に出れなくなったんだ」
「長い間病院に通ってやっと社会に溶け込めるようになったのに……」
「電車の中でのうのうと幸せそうに居眠りしてる君を見て我慢できなくなったんだ」
「自分は辛い思いをしてるのに君は、あの時の事を何も感じていない……」
「……」
拓海は何も答えなかった。
『バキッ!』
雅史の父親は拓海に殴りかかった。拓海は尻餅をついたが、雅史の父はすぐに警察に取り押さえられた。
「わかってんのか! このやろう!! 人の一生ぶち壊したんだぞ!! 少しくらい謝ったらどうだ!!」
暴れる雅史の父親は警察に押さえつけられてパトカーまで連行された。
拓海が立ち上がるのに中年の警察が手を貸してくれたが、その目の底では拓海の存在を侮蔑している様に感じた。
拓海は分からなかった。謝れと言われたが何について謝ればいいのか?
確かにかつて雅史の事は虐めたが、雅史を疎んじていたのはクラス全体の空気であり、拓海一人ではない。
自分はただ手を下しただけである。自分が居なくてもきっと誰かが雅史をクラスから排斥しようとしただろう。
拓海の考えは、次第に自己弁護に傾いていった。
謝る? 冗談ではない。こっちは殺されかけたんだ! 逆にあの親父から慰謝料ふんだくってやる!
拓海には分からない。彼らの気持ちにはなれないのだから。
終わり




