その4
その辺りは起伏が激しく、ごつごつした岩山が方々に聳え立っていた。固い岩の間にも木々は逞しく根を張り、遠くから見れば緑に覆われた緩やかな丘にしか見えない。石の洞窟は、そんな岩山にぱっくりと口を開けた裂け目のひとつだった。長い年月のうちに岩山から剥がれ落ちた岩石が転がり、付近は迷路のように入り組んでいる。よそ者が気安く入って来られる場所ではない。
洞窟に入ると私は冷たい床に毛布を広げ、おばあちゃんをその上に座らせた。狼の背に揺られたせいか息が荒い。ぶどう酒を飲ませようとして、重い瓶を小屋に残してきたのを思い出した。
「ヘルガ、大丈夫ですか?」
シグがいたわるようにおばあちゃんの手に鼻先を押し付ける。
「ああ、大丈夫だ」
今までおばあちゃんの名前を知らなかったことに私は気付いた。村人はおばあちゃんの話は避けるし、薬屋の主人も「あの方」とか「ご老体」なんて曖昧な呼び方しかしない。シグとおばあちゃんは深い絆で結ばれているようだ。彼は何百年もの間、この森の魔女に仕えてきたと言った。いつからおばあちゃんを知ってるのだろう。
「ほら、赤頭巾のところにいっておやり。あたしにヤキモチを焼いているよ」
おばあちゃんがからかうようにシグの首を押す。自分がつまらなさそうな顔をしていたのに気付き私は赤くなった。シグは落ち着かない様子で私に向かって数歩歩き、少し離れたところに腰を下ろした。
「どうかしたの?」
「本当は、あなたにこの姿を見られたくないのです」
シグの恥じ入る様子に、おばあちゃんが笑いだした。
「そりゃあ、あんな綺麗ななりをして田舎娘を騙してたんだからねえ。世間様じゃ、お前みたいなのを詐欺師って呼ぶんだよ」
「そんなこと、ちっとも思ってないわ」
私は大声でそう言うとおばあちゃんを睨んだ。それでもシグが気まずそうにもじもじしているので、私は話題を変えることにした。
「これからどうするの?」
「奴らの狙いはあたしだからね。小屋の辺りを探して見つからなければ、諦めて帰るしかないだろうね」
「でもまた戻って来たら? おばあちゃん、もう魔法は使えないんでしょう? 悪い人が来るたびに、逃げ出さなきゃならないの?」
「さっきのは芝居だよ。昔ほどじゃないにしろ、まだ少しは使えるさ。孫にちょっかいを出す狼を懲らしめるぐらいにはね」
狼の巨体がびくりと動いた。 おばあちゃんはシグをからかうのが楽しくて仕方ないみたいだ。
「だがね、今日はあまり具合がよくないんだ。五人も追い払うのは骨が折れそうだからね、次はしっかり下準備をして、出直して来たところをとっちめてやるさ」
おばあちゃんは半分嘘をついている。確かに今日は具合がよくないかもしれない。でも最近は調子のいい日なんてほとんどないのだ。おばあちゃんのまじないで、森も、村も、王様の住む都も守られている。そうシグは言っていた。もしおばあちゃんの身に何かあったら、どうなっちゃうんだろう?
「悪い人たちは今どこにいるの?」
おばあちゃんは目を閉じ、しばらく黙り込んでいたが、やがてまた目を開いて首をひねった。
「おかしいね。奴ら、こっちに向かっている。近づいてくるよ」
シグは洞窟の入り口から頭を突き出すと、風の臭いを嗅いだ。
「連中に小道から外れる度胸があるとは思いませんでしたね」
「気配は消したつもりなんだがね。あたし達の居場所をつかんでるようだ。手引きしている奴らがいるね」
手引きをしたのは『人間を憎む者たち』だろう。シグも同じ事を考えたらしく、腹立たしげにうなり声をあげる。どうして森を守るおばあちゃんが『人間を憎む者たち』を森から追い出してしまわないのか、彼に尋ねたことがある。人間たちよりずっと早くから森に住んでいた彼らには、森で暮らす権利があるのだとシグは教えてくれた。
「戦うしかありませんね」
「ああ、だが、こいつらからは黒い魔法の臭いがぷんぷんするよ。手ごわいかもしれないね」
「黒い魔法ってなに?」
「邪な奴らが使う魔法だよ。こいつらは隣国からの刺客かもしれないね。あたしの守りがなくなれば、この国に戦を仕掛けてくるつもりなのさ」
「邪な奴らって、隣の国の人達の事なの?」
「いいや、この世の中には昔からね、人間の怒りや欲や苦しみを糧にしてる、醜くて薄汚い奴らがいるのさ。隣の国をけしかけて、戦を起こそうとしてるんだ。この国も隣の国も、奴らにとっちゃただの食い物に過ぎないんだよ」
背筋を冷たいものが走った。おばあちゃんの病が重くなってからというもの、真っ黒い波がひたひたと押し寄せてくるような気味の悪い予感に襲われることがあった。それが何だったのか分かった気がしたのだ。
「おばあちゃんはそんな恐ろしい相手と戦っていたの?」
「ああ、この森の力のお陰でね。だが、あたしがいなくなれば、この森も奴らの手に渡ってしまう」
「でも、森は私達の味方なのでしょう?」
「森は誰の味方でもないんだよ。残念なことにね」
諦めたようにそう言うと、おばあちゃんは立ち上がろうとした。シグが慌てて跳ね起きるとおばあちゃんを制した。
「いけません、あなたはここから私を守っていてください。赤頭巾、ヘルガを頼みますよ」
さっきまでとは打って変わった態度で、シグが私に話しかけた。大きくて優美な漆黒の獣。長い時を生き抜いてきた魔法に満ちた生き物。
「シグ。あなたは醜くなんてないよ。とても綺麗」
私はシグの首に両腕を回すと、しっかりと抱きしめた。黒光りするたてがみに顔を埋めれば、暖かな森の香りが鼻をくすぐる。
「シグに会いたかった」
彼の大きな頭が、私の髪の毛に押し付けられた。
「私もです。赤頭巾」
名残惜しそうに鼻の先で私の頬に触れると、シグは私から離れた。
「ヘルガ、お願いします」
おばあちゃんは頷き、目を閉じる。ゆらゆらと洞窟の中を漂っていた光の粉が、一斉におばあちゃんに向かって動き始め、螺旋の軌跡を残して身体へと吸い込まれていく。やがて私たちの背後、森の奥の方角から、光の奔流が流れ込んで来た。
「だめだ、これが精一杯だよ」
激流はますます勢いを増し、おばあちゃんの身体はまばゆいほどに輝いている。さっき小屋の中で私が集めた力とは比べ物にならない。何がだめだと言うのか分からず、私はおばあちゃんとシグを交互に眺めた。
「これで十分です。すぐに終わらせます」
シグはもう一度私の顔を見つめると、くるりと向きを変え、鉄砲玉のように表へと飛び出していった。私はおばあちゃんの邪魔にならぬよう、少し離れたところに座ると息を殺して待った。
やがて遠くから男たちの叫び声が聞こえた。苦痛の混じった悲鳴。泣き叫ぶ声。そして……銃声。
おばあちゃんが身体を二つに折り曲げ、大きく息を吐き出した。目標を失った光の粒たちは一斉に方角を変えると、潮が引くように洞窟の壁の中へと消えて行く。急に辺りが闇に包まれた気がした。
「どうしたの? 何があったの?」
苦しそうに喘ぎながら胸を押さえるおばあちゃんを、私は助け起こした。顔には血の気がない。
「あたしは大丈夫だ。あいつら、猟師を連れてきたんだ。まじないを込めた弾を使ったんだよ」
――猟師?
私は気付いた。違う、痛みを感じたのはおばあちゃんじゃない。シグだ。
「おばあちゃん、私、行くわ」
「おやめ、危ないよ」
引きとめようとするおばあちゃんの手を振り払い、私は銃声の聞こえた方角へ一目散に走った。