その3
あの事件から半年が過ぎた。森の中はすっかり秋めいて、分厚く積もった落ち葉の上をリスや鳥達が忙しく飛び回っている。シグは相変わらず姿を見せようしない。私は彼に会うのを半ば諦めかけていた。
その日も私は大きな籠を抱え、おばあちゃんの小屋の扉を開けた。最近はおばあちゃんは昼間も眠っている事が多い。起こさぬように忍び足で中に入り、そっと棚に籠を載せる。 頭巾を脱いで薬のびんを取り出すと、まっすぐにおばあちゃんの寝ている寝台に向かった。
「おばあちゃん」
寝台の上の毛布のふくらみに向かって私は声をかけた。
枕の上に見えるおばあちゃんの頭が黒っぽく見えて、おや、と首を傾げる。おばあちゃんは白髪だったはずなのに。覗き込もうとした瞬間、毛布が勢いよく跳ね上がり、巨大な獣が姿を現した。
――狼だ!
私は叫び声をあげ、扉へ駆け寄ったが、狼は私の頭上を軽々と飛び越え、扉の前に着地した。くるりと向きを変えると、私に向かって獰猛なうなり声を上げる。
退路を絶たれた私は、慌てて駆け戻ると、寝台によじ登った。子牛ほどの大きさがある真っ黒い狼。村人達の話に出てきたのはこの狼にちがいない。漆黒の毛を逆立て、歯茎を剥き出しにしてうなりながら、狼は寝台の前を行ったり来たりしている。噛み殺そうと思えば簡単なはずなのに、猫がネズミをもてあそぶように、私をなぶって楽しんでるんだ。
――おばあちゃんはどうしたんだろう? 食べられちゃったの?
その時、足元から押し殺されたような声が聞こえてきた。おばあちゃんだ、おばあちゃんが私を呼んでいる。
「どこにいるの?」
「寝台の下さ。こいつが突然飛び込んできてね、危うく食われちまうところだったよ」
苦しそうにおばあちゃんが答えた。
「そこなら狼も入れないのね。私もそこに隠れるわ」
「駄目だよ。そいつから目をそらしちゃまずい。背中を向けたらやられちまうよ」
「だって、ここにいたら食べられちゃうわよ」
私は狼の剥き出しになった白い牙を見つめて身震いした。
「いいかい、お前は私の孫だ。強い魔法の持ち主なんだよ。そんな狼を追い払うぐらい朝飯前さ」
「じゃあ、どうしておばあちゃんが魔法を使わないの?」
「病のせいであたしの力はもう使い物にならないんだ。こうして息をしてるのが精一杯だよ」
狼は相変わらずうなり声を上げながら、部屋の中をぐるぐる歩き回っている。
「でもどうやるの? 私、魔法なんて使えない」
「息を深く吸ってごらん。身体の中心に力を集めるんだよ」
「力って何?」
「いいからやってごらん」
私は狼から目を離さないようにしながら、おばあちゃんに言われたとおり息を吸い込んだ。 でも、何も起こらない。狼が動きを止めた。そろそろ私を仕留めることにしたらしい。跳躍しようと身体を低く床に沈める。
――シグ、シグ、助けて。
私は心の中でシグを呼んだ。狼より強いシグ。私を守ってくれると言ったシグ。大好きなシグ。 もう一度シグに会いたい。こんな所で獣に殺されるわけにはいかない。彼に会えるまで私は死ねない。
そう思ったとき、身のうちに不思議な感覚が湧き起こってきた。手足の先から暖かいものが注ぎ込まれてくるのだ。これがおばあちゃんの言ってる力なのだろうか。私は部屋の中を見回し、あの白い花の花粉のように輝く金の光が、小屋の壁を突き抜けて私へと集まってくるのに気付いた。森の奥の方角から、川のように流れ込み、木の根に吸収される水のように手足を伝って私の身体へと入り込んでくる。
世界がこんなにきらきらと力で溢れていたなんて、今までちっとも気付かなかった。
急に気が大きくなった私は、狼に向かって叫んだ。
「下がりなさい!」
私自身が驚くほどの迫力に満ちた声に、狼は慌てて跳びずさった。寝台の下のおばあちゃんが励ますように声をかける。
「うまいもんだよ。力が集まってきたようだね。さあ、その力を思い切り、そこのケダモノにぶつけておやり」
「どうしたらいいの?」
「あいつの中に悪しき心を感じるだろう? それを目掛けて思い切り投げつけてやればいいのさ」
小娘に驚かされたのが悔しかったのか、狼は怒りのこもった唸り声を上げて私を睨んでいる。再び、飛び掛ろうと身構えるのを見て、私は慌てた。
「駄目、何も感じないわ」
「目をつぶってごらん。そのほうがよく見える」
今にも襲い掛かろうとしている狼を前に目をつぶるのは怖かったけれど、私はおばあちゃんの言葉を信じぎゅっと目を閉じた。不思議なことに、目を閉じていても部屋中にあふれる金色の光は消えない。私のすぐ目の前にいる狼の存在もはっきりと感じられた。木々が空へと枝を伸ばすように、土の中に根を張るように、私の感覚は広がり、狼の中へと入り込んでいく。
そして、私はそこに探していたものを見つけた。
私が再び目を開くと同時に、狼が跳んだ。巨大な身体が私の前に着地する。寝台が大きく揺れ、おばあちゃんが悲鳴をあげた。
「赤頭巾! どうしたんだい?」
狼は私に躍りかかり、私は両手を大きく広げて狼の身体を受け止めた。そして、狼の鮮やかな緑の瞳に向かい私は言った。
「こんにちは、シグ」
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「こんにちは。赤頭巾」
長い舌で自分の鼻の頭をぺろりと舐めると、狼は礼儀正しく挨拶を返した。喉の奥から絞り出されるような低い声は、私の知っているシグの澄んだ声とは似ても似つかない。それでもこの狼は確かにシグだった。
おばあちゃんがけたたましい声で笑いながら、寝台の下から這い出して来た。ばさばさに乱れた白髪はほこりだらけだ。
「たいしたもんだね。こいつの正体を見抜くとは、さすがあたしの孫だよ」
しわだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、おばあちゃんは得意そうだ。狼に食べられずに済んだ私は、安堵のあまり寝台の上にぺたんと座り込んだ。急に腹が立ってきてシグの顔を睨み付ける。
「ひどいじゃない。食べられちゃうかと思ったわ。どうしてあんなことをしたの?」
「すみませんでした。あなたのおばあ様の言いつけだったのです」
シグは申し訳なさそうに大きな耳をぺたりと後ろに倒した。そんな事だろうとは思ったけど。私は問いかけるようにおばあちゃんの顔を見た。
「こいつがね、お前に会いたくて仕方がないと泣き付いてくるから、試してやったのさ。もしお前がこいつの正体に気付くようなら、お前たちの仲を許してやるってね」
私は目をまるくした。
「仲を許す?」
「お前だってまんざらでもないんだろう? あんた達の間にはたしかに絆が見える。あたしは何も言わないことにしたよ」
おばあちゃんの言葉に、狼は上目遣いで私を見上げた。恥ずかしそうだ。
「でも、狼の姿をしているわ。おばあちゃんが意地悪をして変えてしまったの?」
「おや、お前には分からないのかい? これがこの子の本当の姿なんだよ」
――そんな……。
私はシグに話しかけた。
「シグ、そうなの?」
「そうです。あなたを怖がらせないように人の姿をしていました」
私を花畑で待っていてくれたシグは、肌も服も真っ白で髪の毛はお日様みたいにきらきらしてたのに……。この狼は鼻の頭から尻尾の先まで、見事なまでに真っ黒だ。戸惑いを隠せず私は言った。
「全然違うのね」
「醜い狼の姿だと、あなたに嫌われてしまうと思ったのです」
「それにしちゃあ、ずいぶんと見栄をはったもんだね。あの姿じゃ惚れるなって言うほうが無理さ」
おばあちゃんの嘲るような口調に、 狼は気まずそうに自分の足元を見た。
「ねえ、おばあちゃんがいいって言ったら、シグはまた人に戻れるのね」
「それが……」
言い淀んだシグに私は不安になった。
「もしかして、ずっとこのままなの?」
おばあちゃんがまた笑った。
「心配はいらない。お前が少し修行を積めば、シグはまた人に戻れるよ。この子は私の力を借りて人の姿をしていたのだからね」
そこで急におばあちゃんは真顔に戻り、横目でシグを睨んだ。
「借りると言うより、勝手に拝借と言ったほうが正しいかもしれないがねえ」
シグは大きな頭を前足の間に挟みこみ、ひゅーん、と鳴いた。あれからおばあちゃんに相当絞られたのだろう。
「修行って何のこと?」
「魔法の修行だよ。お前がうまく力を使えるようになれば、シグもお前の力を借りられるようになるだろう? お前は私の後を継ぐのにふさわしいだけの力を持っている。見ての通り、私は病に侵されているからね、魔法は弱くなる一方だ。そろそろお前には、跡継ぎとしての修行を始めてもらわなくてはね」
「おばあちゃんは、私に魔女になれって言うの?」
「嫌なのかい? お前だってこの歳になれば、働きに出なくちゃならないよ。街でお針子でもして、金持ちの男に嫁ぐつもりなのかい」
私はシグの顔を見た。まん丸な二つの瞳が、不安の色を浮かべてこちらを見返している。
「私が魔女になればシグは人の姿に戻れるのね」
「ああそうだ」
「それならやるしかないわね。どんなお金持ちの男よりも、シグのほうがずっと素敵だもの」
シグの尻尾がぱたぱたと動いた。狼も尻尾を振るなんて知らなかった。
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突然、おばあちゃんが窓の方を見た。
「来るよ。五人だ」
シグが勢いよく跳ね起きると背中の毛を逆立てる。喉の奥から低いうなり声が漏れた。
「どうしたの? 誰が来るの?」
「この森を狙ってる奴らがいるんだよ。あたしの力が弱ったからまじないも弱くなった。もう何もかも締め出してはおくのは無理なのさ。その隙を突かれたね」
シグが悔しそうにうなる。
「すみません。私が見張っていなければならなかったのに」
「シグが?」
「まじないを幾重に重ねても、どうしても隙間を抜けてくる奴がいる。そいつらを追い払うのがシグの役目だったのさ」
「私は何百年もの間、この森に住む魔女と契約を交わしてきました。森を守る代償としてこの森で暮らすことを許されるのです」
私は首を傾げた。
「おばあちゃんのお手伝いをしていたの? それなのにおばあちゃん、シグに冷たかったじゃないの」
「真っ黒なケダモノの分際であたしのかわいい孫を狙うからさ。当たり前だろう?」
そう言うとおばあちゃんは椅子に座り込んだ。顔が青白い。気勢を張って元気なフリをしてはいるが、相当弱っているのだろう。
「ここにいたら見つかっちゃうわよ」
不安そうな私にシグが提案した。
「石の洞窟まで行きましょう。あそこの方があなた達を守りやすい」
「でもずいぶん距離があるわ」
おばあちゃんが驚いた顔で私を見る。
「どうして知ってるんだい」
私はぺろりと舌を出した。
「シグに教えてもらったの。森の中のことは何でも知ってるわ」
「だってお前、いつも道を通って来てたんだろう?」
おばあちゃんは恐ろしい形相でシグを睨みつけ、かわいそうなシグは惨めな様子で、尻尾を後ろ足の間に挟み込んだ。
「お前、あたしを騙してたんだね」
「すみません。どうしても赤頭巾と会いたかったのです」
シグの声は消えてなくなりそうだ。
「いくら守られているからと言っても、森の中は危険なんだよ。あたしを追い出してあいつらを招きいれようって奴もいるんだ」
「だから私が守ってきたのです。彼女には誰にも手を触れさせはしません」
おばあちゃんに怯えながらも、シグは最後の言葉だけは力強く言い放った。
私は寝台の上の毛布をたたむと小脇に抱えた。部屋の中を見回し、必要になりそうなものをすばやく籠に収める。
「おばあちゃん。その話は後にして。早く行かないと悪い人たちが来ちゃうわ」
おばあちゃんはシグの首に腕を巻きつけ、よろよろと歩き出した。やっとの事で前庭のブナの木まで辿り着いたが、この調子ではいつになったら目的地に着けるのかわからない。
「ねえ、シグに乗っちゃったら?」
「やめとくれ。狼にまたがるだなんて、まるで魔女みたいじゃないか」
「だって魔女なんでしょう?」
「みんなはそう呼ぶがね。あたしには魔法らしい魔法は使えないんだよ」
私は有無を言わさずおばあちゃんの腰を抱えると、シグの背中に押し上げた。
「しっかりつかまっていてください」
シグが勢いよく走り出す。おばあちゃんは悪態をつきながらシグの首にしがみついた。
「そんなに大きな声を出しては見つかりますよ」
毛布と籠を抱え、私もシグの後を追って走り出した。異変に気付いたのか生き物達はすっかり姿を消し、森の中は静まり返っている。洞窟を目指して私達は昼下がりの森を走り抜けた。




